年が明けた。
と言ってもずっと休暇中だし顔ぶれも変わらないのでピンと来ない。
いつもと違うことをしたと言えば、前文明では年明け最初の朝日をありがたがって拝みに行く慣習があるとノクトが言っていたので、明け方、まだ暗いうちから星詠《よ》みの灯台に行ったくらいだろうか。
誰にもすれ違わないまま歩いていると、まるで僕たち以外の人類が一晩で滅んでしまったかのような錯覚を覚える。能登大地が最後に見た世界もこうだったのだろうか、なんて少し思う。
クリスマスのあの事件は、ヴィヴィが全く目を向けてくれないことを逆恨みしての凶行だった、と報告が上がっていた。
特にヴィードを狙ったものではなく、ヴィヴィの相手なら誰でも良かった、相手を全員消してしまえばヴィヴィも自分を見るしかなくなるだろう……と言うかなり壊れた思考に因《よ》るものらしい。
「思わせぶりな態度をとるヴィヴィが悪い」なんて声もチラホラとは聞こえたけれど、多くの取り巻きは「ヴィヴィは被害者だ。自分を押し付けたマルヴォが悪い」と徹底してヴィヴィの擁護に回った。ひとつ間違えれば自分がマルヴォになっていたかもしれないという自戒からか、批判してヴィヴィに嫌われるのは困るという保身か、彼らの思惑はそのあたりだろう。
ただ、取り巻きの数は格段に減った。
第2のマルヴォが何時《いつ》現れるか知れない中で、第2のヴィードになることを恐れているのは間違いない。
ヴィヴィほど派手に動いてはいない、所謂《いわゆる》劣化版のようなことをしていた者は当然、自分を棚に上げて非難することなどできず、そうなるとヴィヴィに石を投げられるのは「女のふりをすればチヤホヤしてもらえる」と思ったことなど1度もない者に限られるわけで、自《おの》ずと声は小さくなる。小さくなるけれども、なくならない。
表立って悪《あ》し様《ざま》に言う者はいないけれども、針の筵《むしろ》に座っているようで居《い》られないのだろう。自身の怪我の治療と、ヴィード、そしてチャルマの見舞いと称してヴィヴィは連日のように病院に通っている。寮で見かけることはほとんどない。
マルヴォは戻って来ない。
卒業までの6ヵ月で戻って来られるか否《いな》か、少なくとも再犯の引き金になりかねないヴィヴィの近くに戻すことはないだろうと噂されている。
今、何処《どこ》にいるのか。町の中にいるのか、町の外にいるのか。
脱走者が誰ひとりとして帰って来ないように、町の何処《どこ》かに規律を乱した者を閉じ込めておく場所があって、其処《そこ》で更生への道を探っているのかもしれない。
無差別に鉄パイプを振り回す奴《やつ》が、閉じ込められているとは言え同じ町の中にいると言うのはぞっとする。
「消すって手もあるけどな」
まるで他人ごとのようにノクトは言う。
生かして更生させるなんて食費も時間も労力をも費やさねばならないわりに結果が出るとは限らない。独裁者ならそんな面倒をかける前にさっくり殺してしまうものだ。
ノクトの顔で、ノクト《能登大地》はそう言う。
クリスマスの後も、彼は以前と同じように――12月23日がなかったかのように――接してくる。あの日一瞬だけ近付いた距離はそれ以上に広がったままだけれども、ふたりとも気付かないふりをしている。
「レトは独裁者じゃないよ」
そう反論しつつも、あの日思ったことが頭の片隅にこびりついたまま離れない。
レトは独裁者じゃない。でも何時《いつ》でも独裁者になることができる。そのための駒は町中に配置されている。
いや。
レトに権限を委《ゆだ》ねて数百年、彼女はずっと人間を守ってきた。
機械は人間に危害を加えない。
命令に背《そむ》かない。
少なくとも数百年前にレトを作った先人は、彼女に自我が芽生えて暴走する危険をも考慮したはずだ。
「違うとは言い切れないだろう」
「言い切れるよ。レトはそんなことしない。第一、此処《ここ》はノクトの世界とは違うんだ。1度道を踏み外したくらいで処分できるほど人間の数も多くない」
「そのひとりを生かしたせいで、倍の命が消えたかもしれないんだぞ?」
僕は参考書から顔を上げ、ベッドに寝転がったまま本を広げているノクトに目を向ける。
休暇になってから真面目に机に向かっているところを1度も見ないけれど、ノクトはきちんと勉強をしているのだろうか。宿題も出ていると言うのに。最終日に泣きついて来たって、絶対に見せてやらないんだから。
というのは、言ったところで聞きやしないのだから言わないが。
「だから隔離してるじゃない。ノクトはそんな本ばっかり読んでるから発想が物騒になるんだよ」
世界を支配する人工知能との戦いだの、そういう殺伐としたSFばかり。
僕はノクトの傍《かたわ》らに積まれた本を見て溜息を吐《つ》く。彼《ノクト》の蔵書にはもっと平和でファンタジー寄りな話も多々あるのに、彼《能登大地》はバトルだの人類滅亡だのと言った話ばかり選んで読んでいる。
彼の言うことを鵜呑みにすれば、この世界は彼《能登大地》にとっての未来で、”支配している人工知能”も存在する。だから余計にその方面への期待値が上がるのだろう。
けれど物語の世界に没頭するあまり虚構と現実の区別がつかなくなってきているのなら、病院に行くことを全力で勧《すす》めたい。
「そんな本って、これはお前の幼馴染みが買い集めた本だろ。俺が集めたわけじゃない」
ノクトは本を閉じ、自分のセルエタを摘まみ上げると催眠術にでもかけるようにユラユラと揺らす。
「お前のノクトは利口だよな。紙と電子で本の内容を変えてる」
「同じ本を2回も買う必要がないからでしょ」
「そういう意味じゃない。お前が目を三角にして敵視する機械の暴走だの滅亡だのって内容のは、全部紙本だ。電子書籍でも同じのを売ってるのにな。これがどういう意味かわかるか?」
どういう意味も何も、同じ本を2回買う意味がないから以外に何がある。使える金額が限られているのだから贅沢はできない。
それに表現の自由スレスレの内容かもしれないが、売っているということはレトが「読んでも害はない」と認めたということ。武器や薬物の生成、精神や思考に影響を及ぼしそうな”危険を孕《はら》む内容の書物”はそもそも売られていない。繰り返し読めば何らかの影響は出るかもしれないけれど――。
口にはしなかったがそういう顔をしていたのだろう。ノクトは相変わらず「わかっていない」という目で僕を見る。
「いいか? 電子で買えばその本を何度読んだかまでがレトに知られる。でも紙で買えば”購入した”1回の情報しか行かない。ボロボロになるまで繰り返し読もうが、積読《つんどく》にしようがわからないわけだ。こういう、」
言いながら先ほど読んでいた本を指す。
「”売ってるんだから、それはレトが無害だと認めた本なんだ。何度読んだって構わないだろう”って顔してんな。読んだって構わないさ。でも何度読んだかまで知られるのが問題なんだ」
「……考えすぎだよ。ノクトはそこまで考えて買っちゃいない」
ノクトの言葉を否定しながら、心の中では僕自身の意見をも否定する。
『何度読んだかまで知られるのが問題なんだ』
”繰り返し読めば何らかの影響は出るかもしれないけれど”
全く同じことを、ついさっき思ったばかりなのだから。
「さて。監督生を黙らせたところで」
ノクトはベッドから降りると、僕の手からペンを取り上げた。
「久しぶりにチャルマに会いに行かないか? 顔を見たいってメールが来てた」
チャルマから、と聞いて罪悪感が首をもたげた。
「申し訳ないからって理由で自粛するのはよくない」とあの日もノクトに言われたけれど、それでもやはり何も思わないわけがない。
思い返せばノクトが能登大地だと言い出して以降、チャルマはノクトに興味を持っているようだった。移動遊園地もふたりで楽しく過ごしたようだし、前世がどうとかも人一倍熱心だったし、ノクトが貸した厨二本も喜んで読んでいるし。
メールを寄越したのだって、きっとノクトと厨二話で盛り上がりたいのだろう。
だから、ノクトにだけ連絡してきたのだろう。
「……ひとりで行ってきなよ。僕がいると場が冷める」
「なんか僻《ひが》んでないか?」
「僻《ひが》んでない」
「なら行こう。決まりだ」
ノクトは有無をいう隙もなく、勝手に僕のクローゼットを開けて上着を取り出す。
「ちょ、」
「俺、病院に行く道覚えてないから。帰って来なくなったら困るだろ? 監視してる身としては」
『”この世界に害を及ぼすかもしれない異界からの侵入者”を見張らなければならないのに放棄した。これでノクトが再び行方をくらましたら、今度こそ僕のせいだ』
あの日思ったことが伝わっていたかのような台詞《セリフ》に、僕は反論の言葉を飲み込む。
確かに僕はノクトの動向を監視している。彼の何処《どこ》までがノクトなのか、能登大地とは何者か、利用できるのかを探ろうとしている。
けれど。
手渡された上着に渋々《しぶしぶ》袖を通していると、その上からマフラーをグルグルと巻かれた。
親切なのか嫌がらせなのかわからないけれど、この巻き方はないだろう!? 僕は首と言うよりも顔に巻きつけられたマフラーを引き剥《は》がし、ノクトを睨《にら》みつける。
が、ノクトは妙に満足げな顔をしていて――。
「何だかんだ言って付き合いいいよなお前」
「…………………監視してるだけだよ」
僕は、彼のこういうところがわからない。
病院に向かうバスは前に乗った時と同様、貸し切り状態だった。
商店街を抜けてしまえば後は病院に用がある者くらいしか乗らない路線だけれども、怪我や病気で一刻を争う場合はバスではなくて救急車が走るし、酷《ひど》くなければ保健室や町の薬局で事足りるわけで、そう考えると何故《なぜ》10駅以上も離れた場所に病院を建てたのかが不思議でならない。
すぐに人口が増える予定だったとしても、それならもうひとつ建てればいい。と言うのは素人の考えだろうか。
人口が増えれば1軒だけで対応すること自体無理な話なのだから、近場でひとつ、町が大きくなればまたひとつ、と増やしていくべきだと思うのだけれども。
最初から隔離が目的で建てられたのかもしれない。
例の疫病のような、薬もなければ治療法もわからない伝染病が現れることを想定したのかもしれない。
前人類を滅亡寸前にまで追い込んだあの疫病も、他人との接触を極力避けることが最も効果的な対処法だったと聞いている。
「夏は休暇中の行事と言えば墓参りくらいだから時期をずらすことも可能なんだけど、1月1日はずらしようがないからな」
前回と違うのはノクトがやたらと喋ることだろうか。
暇だからか、窓の外に見るものがないからか、僕に慣れたからかは知らないが、バスに乗り込んで以降、延々と前文明での思い出(と言うかミニ知識と言うか)を聞かされている。
今流れているミニ知識は休暇中の帰省について。
前文明では”家族”や”親戚”という概念が残っていたから、冬期休暇になると学生は家族に会うために、一斉に”実家”へと帰るらしい。
この世界には家族がない。最も”家族”に近い役割を担《にな》っているのは同級生やレトだろう。
同級生が”家族”で寮が”実家”。そう考えると、この時期たったひとり離れたところにいるチャルマに会いに行こうと言うのは現代の帰省――家族が再会するひとつの形なのかもしれない。
が、それはともかく。
「墓参りって何」
出て来る単語がいちいち理解できなくて困る。
「先祖代々の名前を刻んだ石を掃除するイベントだよ」
「掃除がイベント」
「墓は死者の家みたいなもんで、その死者に会いに行く、って言ったほうが正しいかな。死んだ奴《やつ》は掃除できないから俺らでやるわけよ」
そもそも墓を屋外に置かなければ掃除をする必要も減るだろうのに、何故《なぜ》屋外に置くのか。何故《なぜ》炎天下に熱吸収の良い黒い服を着てそれをするのか。
よもや前文明の人々も、数百年後にそんなことをツッコまれているとは思うまい。
「冬は墓には行かないの?」
「行く奴《やつ》もいるけどな」
「行かないなら何しに帰るの?」
「何って……滅多に会えない家族に元気な顔を見せればそれでいいんだよ。あ、美味《うま》いものを食うんだ。冬は特に1月1日に食べる伝統料理があるんだけど、作るの面倒だし買うと高いしで、だから俺ん家《ち》は焼肉やってた。いや、夏もやってたな、焼肉」
前文明の人々は光合成ができないから他の生き物を食べることで栄養を摂取していたと歴史で習ったけれど、どうも食べること自体に娯楽の要素もあったようだ。
僕らが口にするドリンクにもフレーバーはいくつもある。でも同じ味だと飽きるから、という程度の意味しかないように思う。皆で雁首《がんくび》揃えて飲んだところで楽しい、面白いとは思わない。
「此処《ここ》に来てから1度も食ってないなぁ焼肉。歯があるんだから食えるんだよな、今でも」
「さあ……?」
気の利いた返しもできず、僕は膝の上の箱に目を落とす。
焼肉ではないが見舞いの品だ。チャルマの何が悪くて何時《いつ》までも退院できないのかはわからないけれど、食事制限がされているようでもないから大丈夫だろう。
新年祝いの限定品だとかで陽にかざすと金色に光っていたそのドリンクは、はっきり言って味は全く想像できないけれど「何となくめでたそうだ」と言うノクトの一押しで決まった。1月1日はとかく”めでたい”のがいいらしい。
チャルマはノクトのことが好きだからどんなものでも喜んでくれるに違いない。
「何だ?」
「何でもないよ」
ノクトは気付いていないのだろうか。
チャルマがどうしてノクトにだけ会いたいとメールを送って寄越すのかを。
僕たちを呼ぶ時にはいつも僕よりノクトの名が先に出ることを。
窓の外を流れて行くのは、骨張った手を広げたような形の街路樹。
指の隙間から見えるのは見渡す限りの閑散とした更地。
変わり映えのしない風景の連続に、このまま永遠にバスに乗っているのではないか、なんて妄想に入り込みそうになる。
「そう言やあ、この町には墓がないな」
「そうだね。ファータ・モンドに行けばあるんじゃない?」
「子供だって死ぬだろう?」
見舞いに行く前にあまり縁起のいい話題とは思えないが、本人《チャルマ》がいない今のうちだから言えることもある。
チャルマに死の影はこれっぽっちも感じないが、本人が心の底でどう思っているかなんて僕らにわかるはずもない。長引く入院生活で、死を考えないはずもない。
「……死んだら、終わりだからかもしれない」
「終わり?」
「そう、終わり。この世界から消え去るんだ。この体も、人々の記憶からも」
僕らにとって死は決して身近なものではない。
唯一と言えるのが町の外に脱走してそのまま消息を絶つケースだが、長期にわたって砂嵐の中を捜索する者の危険を考えれば何が何でも遺体を探して回収する、なんてことはしない。見つけ出されなかった彼らは砂の中で干乾《ひから》び、崩れ、砂に還《かえ》ると言われている。
脱走したまま戻って来ない者の他にも、卒業を待たずに性徴《せいちょう》が現れた者、罪を犯した者。そのどれもが死を明確にしないまま僕らの前から姿を消す。
僕らは彼らが何処《どこ》かで生きていると思い続けて日常を過ごし、そして何時《いつ》か忘れていく。
”性徴《せいちょう》が現れた者”はファータ・モンドに行くだけだから他とは違うのかもしれない。けれど、2度と会えないのは同じだ。
会えないと言えば。
僕は本当に再びフローロに会うことができるのだろうか。
彼に導かれるまま勉強を続けているけれど、保証は何処《どこ》にもない。
墓があるとすれば病院の近くだろうか。土地はいくらでもある。
僕は窓の外に目を向ける。
しかし見えるのは何もない更地とぽつんとひとつ建つ病院のみ。死者の名を刻んだ石らしきものは何処《どこ》にも見ることができなかった。
「「あ」」
チャルマの病室の前で偶然、ヴィヴィに会った。
自身の治療後に立ち寄ったのだろう。頬に貼られた真新しいガーゼが痛々しい。
「……こっ、これは大したことじゃないんだ。僕は絆創膏《ばんそうこう》を貼らなくてもいいくらいだと思ってるくらいなんだけど」
自然に集まってしまう視線が気になるのだろう。そんなことを言う。
僕もなるべく見ないようにしようと思うのだけれども、顔の4分の1を占める白はあまりにも目立ちすぎる。
ヴィヴィでこうなら担架で運ばれたヴィードはどうなっているのだろう。確かヴィヴィは見舞いに行っているはずだけれども。
「ヴィードはどう?」
「あ、うん……」
ヴィードの話題を出すと、ヴィヴィは煮え切らない様子で目を逸《そ》らした。明らかに今までの取り巻きを話題にした時と態度が違う。
まさか本当に絆《ほだ》されてしまっているのだろうか。
それとも。
少し前まで話題にしていた死が気がついたら隣にいたような、そんな嫌な寒気を感じる。
「ヴィードは……ずっと意識が戻らなくて。だからファータ・モンドに転院しちゃったんだ」
「何時《いつ》!?」
「もうだいぶん前だよ。でもね、向こうのほうが最新医療が整ってるらしいし、意識が戻ればまた戻ってくるそうだから……」
転院だなんて聞いていない。
休暇中だし別段親しくもないからかもしれないけれど、それでも5人しかいない”レトの学徒”のひとりだ。栄養剤の配布などの雑用もひとり減れば残った者の負担が増えるわけだし、連絡のひとつくらいあってもいいだろうに。
死に相当する”2度と会えない者”リストの中に、長期入院する者が入り込む。
今回はヴィードだけれども、何時《いつ》チャルマが同じように姿を消すかはわからない。
そうしたら、2度と会うことは――。
「悪いのは僕なのにね。僕のせいでヴィードはちゃんと卒業できないかもしれない。せっかく”レトの学徒”になれたのに」
「……」
「そんなことないよ」の一言がどうしても出て来ない。僕もノクト同様、ヴィヴィが相手を取《と》っ換《か》え引《ひ》っ換《か》えしていることにはあまりいい印象を持っていなかったからだろう。
言ったところで偽善にしか聞こえないその言葉を本当に発する必要があるのか。
言ったほうが傷付けるのではないか。
ただ、
「……とにかく入ろうか」
と促《うなが》すのが精いっぱいで。
ヴィヴィに対して兄貴面するなと警告したのが利《き》いているのか、口を開けば嫌味しか出て来ないことを本人もわかっているからなのか、バスの中であれだけ饒舌《じょうぜつ》だったノクトは終始無言だった。
前に見舞いに訪れた時と寸分違《たが》わず、チャルマはベッドの上で本を広げていた。
少しやつれたと思うのは、入院してから数ヵ月、良くも悪くも進展しないチャルマに変化を求めてしまったからだろうか。それとも伸びた髪が顔の輪郭を覆っているせいで細く見えただけだろうか。
「ノクト! とマーレにヴィヴィも、久しぶり!」
ただ、声はいつものチャルマで。
予想通り真っ先に呼ぶのがノクトで、僕は思わずこみ上げた失笑を隠すためにノクトの陰《かげ》に隠れてしまった。
「ほら、新しいの」
ヴィヴィや僕にはついぞ見せない笑顔で、ノクトは本を詰めた紙袋を渡している。
”目を三角にする”僕に遠慮したのか、自分が読まない本をピックアップしたのか、ハッピーエンドに終わりそうなファンタジー系が多い。とは言えあのノクトの蔵書だから一癖も二癖もあるのだけれど。
「うわあ! 良かった、前に借りたのは全部読んじゃってさ。暗唱できそうだよー」
そんなチャルマが手にしているのは厨二SFの中でも穏やかな部類に入る1冊。暗唱できると言うくらいだから、何度も繰り返し読んだのだろう。そう考えると、
『――何度読んだかまで知られるのが問題なんだ』
やはりあれらの本は紙でよかった。チャルマにあらぬ嫌疑がかけられては困る。
「で、こっちは見舞い。賞味期限あるから早めに飲めよ」
僕の手からドリンクの箱を取り上げ、ノクトは病室備え付けの小さな冷蔵庫の中に押し込む。本当は僕らの分も入っていたけれど、ヴィヴィと合流して頭数が増えてしまったから開けるのはやめたらしい。
「……って言うか、その頭のやつは何だ?」
詰め終わり、ノクトはまじまじとチャルマの顔を覗《のぞ》き込んだ。その声に僕やヴィヴィもチャルマを見る。
ノクトが指摘したのはチャルマの眉間のあたりに浮かぶ四葉のような小さな模様だった。できたばかりのほくろみたいな色をしている。
痣《あざ》と言うには形があまりにも綺麗に整いすぎていて、シールでも貼り付けたかのようだ。
「あ、気がついちゃった?」
チャルマは少し照れたように口元を歪めてその痣《あざ》に手をやる。
「つくだろ普通」
「うん。僕もね、一昨日の朝、気がついたんだけど」
医師によると体に害を与えるものではないらしい。
だが本当にそうだろうか。痣《あざ》自体は病気の兆候でもなんでもないけれど、ここまでデザインじみた痣《あざ》となると偶然の産物とは言えない。
ノクトの蔵書にも、偉人の生まれ変わりだの勇者の印だので妙な形の痣《あざ》を理由に挙げるものが多々ある。むしろそちらを引用して「だから自分も」と言い出さないだけましではあるけれど……こんなものがいきなり浮かび上がって丸2日、未《いま》だに理由がはっきりしないなんてチャルマの主治医はかなりのヤブではないのだろうか、と失礼ながらそんなことを思ってしまった。
「俺の世界のビンディに似てるな。あっちはシールだが」
そしてノクトはこんなものにも見覚えがあるらしい。
「ビンディ?」
チャルマはタブレット端末を引き寄せ、早速検索を始める。
「ああ、あった。ええと、既婚女性が付ける印」
「既婚女性」
「うわあ! それってもしかして女の子になるって証拠かもしれなくない!?」
僕たちの会話に、今までおとなしくしていたヴィヴィが目を輝かせて割り込んで来た。鞄《かばん》から手鏡を取り出してチャルマに見せている。
「ほら、花みたいでかわいいし、絶対そうだよ!」
チャルマの額の痣《あざ》とビンディは別物だし、それが女性になる証とは言えない。
それはわかっているのだけれど、痣《あざ》の原因すらつかめていない状態で僕らが異を唱えたところで何になるだろう。病は気からとも言うし、前向きな発想でいたほうがとりあえず精神は病まない。
それにわざわざ否定する必要もない。
噂の域を出ないけれど、少なくともこの町では性徴《せいちょう》後に女性に変化する者は少ないと言う認識だ。ヴィヴィのように女の子の恰好《かっこう》をしただけでモテるのだから、本当に女性になると確約されるのであればむしろ人生勝ち組かもしれない。本人が「絶対に女は嫌だ」と思っていない限りは。
鏡をあっちに向けたりこっちに向けたりしてひとしきり痣《あざ》を確認していたチャルマは、ふと思い出したように僕を見た。
「そう言えば知ってる? フローロにも痣《あざ》があったの」
「フローロに?」
僕は首を傾《かし》げる。
フローロに痣《あざ》があったなんて知らない。どうせ「ぶつけてできた痣《あざ》が猫に見えるよかわいいー」とか、その程度のものだろう。彼を厨二《ちゅうに》仲間に巻き込まないでほしい。
「フローロは首のこの辺にあるんだって。襟で隠れるから皆知らないけど」
この辺、と指したのは左側の鎖骨付近。制服を着ている限りは絶対に見えない場所だ。
そして僕の知る限り、彼《フローロ》はそんな襟ぐりの広い服を着たことがない。
「……それをなんでチャルマが知ってるのさ」
「……あ」
思わず出た声は予想以上に低かった。
チャルマは口を開きかけて止まった。僕の怒りに触れたと察したのかもしれない。救いを求めるようにノクトとヴィヴィに視線を動かし、言い出しにくそうにかなりの間逡巡《しゅんじゅん》し、それからやっと観念したように口を開く。
「……………………イグニに聞いたんだ」
イグニに。
ずっと忘れていたかったニヤケ顔が思い起こされる。
旅立ちの日に当然のような顔でフローロの横にいたイグニ。
フローロのセルエタを持っていたイグニ。
襟に隠れて見えない痣《あざ》を知っているということは、それを見たということだ。寮の同室でもないあのふたりにとって、フローロが見せない限りイグニに見る機会などない。
でも何処《どこ》で。
フローロはイグニとは違う。間違っても奴《やつ》の前で服を乱すようなことはしない。セルエタを交換する仲になろうとも、絶対に。
それにフローロは別れる時に「イグニとはそうじゃない」と言った。
あの言葉を信じるのなら……信……じるのなら、フローロが見せたわけじゃない。フローロはそんなことしない。
「海水浴ん時に見たのかもしれないだろ」
「そうだよ。水着だったら見せるつもりがなくたって見えちゃうよ。ほら、それにさ、それってフローロは|痣《あざ》があってもちゃんと卒業したってことでしょ? だったらチャルマのそれも病気なんかじゃないってことじゃない。お医者さんが言ったとおりだよ! ね!」
黙り込む僕を宥《なだ》めすかすようにノクトとヴィヴィが口を挟む。特にヴィヴィはさりげなく話題を痣《あざ》にすり替えている。
そうだ。今は痣《あざ》の話だ。フローロもイグニも……特にイグニは関係ない。想像だけでフローロを汚すなんて失礼にもほどがある。
頭の中で理性が感情を押さえつけている。けれども上手くいかない。
どうしてイグニがそんなことを知っている?
どうしてイグニはチャルマにそんなことを教えた?
どうしてフローロは、
「あ、ああ、そうだな。変な痣《あざ》だけど心配することないぞきっと!」
ヴィヴィの話題すり替えを察したらしいノクトが柄《ガラ》にもなく話を合わせている。
だが肝心のチャルマにその空気は読めなかったらしい。彼は引き出しからセルエタを取り出すと、ノクトに差し出した。
「イグニのだよ。預かったんだ。”ファータ・モンドに行ってからフローロに何かあるかもしれない。可能なら来年、ファータ・モンドで手を貸してほしい。僕を探して、追って来てほしい”って」
『僕はファータ・モンドに行ってからやりたいことがあるんだ』
『もしきみが将来の道を決めかねているのなら、僕を追って来てくれる?』
旅立ちの日にフローロはそう言い残した。
あれは海を再生させたいという意味ではなかったのか? 何かあるかもしれないって……海の再生は人類の悲願で、レトにとっても同じことで。
それに「フローロは元気にしている」とレトだって言っていたじゃないか。レトが注視している前で、彼の身に何かが起きるはずがない。
「ファータ・モンドって、ただの大人の町じゃないのかな。それとも大人になったら僕たちじゃ考えつかないようなことがあるのかな。旅立ちの日まであと6ヵ月しかないけど、僕たちは何も知らないよね。イグニやフローロが知っていたことを僕たちは」
「フローロに何かある」と言う言葉には痣《あざ》が関係しているとでも言いたげだ。
「痣《あざ》持ちはいずれ敵となって立ち塞がるから、まだ力のない子供のうちに見つけ出して葬《ほうむ》れ」と指示された反レト信者がファータ・モンドにいて、血眼《ちまなこ》になって探している……なんて本気で思っているのなら被害妄想甚《はなは》だしいどころではない。
「イグニの戯言《ざれごと》を信じて、自分も痣《あざ》が出たから何かあるかもしれない、って?」
「う……ん、でも僕が持ってるよりノクトやマーレが持っていたほうがいいと思うんだ。僕はきっと退院できないから」
くだらない。
血眼《ちまなこ》の敵までは想定していないかもしれないけれど、チャルマは痣《あざ》のせいでフローロに何か起きると思っている。起きることを期待している。
「知ってるチャルマ? そう言うのをヒロイン願望って言うんだよ。そう言ったらノクトが助けてくれるって思ってるんでしょ。うん、助けてくれるかもしれないねノクトなら。でもさ、傍《はた》から聞いてて寒いよ、そういう設定に酔いしれるの」
そして何時《いつ》か自分も、と思っている。
くだらない。
くだらない考えだ。
「そ、そうだよ何もないよ。チャルマはこんなに元気なんだし、今すぐにでも退院できるって。むしろどうして退院できないのかが疑問だよ」
気まずくなった場の空気をヴィヴィが何とか盛り上げようとするも、
「そう。どうして退院できないんだと思う?」
チャルマの目は、もう笑っていなかった。
……やってしまった。
帰りのバスの中で、僕はずっと頭を抱えている。
時間が遅いこともあって、やはりバスは貸し切りで。だから座席が贅沢に使えると言うつもりではないけれど、3人が3人とも分散して着座している。
最後部座席の左端に僕が。
右端にノクトが。
僕の前の席にヴィヴィが。
「過激派ー」
「……反論の余地もございません……」
「ホント、マーレってフローロのことになると人が変わるよね」
ヴィヴィは後ろ向きになって背凭《もた》れに顎《あご》を乗せている。
小さな子供ならともかく、15歳にもなってそんな座り方は行儀が悪いと言いたいところだけれども、とても他人の行儀を注意して回る心境ではない。
「確かにちょっと妄想が過ぎてるな、とは思ったんだ僕も。でも入院長いと滅入ってくるし、ノクトのホラ話に比べたらずっとかわいいもんじゃない?」
「俺はホラなんか吹いてない」
「はいはいそうでした。まぁとにかく1番悪いのはイグニだよ。何でああ言うこと吹き込んでいくかなぁ」
ヴィヴィとノクトに引き摺《ず》られるようにして病室を出、バスを待ち、バスに乗り。
その間、3人が3人とも腹の中に抱えていたであろう疑問をそれでもずっと口に出さないでいたのは、チャルマの話があまりに荒唐無稽《こうとうむけい》すぎて誰ひとり信じられなかったせいかもしれない。
長い入院生活と先が全く見えない病気がどれだけチャルマの心を蝕《むしば》んでいたか。ただ、僕たちの想像を超えていたことだけは確かだ。
無意味に時間を消費するだけの毎日の中に現れた痣《非日常》。その痣《あざ》でチャルマはかつてのイグニの戯言《ざれごと》を言葉を思い出したのだろう。
選ばれた者の印のせいで敵に命を狙われているなんて、1日中ベッドの上にいるチャルマにはさぞ魅力的に映ったに違いない。不思議な形の痣《あざ》も、名前すら知らされない病気も、終わらない入院生活も”特別”だから。戯言《ざれごと》だってわかるだろうに……いや、戯言《ざれごと》ですら縋《すが》りたかったのだろう。
此処《ラ・エリツィーノ》にはファータ・モンドの情報が入って来ない。
確かめることができないまま、「もしかしたら向こうで本当に危険な目に遭《あ》っているのかもしれない」と気を揉み続けるのはかなりの心労になる。
チャルマの入院がそのせいだとは言い切れないけれど――。
「そう言えばさヴィヴィ。チャルマが入院する前、体調を崩したとか、心配ごとを抱えていそうだとかあった?」
以前、入院する兆候があったのではないか、同室のヴィヴィなら何か知っているのではないか、と思ったままになっていたことを、僕は舌に乗せてみる。
「何も。……ああ、定期健診で身長が平均より低いって出て、背を伸ばすにはどうしたらいいだろうって言ってたから”よく飲んでよく眠ってよく運動することだ”とは言ったけど……もしかしてそれが!?」
「あ、いや。それは健康になるだけだと思う」
しかしヴィヴィにも特に思い当たるものはないらしい。
これは本当にイグニの戯言《ざれごと》で心を病んだとしか思えなくなってきた。
前方に見慣れた町並みが見える。
其処《そこ》ではチャルマのいない日常がもう何ヵ月も前から続いていて、この先も同じようにチャルマがいないままの日常が続く予定で。
もし6ヵ月経《た》っても退院できなかったら、この町でチャルマのことを知る者はいなくなる。マルヴォのように、ヴィードのように、”チャルマ”の存在を誰も知らない日がやってくる。
「でも万が一チャルマの言ってることが本当だったら、置いて来ちゃいけなかったんじゃないかな」
「退院許可が出てないのに勝手に連れ出せないでしょ。それで本当に悪化したらどうするのさ。健康そうに見えるけど、もし連れ出したのが容態を悪化させる原因になったら、そのほうが絶対後悔するよ」
それはわかっているけれど、僕たちには何もできない。
連れて来ることは彼《チャルマ》を本当の――わけのわからない敵ではなく病気の――危険に晒《さら》すことになる。
「もし本当に痣《あざ》持ちが狙われるんだとしても、病院のほうが防犯設備もちゃんとしてるし安全だと思わない?」
「そうなんだよね。でもどうしても、僕が知らないところでチャルマが何時《いつ》の間にか消えてたら、って思うと……ね」
ヴィヴィは前を向いて座り直すと、自分を抱きしめるようにして俯《うつむ》いてしまった。
自分のせいで怪我をしたヴィードが、自分の知らないうちに転院してしまったばかりだし、余計に傍《そば》から人が消えていく恐怖を感じているのかもしれない。
取り巻き連中が近寄らなくなった時には何ともなかったのに、やはりチャルマやヴィードはヴィヴィにとって特別だったのだろう。
「気になるようなら明日も明後日もその次も、毎日チャルマに会いに行こう。僕も行くから」
「うん」
僕はヴィヴィを|慰《なぐさ》めることしかできない。
そして|慰《なぐさ》めている今も、チャルマよりもフローロのことが気になって仕方がない。
『僕を追って来てくれる?』
旅立ちの日、フローロはそう言った。
チャルマにもヴィヴィにも否定してみせたけれど、本当は僕自身が一番イグニの戯言《ざれごと》を気にしているのかもしれない。
追って来てくれと言ったのは海の再生に手を貸してほしいという意味ではなくて……もしイグニの言うことが本当なら。フローロはファータ・モンドで何をしようとしているのだろう。
「レトに言ったほうがいいかな。チャルマが危険かもしれない、って」
僕は掌《てのひら》の上でセルエタを転がした。
病院の管理システムはレトが握っている。何時《いつ》現れるかもしれない敵のために病院全体の警備を厚くし続けることは難しいけれど、出入口とチャルマの部屋だけなら。見張っているだけでも抑止力にはなるはずだ。
それにもしチャルマの話が本当なら、イグニやフローロにも危険が迫《せま》っているということになる。僕たちではファータ・モンドで何が起きようとも手を出すことすら叶わないけれど、レトなら何とかしてくれる。
「それはやめとけ」
しかし、今までずっと黙っていたノクトがぼそりと反論した。
「何でさ」
「そのレトが危険だと考えたことはないのか? 脳内お花畑」
「またその話!? レトはね、ノクトが期待してるような独裁AIじゃないから」
ノクトはこの世界の人間ではないからわからないのだ。レトがどれだけこの世界に貢献してきたかを。
放っておけば滅亡するばかりだった人類が、こうして数を減らしてでも生き永らえているのは、レトが全てを管理してきたおかげなのに。
「そんな考え方だから滅亡したんだよ、ノクトの世界は」
人間は駄目だ。何よりも私利私欲を優先する。
前文明が滅亡に瀕《ひん》したあの疫病が蔓延《まんえん》した時、多くの店舗や企業は自粛《じしゅく》を余儀なくされたために経営難に陥《おちい》って倒産した。
今日の食事代や家賃にも困る者が現れる一方、富裕な政治家はそんな国民の窮状《きゅうじょう》を全く理解せず、利権が絡んだ食肉の購入や旅行を推奨して顰蹙《ひんしゅく》を買ったらしい。
果ては医療関係者やライフラインなど最前線の”善意”をあてにして、感染者が右肩上がりに上がっている最中、経済最優先の政策を取り――。
あの疫病は僕たちの世界では”人災”だと言われている。
けれどレトは公平だ。減ってしまった人類と、そして何よりも世界が元に戻ることを最優先に動いている。そこに利権が絡むことはない。
子供と大人を分けるのだって、大人が抱く独自の思想を子供に植え付けないため。疑うことを知らない幼子《おさなご》に聞かせて洗脳させないための措置だ。
ノクトが毛嫌いするAIは僕らを守るためにある。現にクルーツォは僕とヴィヴィを助けてくれた。
あの時、ノクトは何処《どこ》にいた?
マルヴォが僕とクルーツォに向かって鉄パイプを振りかざして来た時、ノクトは何をしていた?
「……とにかく、レトには言うな」
この期《ご》に及《およ》んでもまだレトを疑うのか?
「妙なことを口走ったってチャルマが精神鑑定を受けるようなことになっても困るだろう」
「そ、そうだね。精神鑑定って結構キツイって聞くし」
ノクトの言葉にヴィヴィが賛同する。チャルマはノクトのせいで妙な本を熟読しているから危険思想を持っているなんて疑われでもしたら気の毒だ。
でも。
僕は黙ったまま窓の外に目を向ける。
12月23日と同じオレンジ色の空が群青に塗り替えられていく中で、灯台の明かりが真っ直ぐにそのグラデーションを貫《つらぬ》くのが見えた。