14-12 09:30 a.m 城主の執務室




 久しぶりに訪れた執務室では義兄《あに》と執事が待ち構えていた。

 ……と書くと語弊《ごへい》がある。彼らは普通に執務をしていたにすぎないのだから。
 義兄《あに》は執務机で書類の山に埋もれていたし、執事はその傍《かたわ》らで郵便物に目を通していただけ。しかしルチナリスの心境としては「待ち構えていた」が最もしっくりくる。

「おはよう」

 笑顔を向けて来る義兄《あに》は当然のことながらシャツにベストにリボンタイという「いつもの」服装だ。髪も「いつもどおり」後ろでひとまとめにしている。執事に至っては顔以外何処《どこ》も変わっていない。
 ああ、昨日までのアレは夢だったのよ。いくら此処《ここ》が悪魔の城だからって、性別が変わるはずないじゃない。
 そう思い込みたくなるほど「いつもどおりの光景」がそこにはあった。
 だが。

「あ、おは……」
「お姉様、るぅチャンを連れて来たわよぉん♡」
「誰がお姉様ですか」

 隣を見ればフリフリの黒いゴスロリエプロンに身を包んだガーゴイルが、否応《いやおう》なく現実を突きつけて来る。
 逃げたい。
 逃げたいが、ガーゴイルに襟首を掴まれているので逃げられない。

「で、朝の挨拶すらできないんですか? そのような一般常識すら持ち合わせていない方が四の五の言う資格など何処《どこ》にもありませんね」

 執事の言葉が槍のように突き刺さる。
 違うわよ。挨拶しようとしたらガーゴイルに邪魔されたんじゃない。その後にあんた《執事》が続いたから言う暇がなかっただけじゃない。
 そんな文句もいつもなら脊髄反射で言っているところだが、とても言える心境ではない。
 昨日のことをまだ根に持っている。確実に敵と認識されている。


「ええっとねぇ、昨日までのアレのことでるぅにも話しておいたほうがいいかと思ってさ」

 その中で義兄《あに》だけが普通だ。
 だがこれは鈍いのではなく、ふたりの間の(一方的な)火花をあえて見ないようにしているだけだろう。
 これも一種の処世術と言えば聞こえはいいけれど、たったひとりの妹でしょ!? 助けてくれたっていいじゃない! 執事が怖いのはわかるけど!!
 ルチナリスは目で訴える。

「……もう終わったことですけどね」
「うん。終わってから連絡が来ても遅いよ、って話なんだけど」

 しかし執事が再度口を挟んできたせいで、ルチナリスの心の叫びは義兄《あに》に伝わらなかった。まぁ、邪魔されなくたって伝わったことなど1度もないけれど。

 それよりも執事が怖い。終わったと言っているけれど絶対に奴《やつ》の中では終わっていない。いや、性別転換事件は終わっているけれど、あたし《ルチナリス》とのいざこざはまだ始まったばかりだ。そういう目をしている。
 いや。見ない。執事は見ない。
 青藍様に集中するのよルチナリス! それ以外は気合いでOUT OF 眼中よ! 心の障壁を作るのよ!


「昨日までのアレね、魔界では1000年に1度起きることなんだって」
「は?」

 集中! ……したいが、何だそれは。

 魔界?
 でも此処《ここ》は人間界よ? 割合でいけば魔族が9割を超えるけれど、だからって魔界とは言わないわよ。ほら、例えばA国内でB国からの移民が集まっている場所があるとして、そこをB村だのB人居住区だのと呼ぶことはあるけれど、その土地自体はB国の領土にはならないでしょ?
 なのに。

「魔界では”祭り”と呼ばれる現象だそうです。文献によると前回は魚と化したので、近くに水がなかった者が大勢亡くなってしまったとか」
「それに比べたら今回のは軽いよね」
「実害も……ありませんでしたしね」

 言葉の途中であからさまにルチナリスを一瞥《いちべつ》した執事には、ただ恐怖しか感じない。
 もし今日になっても戻っていなかったら、きっと今頃、あたしの命はなくなっている。昨日は義兄《あに》に止められたけれど、今度は義兄のいない《誰も止めてくれない》場所で身元もわからないくらいボコボコにされて、そして裏山に埋められている。
 今、無事でいられるのはあたしが「義妹《いもうと》」に戻ったからだ。
 執事から見て対等ではない《どう見ても格下の》相手だから捨て置かれただけだ。

 今だって顔は笑っているけれど、目は全く笑っていない。命は取らないまでも歯向かった《義兄を取ろうとした》制裁は考えているだろう。
 ぶ厚い辞書を丸暗記しろとか、庭をひとりで草むしりしろとか……いや、そんな程度じゃ生温《なまぬる》い。きっとあたしの頭では想像もできない悲劇が待っているに違いない。

 しかし奴《やつ》とて義兄《あに》の前で非情な制裁を仕掛けては来ないはずだ。
 今日を無事生き延びるためにも絶対に義兄《あに》の傍《そば》を離れるわけにはいかない。そしてほとぼりが冷めるのを待つのよ。
 ……それはそれで、命を縮める結果になりそうなのだがけれども。



 とにかく。義兄《あに》の説明によると、1000年に1度、魔界では不可思議な現象が起きるらしい。
 彼らが言うように魚化したり、動物になったり、ゾンビ化したり。それに比べれば、性別が変わる程度は「軽い」と言えるのだろう。
 長い寿命の中でただ同じことを繰り返して生きていく魔族の間では、それは一種のお祭りのようなもの。ただ1000年に1度では義兄《あに》も執事も経験がなかったために判断がつかず、魔界に問い合わせるという手段も失念していたために今頃になってわかった、ということらしい。

 せめて最初からこうなることがわかっていれば対処のしようもあったものを!
 ええ、間違っても執事に喧嘩を吹っかけたりはしなかったわよ!
 と……これが本当《ホント》の「後の祭り」。



「だってまさか魔界のことが人間界で起きるとは思わなかったし、るぅまでなるとも思わなかったし」
「そうですね。ルチナリスが変わってしまったので、これは魔族だけの問題ではない、と思ったのがそもそもの間違いでした。ルチナリスに変化がなければ真っ先に魔界に問い合わせていたのですが」
「まぁ、るぅは付き合いがいいから。ね」
「人間を辞めているだけなのでは?」

 執事の言葉がいちいち刺さる。
 いや、そんなところまであたしのせいにするんじゃないわよ。あたしだって好きで変わったわけじゃないんだから。


「なのにぃ、あたしたちだけ全然変わんないんだもぉん。お祭りに乗り損なった感じでつまんなかったわぁ」

 そして、あたしが変わったと言うのに、ガーゴイルは変わらなかったらしい。
 そう言えば以前、木の股から生まれるのだと言っていた。だから親が誰だかもわからない、と。
 あの時は木の股から生まれるというパワーワードが強すぎて他が霞《かす》んでしまっていたけれど、元々ガーゴイルには性別などないのだろう。石像だし、外見の性的特徴だってないわけだし。
 と言うか、いい加減にその言葉遣《づか》いはやめろ。
 ついでにふくれっ面でぶりぶり言うのもやめろ。かわいくないから。

「人間のるぅチャンが変わって、なんであたしたちはそのまんまなのよぅ」

 代弁してくれてありがとう。
 だが! 魔族のことに人間のあたしを巻き込むな!
 あたしは付き合いがいいわけじゃない。巻・き・込・ま・れ・た・だけ!





「でも、るぅはやっぱり今のままがいいよ」
「そうですね、昨日は原形がなくなるほど殴りつけたくなる顔をしていましたからね」

 執事は冷やかな視線をルチナリスに向ける。
 ああ、奴《執事》の辞書には「相手のターンの時は何もしないでおとなしく待つ」という戦隊ものの法則はないのだろうか。

「そう言えば昨日別れ際にリベンジするだの次は勝つだのと仰っていませんでしたっけ。私の聞き違いだったでしょうか。せっかく鞭を用意して頂いたのに手に馴染む前に機会を逸《いっ》してしまいましたから、今から続きをするのもいいかもしれませんね。
 ああ、1年くらい再起不能になられてもガーゴイルたちがあなたの代わりを完璧にこなしてくれますからご心配なく。何なら妹役も譲られて、あなたは大胸筋で服を破る練習でもなさっていては?」
「うっ」

 ないだろう。どうせ「私は魔族ですから」と、しれっ、と言うに決まっている。
 
「それに、」
「グラウスも今のままのほうが好きだな」

 堰《せき》を切ったように畳み掛けられる執事のターン。
 そこに空気を読まない感で割り込んできた茫洋とした声の主は、ね、と執事を見上げた。
 爆弾投下。その笑みに執事は一瞬怯《ひる》み、それから曖昧《あいまい》に目を逸《そ》らし、小さく「はい」と呟いた。
 ルチナリスをジリジリと取り囲んでいた冷気が霧散する。

 もしかして今、庇《かば》ってくれたのだろうか。
 ルチナリスは|義兄《あに》と執事を見比べる。
 そうだ。こんなシチュエーション、前にもあった。そう。海で。勝手に出て行ったらしい義兄《あに》に執事が怒っていて。あの時も……ちょっと待ってお兄様。あの時も似たようなことを言って黙らせていませんでしたか? 「好き」って言っておけば黙ると思っていませんか!?


「どうかした?」
「……あ、いや、えっと……あ、あたしも、青藍様は今のままのほうがいいです」
「ありがと」

 わかっていてやっているのなら性質《たち》が悪いどころの話ではない。ルチナリスは口籠る。
 やっぱり義兄《あに》は男の人でよかった。
 いや。今の笑顔だって女の目から見てもかわいいし、執事じゃなくたって怒りも恨みも溶《と》かしてしまう効果はあるけれど、でも「男だから」執事は自重せざるを得ない。昨日みたいな女の子が同じことを言ったら執事は確実に暴走する。





「今度グラウス様の食事に一服盛りましょうよぉん」
「そうよねぇ。野郎よりクールビューティーなお姉様のほうが断然素敵ですもの♡」
「今度こそピンヒールで踏んでもらいたいわぁ」
「ってことで!」
「「「”お姉様にピンヒールで踏まれ隊”結成よ!!」」」

 背後でガーゴイルたちの怪しい声が聞こえたが……あたしは入らないわよ! 絶対に!!




 数日後。

「ねぇ! 聞いたけど悪魔の城に美女が囚われてるんだって? 領主様は知ってるの? まさか領主様が捕まえてたりするんじゃないよね? もし本当ならたとえ領主様でもこの僕が、」

 足音高く駆け込んできた勇者は、裏庭で洗濯物を干していたルチナリスに詰め寄った。

 朝からうるさい。
 光り輝く鎧が目に痛い。
 そして何故《なぜ》いつもこの男は簡単に入って来るのだろう。居住区域は城の住人以外立ち入ることができないように結界を張っているはずなのに。


 ……そういえば、この間も一般のお客さんが入り込んでいたっけ。

 ルチナリスは長い金髪のお兄さんを思い出す。
 彼は元気にしているだろうか。妹さんと仲良くやっているだろうか。
 変な相談をしてしまって、迷惑だと思われていなければいいけれど。
 いや、それよりも。
 こう度々《たびたび》入り込まれるのはおかしい。勇者様が変なのよ、で片付けてはいけない。
 もしかしたら結界が綻《ほころ》んでいるのかも。後で義兄《あに》に言っておいたほうがいいだろうか。


「ねえ聞いてる?」
「あー、デマだから。それ」

 相変わらず情報に疎《うと》いと言うか流行に乗り遅れているというか。
 シーツをバサリ、とひとつ大きく払って、ルチナリスは勇者に背を向けたまま作業を続ける。
 間違ってもその囚われの美女が義兄《あに》だなんて言えない。


「いや、ルチナリスさんには悪いけど、僕は勇者だからね。正義のためならたとえ領主様が相手でも涙を飲んで」
「勇者様の腕じゃうちの執事に噛まれてお終《しま》いだと思うわよ」
「何でそこに執事さんが出てく……え!? 噛む!?」
「だから帰って」
「ちょっ、ええー!?」



 次は1000年後。その時、あたしはもういない。
 どこまでも平和な勇者を追い返しながら、ルチナリスは2度と参加することもない魔族の祭りに思いを馳せる。