21-4 潜伏




 何処《どこ》かから笑い声が聞こえた気がして、ミルは立ち上がった。
 見える範囲には誰もいない。窓の外から見える、小さな庭を挟んだ向かい側の窓からは煌々《こうこう》とした明かりが漏れているから、其処《そこ》の声が聞こえたのだろうか。
 この城の住人か、それとも侵入する時に町で見かけた馬車の主か。こんな城に夜になって人が集まっていると言うと、お伽話《とぎばなし》でよく見かける舞踏会でも催されているのだろうとも思う。あながち間違ってはいないだろう。
 
 ミルの警戒に、エリックも重そうに腰を上げる。
 フルアーマーだから立ち上がるにも一苦労。暫《しば》しの安息を惜しみつつ、文字通り重い腰を上げた部分もあるに違いない。その証拠に顔にはでかでかと「働きたくない」と書いてある。休み明けの社畜と同じ顔をしていると思うのは思い過ごしなどではないようだ。

「誰もいないようだけど?」

 エリックは柱の陰から左右に延びる廊下を見渡す。
 隠れて下さい、とばかりに置かれた机《テーブル》とその上の花瓶、そして絶妙な隙間を開けて立っている柱でできた空間はまるで秘密の隠れ家にいるような安心感があった。
 ルチナリスが目を覚まさない今、できることなら動きたくはないが、此処《ここ》は敵地。イニシャルGの虫を倒す時のように、向こうもそれを見越して誘い込む場所を用意していると考えられる。

「せめてルチナリスさんが起きるまで此処《ここ》にいたほうがいいんじゃない?」

 エリックはそう言うが、待っていてルチナリスが目覚める保証は何処《どこ》にもない。
 目覚めない以上、「ルチナリスの義兄《あに》に会わせる」という目的は叶わないし、此処《ここ》に潜んでいたところで状況は悪化の道を辿《たど》るばかり。だったら、彼女には悪いが撤退したほうがいい。
 彼女の義兄《あに》はロンダヴェルグに乗り込んで来るくらい元気なのだから、生きていれば再会する機会は再び訪れる。しかし捕まった日には……|犀《さい》から「何の役にも立たない」と称されたルチナリスのこと、そのまま食糧庫に放り込まれて終わりだ。
 しかし、そうは言うものの。撤退するにせよ、眠ったままの彼女を運び続けるには物理的な問題《彼女の体重》が立ち塞《ふさ》がる。

「だったら、師匠か執事さんを探す?」
「これだけ広い中をか?」

 師匠と執事さんことアンリとグラウスも、ケルベロス5匹の前に置いて来てしまったとは言え、いい加減決着はついている時間だ。
 彼らのことだから、たかだか犬5匹に負けたりはしないだろうが、だからこそ「勝ったぜ」「長居は無用」と、その先に進まれてしまえば探しようがない。姿を消した自分たちの行方も、目的である青藍も、あの地下水路で待っているのでは手に入らないのだから進むのは目に見えている。

 広い敷地内で再び合流を果たすなら、闇雲に探し回るよりも「目的地」に向かったほうが早い。それはきっと、彼らも思う。
 たが。

「……この城の何処《どこ》にルチナリスの義兄《あに》がいるかなど、」
 
 向かったほうが早いが、自分《ミル》はその「義兄《あに》」の顔など知らない。


「偉い人は高いところにいるって言うよ?」
「ルチナリスの義兄《あに》は”偉い人”なのか? ノイシュタインではそうだったろうが、この城では?」
「あー……………………でも、お兄さんが此処《ここ》の当主だってのは聞いた」

 エリックの言うことは間違ってはいない。当主の弟ならそれなりに”偉い”だろう。
 が、世の中には血を分けているが故《ゆえ》に迫害された事例などいくらでもある。家督《かとく》争いなどはその定番だ。
 今此処《ここ》にはいないが、アンリの目的はまさにその家督争いが関わって来る。だとすればその「義兄《あに》」が”偉い人”の扱いを受けているとは限らない。

「そうだねぇ。領主様、あんな顔だけど強いらしいし」
「ならばこの階《フロア》にも現れる可能性はあるわけだ。お前の記憶に頼るしかないな」

 ミルはルチナリスの脇に腕を入れて抱え上げると、そのままエリックの背に乗せた。

「ちょ! そんな重いの乗せたら僕の聖剣が!」
「どうせその剣だって背負《せお》っている間は抜けない《使えない》から同じだ。
 で? あの中にルチナリスの義兄《あに》はいるのか?」
「え!?」

 剣を背負《せお》った上からルチナリスをも背負わされた勇者《エリック》は、ずり落ちそうになるルチナリスの両腕を掴《つか》んで引っ張り上げながらミルが指さしたほうに目を向けた。
 何時《いつ》の間に集まって来たのか、人影がある。メイドや執事のように固有の衣装がある者、年齢や性別が確実に違う者は遠目からでも違うとわかるが、それ以外……青年~成人男性のあたりになってくると暗すぎてよくわからない。

「ええっと」

 強ければラスボス近くに、というのがRPG的敵配置の定番だが、先鋒に持ってきてひとりで殲滅《せんめつ》という戦法も考えられる。顔を知っているが故《ゆえ》にこちらが手加減せざるを得ないと踏んでいるのなら、間違いなく先に出してくる。

 人影はゆっくりと近付いて来る。陰から出て来る。
 窓から差し込む月明かりが、彼らの姿を浮かび上がらせた。それぞれの髪が光を弾いた。

「い、いない!」
「そうか」

 言うなりミルは抜刀した。
 それを皮切りに、集まって来た人々が飛びかかって来る。炎が、風が、そして水が彼らの手中から現れ、自分たちに投げつけられる。

「うっわ!」
「お前はルチナリスを背負《せお》ってろ!」

 中には剣を持っている者もいる。
 そんな様々な攻撃手段を持った人々が押し寄せる中、ミルは剣1本で切り伏せていく。
 手の中で火の玉を作ろうとしていた者を切り、そのまま身を翻《ひるがえ》して背後から切りかかった剣を弾き飛ばし、ついでに鳩尾《みぞおち》に一撃をくらわせる。

「2つ」

 その者の体の下に入り込み、上から降って来た水飛沫《しぶき》を避《よ》ける。身を屈めたまま右足を軸に剣を振り払い、周囲を囲もうとしていた人々を切り捨てる。

「6つ」

 殴りかかって来た男の腕を皮1枚の差でかわし、その腕を掴《つか》んで懐に入る。剣を握り直し、柄頭《ポンメル》で男の喉を突き上げる。

「7つ」

 仰向けに倒れる男の背後から、炎と風が混ざり合うようにしてミルに押し寄せる。
 ミルは再び剣を握り替え、その炎混じりの風に向かって剣圧を放つ。放つと同時に目の前の男を踏み台にして飛び越え、その陰にいたふたりを薙《な》ぎ払った。




 1度騒ぎを起こすと集まって来る習性があるのは魔族ばかりではないとは思うが、それにしたって短時間に集まり過ぎだろう。
 襲撃を突破し、それから3度の遭遇を払い除《の》け、走りに走ってルチナリス一行は今現在、とある部屋の長椅子《ソファ》の後ろに潜《ひそ》んでいた。
 疲れてきた頃に都合よく鍵の開いた部屋があること自体が胡散《うさん》臭いが、なにぶんルチナリスを背負って走り続けたエリックも、立て続けに緊迫した戦闘が続いた自分《ミル》も消耗が激しく、疑うよりもまず休憩したいと思ったのも確かで。
 自称・幸運の申し子なエリックの、

「大丈夫だよ。セーブポイントの近くに敵は現れないって相場が決まってるんだから!」

 という意味不明な持論が後押ししたこともあって、休むことにしたのだ。
 とは言え、最初に隠れていた柱と花瓶付テーブルの隙間のように、此処《ここ》も敵側が仕掛けた「誘い込むための罠」だったりする可能性は限りなく高い。出入口が限られている分、やもすれば袋のネズミになってしまう。
 だが、それでも見通しの良すぎる廊下にいるより、精神的な安心感が段違いだ。
 
 ルチナリスはまだ目を覚まさない。
 揺すったり頬を叩いたりもしてみたが、それでも起きる気配はない。


 ミルは息をひとつ吐くと剣を置き、長椅子《ソファ》の背にもたれ掛かるようにして座り込んだ。呪符の残数を確認した後、腰に下げた皮袋から干し肉を取り出し、無言のまま、大の字になって果てているエリックに差し出す。
 フルアーマーが祟《たた》ったのか、背負《せお》わされた重り《ルチナリス》のせいなのか、戦っていたわけではないのに瀕死状態のエリックは、大の字になったまま肉を受け取り……噛み切れないほど硬いにも関わらず、数度の咀嚼《そしゃく》で飲み込んだ。

「あー……リドさんのジャーキーの味だー」
「そうなのか? これはカリンに教わったものだが」

 ミルは自分用にも1切れ取り出し、奥歯で噛み締める。
 この干し肉は昔、カリンが勇者パーティのひとりとして旅をしていた時に同じパーティメンバーから習ったのだそうだ。冒険者たちは頻繁《ひんぱん》に仲間を取り換えるから、この干し肉のレシピも冒険者仲間の中では定番なのかもしれない。
 ミル自身はリドに面識はないが、エリックの知り合いなら冒険者、もしくは関係者だろう。

 「こんなこともあろうかと!」と言うのは隣でひっくり返っている男の十八番《おはこ》だが、何度も水に浸かったにもかかわらず皮袋の中身《干し肉》は無事だ。カリンから押し付けられた「密着保存袋」を皮袋の内側に仕込んでおいた甲斐があったと言える。
 彼女曰《いわ》く、


『旅の衣料や布団を入れて、上からギュギュっ! と潰して閉じればアラ不思議! 嵩《かさ》が3分の1になっちゃう優れもの!』


 だそうだが、この貰った袋はサイズ的に布団は入りそうにない。口が密閉できるから食べ物が長持ちする、という程度で使っている。むしろ布団を持ち歩かない旅では後者の機能のほうが役に立つ。

 とまぁ、謎の新商品の性能はともかく。


「お前が来てから敵に遭遇する率が増したな」
「えー?」

 城の奥に入って来ているのだから出会う率が増えるのは仕方ないとは言え、地下水路まで誰とも遭遇しなかったことが嘘のように次から次へと敵が現れ、逃れるようにして此処《ここ》まで来てしまった。
 本音を言えば撤退したいのだが、敵が撤退させてくれない。さながら牧羊犬に追いかけられながら家に戻る羊のように、目的とする場所まで追い込まれていくのを感じる。

 それと同時に疑問も増える。
 襲って来た面々についてだ。使用人や兵士、そしてこの城の者ならともかく、招待客らしき者が混じっていたのはどういうことだろう。
 性差を言うつもりはないが成人男性ならまだわかる。これだけ大きな城なら当主もかなりの資産や権力を持っているだろうし、些細《ささい》な切欠《きっかけ》でも目ざとく見つけて貸しを作りたいと思うものかもしれない。しかし怪我をしたり、最悪の場合命にかかわる者を相手取ろうと言う時に、着飾った令嬢や年端もいかない子供までもが参戦するのは解《げ》せない。
 遊びに行った友人宅でイニシャルGの虫に遭遇するのとはわけが違うのだ。いや、イニシャルGの虫を前にしても令嬢や子供が立ち向かうことはないだろうが。

 そして顔。
 襲って来た誰もが犀《さい》の後ろに並んでいたメイドのように無表情だった。切りつけられる時でさえ。


「ぼーっとした顔を見ると襲いたくなるのかもしれないな」
「何でそこで僕を見るかな」

 大の字になったエリックは「んんー」と唸《うな》りながら眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていたが、やがて閃《ひらめ》いたとばかりに目を開いた。

「でもまぁ、僕が合流してから敵が増えたってのはあるかもしれないね。何て言ったって僕は勇者! この麗しい勇者オーラ、いやフェロモンと言うべき……に引かれて、敵もイニシャルGの虫の如《ごと》く吸い寄せられるのさ。
 嗚呼《ああ》! 僕には聞こえるようだ! 倒してくれ、倒して名声を上げてくれという悪魔たちの心の叫びがぁぁぁぁあああっ!!」

 何かのスイッチが入ったかのようにそこまで一気に言い切ったエリックは、ふっ、と鼻で笑い、わざとらしく前髪を掻き上げる。寝転がったままで。


「悪いものでも食べたのか?」
「ジャーキー以外食べてません」
「……今、無性に何か切りたくなってきたな」
「嘘です」

 場の空気を和ませてくれているのだとは思うが、ボケにツッコむ気力もない。
 自分《ミル》が精神的にまいっている証拠なのか、エリックがノイシュタインに戻っていた間に何かあったからなのか。元々変わった奴《やつ》だと思っていたが、カラ元気にしたって度が過ぎている。
 戻って来てからこちら立て続けに物事が起きすぎて彼自身の話など聞く暇もなかったが、もしかすると家族や妹が悲しい結果になっていたとか……しかしそうならこの男は再起不能に陥《おちい》るほどに落ち込んでいるはずだ。ロンダヴェルグに戻ることもなく、家族に寄り添うことを選ぶだろう。例えカリン《おっ〇い》が迎えに来たとしても。
 いくら約束したとは言え魔界に来ることは強制ではないし、エリックにとっての1番は妹なのだから。



 


 薄暗い室内で目を凝らせば、 壁1面に設《しつら》えた本棚と暖炉が見える。デザインのつもりなのかもしれないが、火の周囲にあんなに燃えやすいものを並べておいても大丈夫なのだろうかと他人の家ながら心配になる蔵書だ。
 暖炉の上には装飾を施《ほどこ》した燭台《しょくだい》。
 天井から下がっているのは本棚に比べるとかなり簡素なシャンデリア。
 生活感を感じないのはこの部屋が使われていないことを表している。鞄《トランク》なども見当たらないから、招待客に貸しているわけでもなさそうだ。
 なのに何故《なぜ》鍵が開いていたのかが疑問だが、それよりも。

「まずいな……」
「え? 美味《おい》しかったよ? もう1切れ食べたいくらい」
「干し肉の話はしていない」

 言いながらも皮袋ごとエリックに干し肉を渡し、ミルは長椅子《ソファ》の背から身を乗り出して部屋の中を見回す。


 此処《ここ》に長居していも何も成果は得られない。
 アンリたちもケルベロスを片付けたら上がって来るだろうが、部屋のひとつひとつを確認しながら来るはずもないから、下手をするとすれ違ってしまう。
 普段使われていない部屋ならば、ルチナリスの義兄《あに》がこの部屋に来る可能性も限りなく低い。
 つまりは、此処《ここ》に来るのは「自分《ミル》たちが此処《ここ》に潜むように仕向けた敵」だけということになる。




「せめてルチナリスが目覚めてくれれば対処のしようもあるのだが」

 そう。せめて自力で歩いてくれれば。彼女を背負《せお》って(背負《せお》うのはエリックだけれども)進むのは無理がある。

 ただ眠っているように見えるが、「闇に堕ちた」と犀《さい》は言い、エリックは「心の中で闇と戦っている」と言った。闇とやらが関わっているのなら、それに負ければメグ《エリックの妹》のように闇に体を乗っ取られることになる。
 なるが、それでも自力で動いてくれる。
 動いてくれれば、自分たちを攻撃して《追って》来るように誘導しながら階下《出口》に向かうこともできる。
 その闇を払うことができれば――メグのように記憶を失うかもしれないけれど――撤退《誘導》するのはさらに容易になる。
 だが今のままでは、ただの持ちにくい荷物でしかない。


「そうだねぇ」

 よいしょ、と勢いをつけて上半身を起こしたエリックは、何故《なぜ》かそのまま長椅子《ソファ》の後ろから抜け出し、部屋を物色し始めた。

「何をしている?」

 気付け薬でも探しているのだろうか。
 見るからに薬が置いてあるようには見えない部屋だが、勇者のスキルがあれば見つけ出せるものなのかもしれない。
 だが。

「打つ手がなくなった場所っていうのはさ、ピンチを切り抜ける重要なキーアイテムが隠されているものなんだよ」

 違った。
 エリックはやけに得意げな顔でゴミ箱をひっくり返し、引き出しを浚《さら》い、机の下を覗き込み、果ては本を1冊ずつ取り出してはパラパラとめくっている。

 どうやらルチナリスよりも室内に興味を惹《ひ》かれているようだ。
 暫《しばら》く経《た》っても誰も来ないから、と気持ちが大きくなっている部分もあるだろうし、体力が回復してくれば暇にもなる。何より壁と長椅子《ソファ》の間の埃っぽい空間にいるのは気が滅入《めい》る。だからだろうが、緊張感を欠いた行動と言わざるを得ない。

「この部屋にあるとは限らないだろう?」

 この部屋が行き止まりならばそんな奇跡も起きるかもしれない。しかし1歩外に出れば、まだまだ先《廊下》は続いている。
 RPG的に言えば此処《ここ》は「何か隠されていると見せかけて何もない部屋」もしくは「製作者のクスッと笑えるエピソードや世界観を感じさせる小ネタを見ることができる部屋」。
 エリックが言う「重要なキーアイテムが隠されている」場所と呼ぶには中途半端すぎる。それこそ見つけ出せるのは気付け薬の材料になる薬草がせいぜいだろう。

 そうは思うが、座り込んでいたところで何も変わらない。むしろ何時《いつ》敵が現れるかわからない今、少しでも情報なりアイテムなりを入手するほうが得策だとも言える。

 放り出してある皮袋を拾い上げ、ミルも立ち上がった。
 メイド姿の人外がいた部屋で、犀《さい》は何もない空間から現れた。それを考えればルチナリスから離れることに一抹の不安も感じたが、彼の背丈なら長椅子《ソファ》の後ろの空間では動きに制限がかかるだろう。ルチナリスに何かする前に剣で一突きにしてしまえばいい。

 物理的な侵入を想定して扉の前にも椅子を置き、それからミルはエリックに倣《なら》うように本を1冊手に取った。




 パラリとめくった頁《ページ》に並んでいたのは手書きの筆跡。インクの色褪《あ》せや紙の焼け具合からしてかなり前に書かれたものだと推測されるが、内容からしてこれは日記だ。

「”――私には弟がいるらしい。らしい、と言うのはまだ会ったことがないからだ。”」
「イチゴちゃん、読めるの?」

 隣から覗《のぞ》き来んだエリックが不思議そうに首を傾げる。
 何を言っているんだ? と疑問に思ったが……その瞬間、この文字がロンダヴェルグで使っていた文字とは違う、と改めて気付く。海を渡った先の大陸や、地続きでも極東のほうで使われている文字も読むことはできないが、それらともまた違う。

 何故《なぜ》、読める?

 習った覚えはない。
 ロンダヴェルグの図書館で見たわけでもない。


『そう言えば最初に闇に堕ちたのはキャメリア様でしたね――』


 犀《さい》の言葉がよみがえる。


『――魔界の記憶など1ミリも残っていなくて当然でした』


 私は犀《さい》が言うとおり、本当にキャメリアなのか?
 そのことを忘れているだけなのか?
 魔族だからこの文字が読めるのか?


「ね、他に何か書いてない?」

 エリックは自分《ミル》がこの文字が読めることには何の疑問も持っていないようだ。
 自分《ミル》が|魔族《悪魔》かもしれないという疑いよりも、日記の内容に興味が向いてしまっているのだろう。「ほらやっぱり重要なアイテムがあったじゃない」と顔にありありと書いてある。

「他に、」

 自分が魔族《悪魔》かもしれないという疑念を心の隅に押しやりつつ、ミルは頁《ページ》をめくる。自分の過去や記憶に関する手がかりが書かれているなどという都合のいい発想はできないが、犀《さい》の話ぶりからして「キャメリア」がこの城に出入りし、彼とも顔見知りだったことは間違いない。



「どうも……青藍という者の兄の日記らしい」
「青藍って領主様のことだよ。ルチナリスさんのお兄さん」


 エリックの声にめくる手が止まった。
 聞き返すように見ると、頷《うなず》きが返って来る。その頷《うなず》きが、

 1:「ルチナリスの義兄《あに》の兄はこの城の当主だったよな?」「うん」
 2:「此処《ここ》って魔界だよな?」「そうだよ」
 3:「ルチナリスの義兄《あに》は悪魔なのか?」「知らなかったの? 遅くない?」

 なのか見当がつかない。なので、

「……悪魔、なのか?」

 やはり口に出さなければ伝わらないと思いつつ、改めて聞く。
 実際、ロンダヴェルグが悪魔に襲われた時にラスボス然として現れた男が、悪魔と関係ありませんでしたと言うのは無理があるし、何故《なぜ》その時に気付かなかったのだろうとも思う。
 それだけではない。
 ルチナリスらが魔界に向かうと聞いた時も、アンリがこの城の見取り図を描いたと聞いた時も、グラウスが短剣からトト《精霊》を呼び出した時も、鉄格子の前でルチナリスがアンリと属性がどうと言う話をしている時も……どう考えたって言動の全てが人間の範疇《はんちゅう》を越えているのに、何故《なぜ》自分は気付かなかったのだろう。

 これも闇による記憶障害なのだろうか。
 自分が魔族《悪魔》だという事実を消すために魔族《悪魔》に関する情報が脳に伝わらなくなっているような、そんな恣意《しい》的な何かが働いているような。


「あ、悪魔の呪いで魔王をやらされてるって設定だったんだ。今のはオフレコにしといて」
「オフレコって、」
「ルチナリスさんに”お前の義兄《あに》は悪魔なのか!?” とか言っちゃ駄目だよ? 領主様は悪い人じゃないんだ」

 妙に知った顔で諭《さと》してくるエリックに、もしかしたら担《かつ》いでいるのかもしれない、との思いがちらりとよぎる。
 第一、それではエリックは悪魔がのうのうと生きているのを黙認していたことになる。剣士亭の壁一面に貼られた被害状況を見ていながらも。
 勇者を目指すなら請負《うけおい》内容も悪魔討伐がメイン。背中に背負《せお》っている剣をどれだけ振るったかは勇者の肩書きが剣についてきた似非《エセ》勇者だけに怪しいところだが、それでも馴れ合ったりはしない。

「……悪くない魔族がいるのか」
「師匠とか執事さんとか。あ、でも師匠は顔が悪いし執事さんは性格がドSだけど、って、これもオフレコでね! 絶対!」

 なのに。
 こともあろうに旅の同行者2名までもが魔族《悪魔》だとあっさりカミングアウトされた。
 数日とは言え寝食を共にしていれば彼らの人となりもわかってくる。エリックが「今言ったことがあのふたりにバレたらボコボコに殴られた挙句《あげく》、生きたまま埋められかねないんだよ! 奴《ヤツ》らはやるんだよ!」と言いながらも「悪い人ではない」と主張するのもわかる気がする。
 気がする、けれど。

「……お前も魔族だったとか言わないよな」

 もういっそのこと全員魔族《悪魔》だったらどんなに楽だったか。
 そうなら、自分《ミル》もルチナリスも悩むことなどなかっただろうに。


「僕は人間だよー。この気品あふれる勇者オーラがわからない?」
「わからない」

 おどけるエリックを見捨て、ミルは日記に目を落とす。
 逃げていると我ながら思うが、誰が魔族《悪魔》でもそうでなくても状況は変わらない。自分が魔族《悪魔》だと認めたところでルチナリスが目を覚ますわけもなく、アンリやグラウスと合流できるわけでもない。


 日記の主である青藍の兄は、この城の当主。
 だからと言って城の隠し通路や秘密の暗号が記されているという楽観的な考えはできない。エリックならば運の力だけでそれらを見つけ出すこともできるのだろうが、生憎《あいにく》と彼は読むことができない。

 記されているのは自分よりも出来が良いらしい弟への戸惑い、妬《ねた》み。
 どうやら出自のわりに才能を持っているのが気に入らないらしい。恨み節がところどころに現れる。
 そして。
 彼の許嫁《いいなずけ》であった「キャメリア」への――。


 知らず、奥歯を噛み締めていた。
 私は本当にキャメリアなのか?
 この日記の主をここまで傷つけたのは私なのか?


 震える手で、改めて日記の冒頭を開く。


『――キャメリアの体調は今日も芳《かんば》しくない。漢方という薬が届いたので送ったが、所詮《しょせん》は人間の作ったもの。期待はできそうにない。
 ああ、それにしても腹が立つ。あの千日紅《せんにちこう》という男は何故《なぜ》、病の原因が私にあるなどと言いがかりをつけてくるのだろう。私のことを認めてくれるのはキャメリアと、そして彼《・》だけだ――』




 彼、というのは犀《さい》のことだろうか。それとも他にいるのだろうか。
 此処《ここ》に記されていた「千日紅」という男ではないということはわかるのだが。

「あ、そうだ! 思い出した!」

 考え込むミルの隣で、エリックが急に声を上げた。

「此処《ここ》、どうにも見覚えがあるなぁと思ってたんだけどさ。前にルチナリスさんと来たことがある城だよ!」
「ノイシュタイン城ではないと思うが?」
「違う違う」

 両手に持っていた本を、もういらない、とばかりに棚に押し込み、エリックは暖炉の上の燭台《しょくだい》を掴《つか》む。

「前にさ、ルチナリスさんと魔界に行った時の城なんだよ。此処《ここ》!」


 エリック曰《いわ》く。
 それは海の魔女事件の後。自分《エリック》の類稀《たぐいまれ》なる才能と溢《あふ》れんばかりの勇者オーラにいたく感動したノイシュタインの町長から、住み込みの護衛になってほしいとの依頼を受け、彼《町長》について初登城した日のことだった。
 ルチナリスと再会を喜び合う暇もなく突如《とつじょ》として目の前に現れた巨大な扉! それを通り抜けた先に広がっていた世界のひとつ、それがこの城に酷似していたのだ。
 ボロい《年季の入った》廊下も、装飾過多な《ゴテゴテした》扉も、そのくせシンプルな《質素すぎて意味不明な》部屋の内装も記憶の中とほぼ同じ。
 いきなり知りもしない場所に飛ばされて途方に暮れるルチナリスを励ましつつ、自分《エリック》は元の世界に戻る術《すべ》を模索する。

 その時だった!
 その部屋に少年と少女のふたり連れが入って来たのは。

 自《みずか》らを魔族と語った少年は、己を正当に評価してくれる「彼」に少女を会わせるために連れて来たようだった。少年が暖炉の上の燭台を倒すと秘密の通路が現れ、彼らは其処《そこ》から姿を消した――。


「……”彼”」

 この部屋の扉よりも装飾過多な話を延々と聞かされた後、ミルの耳に残ったのは「彼」という単語だけだった。
 「彼」と言う単語自体は特定個人を指すものではないのだから、出てきたところでおかしくはない。ただ気になるのは、日記の中の青藍の兄も「彼」に全幅の信頼を置いていたということだ。そして、エリックの見た少年も同じように「彼」だけを信用していた。
 青藍の兄はこの城の当主。そして少年も隠し通路の細工を知っているところからして部外者ではない。
 そこから導き出された答えは……青藍の兄とエリックが見た少年は同一人物、ということにはならないだろうか?

 そうすると、もうひとりの「少女」は「キャメリア」か?
 今エリックが握っている燭台をどうにかすれば「彼」に通じる秘密の通路が開くのか?

 通路の先にいる「彼」は、「キャメリア」を知っている。自分の知らない「キャメリア」を。
 犀《さい》がまともに提示できなかった「キャメリア」だという証拠も持っているかもしない。


「うん。で、僕らが同じように通路を進んだら、何でかしらないけど元の世界に戻っちゃって。椿さんは僕らこと忘れてるし、何処《どこ》かに行っちゃうし。仕方ないからアイリス様と柘榴《ざくろ》さんが待っ……………………ねぇ、ちょっと怖いこと言っていい?」
「どうした?」

 重要なことを思い出したのだろうか。
 秘密の通路を開ける工程《アクション》は、そのまま敵兵を呼び寄せる引き金だったとか。
 今までに遭遇した「戦うことに不慣れそうな人々(でも能力持ち)」よりも強力な――アンリレベルの男――が大挙して押し寄せて来たとか。
 いつも楽観的なエリックにしては珍しい蒼白な顔に、ミルはルチナリスを置いて来た長椅子《ソファ》と、簡易バリケードで塞《ふさ》がれた扉を窺《うかが》う。

 呪符の残数は30余。雑魚《ざこ》も強敵もひとりはひとりと換算するから、アンリレベルだろうと倒せる数に変わりはない。むしろ数で来られたほうが困る。

 だが。


「ウサギ、何処《どこ》行ったろう?」

 暫《しば》しの沈黙がふたりを襲った。
 

 そうだ。ルチナリスが柘榴《ざくろ》と呼んでいたあの灰色の毛並みのウサギ、あれは何処《どこ》だ?
 自分《ミル》は戦っていたからウサギなど持てない。
 エリックは……ルチナリスを背負っていた時、彼は両手で彼女の腕を持っていた。きちんと背中に乗るほど持ち上げることができなかった、と言うよりも、背負《せお》う時に彼女の尻を触ってしまうのを避けていたように思う。

 両手。
 エリックの両手は此処《ここ》に来るまで塞《ふさ》がっていた。


「置いて来ちゃった!!」
「置いてきたのか!?」

 犀《さい》の前から逃げる時はエリックに頼んだ。あの時は持っていた。
 此処《ここ》に入る時は持っていなかった。
 その間の何処《どこ》か。廊下の片隅、柱とテーブルとが陰を織り成す場所に身を潜めている時はどうだったろう。


「マズい、」
「……何がマズいのかしら?」

 先ほどのミルと同じように長椅子《ソファ》と扉に目を向けたエリックの後ろで、空気がゆるりと動いた。それと同時に声がする。

「爪を塗っている最中だったのに。騒がしいのはあなた方のせい?」