20-1 グラストニアの晩餐




 扉の向こうで風が鳴る。
 風にあおられたのだろうか、カラカラと転がっていく音がする。
 何処《どこ》からか入り込んだ隙間風が燭台《しょくだい》を揺らす。元々古びているから安定が悪いのか不安定に揺れる燭台《しょくだい》に、ルチナリスは思わず手を伸ばした。倒れて引火でもしたらシャレでは済まない。
 しかし何時《いつ》までもこうして押さえているわけにはいかない。どうすれば、と考えあぐねていると、横から手が伸びてきた。手は燭台《しょくだい》の裏側に何かを貼りつけ、再び机に押し付ける。まるで貼り付いたように……いや、どう見ても貼り付けられているそれを二度見し、ルチナリスは手の主を振り返った。

「あ、ありがと」
「ん」

 助けてくれたのは小柄な少女。カリンと一緒に付いて来た娘で、名は確かウィンデルダと言った。
 カリンがひとりで喋り続けているせいで事足りてしまっているのか、彼女《ウィンデルダ》はほとんど何も喋らない。喋らないから取っつきにくい性格なのかと思いきや、こうして手を貸してくれるのだから、悪い印象を持たれているわけではないのだろうとも思う。

 しかし。
 今貼り付けたのは何ぞや?

「カペレガム」
「かぺれがむ?」

 名称だけで説明がないあたり、今この場にいない誰かを思い出して胃がキリキリと絞られるようだ。
 カペレガムって何ですかお嬢さん。人生16年、そのようなものにお目にかかったことは1度もないのですが一般常識だったりしますか? あたしが非常識なだけですか?

「凄いでしょー! この間運んだ商人のオジサマに貰ったの。何度でも張り付く! 何度でもはがせる!
 いやーん、お料理のレシピを置くところがないわぁ~、でも大丈夫! カペレガムがあれば壁にペタッと、使い終わったらペリッと。勿論《もちろん》レシピが破れたり、ガムが残ったりなんかしない! これぞ! 常識を覆《くつがえ》す新! 発! 明!」
「はあ」

 そして、説明してくれるのはいいのだが、途中から実演販売の人と化すカリンが乱入してくるのもいつものことだ。

 運び屋の代金は現物支給なのかと疑いたくなるくらい、彼女らと合流してからこちら、珍品登場率が異様に高い。最初の頃は珍しがって聞き入っていた執事《グラウス》や師匠《アンリ》も今では素通りで、最近では専《もっぱ》らルチナリスひとりが観客役にされている。

 今だって、

「食事にしますから片付けてくださいね」

 と、玩具《おもちゃ》を散らかしている子供に対する母親みたいな台詞《セリフ》を吐きながら、執事が皿を置いていく。カペレガムの存在自体を無視している。

「……ってことで、どう? 便利でしょ?」

 そんな執事のOUT OF《アウト・オブ》 眼中にも慣れたのか、カリンは機嫌を損ねた様子もなく新たなカペレガムを取り出した。
 燭台《しょくだい》に使っているものが蛍光グリーン、新顔は蛍光ピンク。自然界にこんな色合いはないはずだが原材料は何だろう。ヤバいものを使っていそうでとても気になる。

「ソウデスネー」
「使ってみたいな、って思うでしょ!」

 マズい。これはなし崩しに売りつけられるパターンだ。
 便利だとは思うけれど、いらない。この先、使う展開が想像できない。万にひとつどころか億、もしくは兆にひとつくらいの確率で「うわぁ、何それちょっと貸して!」と義兄《あに》が正気に戻って飛びついてくる可能性が無きにしも非《あら》ずだが、そんな確率なら最初からないに等しい。

「ほらこうして形も作れるの。鍵穴に差し込めば簡単に鍵の型が取れるし、棒がわりにもなるし、逃げる泥棒の足元に投げれば動きを封じることもできる。これは次世代の冒険者の必需品よ!」

 カリンは畳み掛けて来る。
 勇者なら今頃、財布を取り出しているだろう。だがいらない。

「ほら、さっさと片付けなさい」

 そしてスルースキル発動中の執事はルチナリスの助けを乞《こ》う視線など完全にシャットアウトして料理の載った皿を並べていく。
 執事は頼りにならない、と他を見てもウィンデルダは何時《いつ》の間にやら遠く離れた席に座っているし、師匠《アンリ》に至っては既《すで》にがっついている。ミルはまだ厨房から出て来ない。


「ウニのムース、キャビア添えです」
「ウ、ウワー! オイシソー!」

 音も立てずに目の前に出されたカップが唯一の救い。ルチナリスは逃げるように匙《スプーン》を取り上げる。
 視線はカップONLY。それ以外――燭台とかカリンとかカペレガムとか――は絶対に見てはいけない。

 ブリキで出来た武骨なカップの中に透明なジュレと黒い小さな粒。飾り程度に添えられた小さな緑は名前も何も知らないが、きっと食べられるのだろう。
 ジュレを透かしてオレンジ色が見える。このカップが硝子《ガラス》でできていたのなら、オレンジのムースと透明のジュレの層が見ても楽しめる一品になっていたはずだ。
 でもこれはブリキ。捨ててあったものを拾って来たのではないかとまで邪推させる、実用性第一のものだ。軍隊で使っているかのようなくすんだ鉛色に遮られて、横から色の違いを楽しむことはできない。

「こういうのってナイフとフォークがずらっと並んでるところで食べるもんですよね?」

 他の席にも手際よく配っていく執事に、ルチナリスは問いかける。流石《さすが》は執事養成学校主席卒業生。ボロい食器を並べているだけでも様《さま》になる。
 いや。
 執事歴も10年ともなればベテランだろう。いい加減、その呼び方は相応《ふさわ》しくない。


「生憎《あいにく》と持ち合わせがそんなにありませんから、今日はスプーンで我慢してください」
「あ、そうじゃなくて」

 幸か不幸か、そのような席で食事をしたことは1度もない。並んでいるカトラリーは外側から使っていくのだ、と言う程度は知っているけれど。
 堅苦しいマナーにガチガチになって食べるくらいなら大口開けてかぶりついた方がいいと思ってしまう庶民派にとっては、最初からスプーンひとつで食べてね、と言われるほうが安心して食べられる。でも。

「潜伏してる奴《やつ》の食いもんじゃねぇって言いたいんだろ」

 隣で、ブリキのカップごと噛み砕くほうがキャラとしては合っていそうな大男がちまちまとスプーンを操りながら会話に混ざって来る。

「そうですか? でもウニと言っても崩れたものを使っていますし、海が近いところでは案外に安く手に入るものですよ」
「そ、そうなの?」

 ウニ=《イコール》高級品というイメージしかなかったが、思えばバウムクーヘンの端とか三日月型に曲がったキュウリは格安で売られているのを見たことがある。それと同じなのだろう。
 うーん、こういう小ネタを駆使して料理をすればとてつもなく女子力が高い印象を持ってもらえそうだ。
 ルチナリスはこっそりと心の中の女子力メモにチェックを入れる。




 此処《ここ》はグラストニアという名の、聖都ロンダヴェルグから南下したところにある港町だ。
 かつては音楽の都として名を馳《は》せていたこの町は、ルチナリスらが到着した時には、だが、その面影すら留《とど》めてはいなかった。
 楽器を扱う店だったのであろう、ピアノやヴァイオリンを模した看板が廃屋の壁で風に煽《あお》られている。劇場の看板絵は剥《は》げて何が何だかわからないものから、金具部分を残して外されてしまっているものまで。辛《かろ》うじて紅《あか》いイブニングドレスの裾らしき部分だけが見える看板は、この町の栄枯盛衰《えいこせいすい》を表しているようだった。


 魔界、つまりメフィストフェレスの城に、此処《ここ》から数km先にある森が最も近いらしい。
 グラストニアまでの道中にも森は何ヶ所もあって、その中には隔ての森もあったそうなのだが、執事たちはこの森を選んだ。人間《ルチナリス》が他の魔族に見つかって襲われると言う可能性を限りなく排除した結果、ギリギリまで人間界を通ることが得策だ、と結論付けたらしい。

 魔族にとって人間は狩って食べるほどの獲物。その獲物が武器らしい武器も持たずに魔界をうろつくのは「食べて下さいね♡」と書いた幟《のぼり》を高々と掲げて歩くも同然だ。
 別行動をしているソロネや勇者ともあわよくば合流できるのではないか、と言う期待も入っているらしいが……そんな配慮を申し訳ないと思うと同時に、有難いとも思う。

 魔界がどんな場所かは知らないが、食べ物も水も人間仕様ではないだろう。勇者は空気に瘴気《しょうき》が混じっているかもしれないとまで言っていたが杞憂だとは言い切れない。
 義兄《あに》も執事も師匠《アンリ》も人間界で普通に暮らしていたけれど、だからと言って、人間も魔界で同じように過ごせる保証は何処《どこ》にもないのだ。




 ルチナリスはそっと髪留《かみど》めに手をやる。
 1度は外そうと思った天使の涙はまだ其処《そこ》にある。

 天使の涙があれば力が出せる。戦える。
 でもそれは最初から力のないあたしには意味のないことだった。力に溺《おぼ》れれば闇に呑まれてしまうかもしれないなんて警告も、出せる力すらなければ呑まれようもない。
 危険を伴《ともな》うものだが他の候補に譲ったほうがロンダヴェルグのために有効活用してくれるだろう。少なくともあたしが持っていたのでは宝の持ち腐れにしかならない。
 あの事件の後、「魔法使いになる素質ならある」候補者たちは人々を癒《いや》し、救い、助けていた。力がないならないなりに薬を塗ったり包帯を巻いたり、手伝えることはいくらでもあっただろうに、あたしはずっと病院の待合室に座り込んでいた。

 悪魔と化した少女から傷を受けた。
 義兄《あに》が敵として現れた。
 だから何もする気が起きなくなってしまった、と言うのは今考えても甘えでしかなくて、聖女に相応《ふさわ》しくないと思ったのも一時《いっとき》の気の迷いなどではない、と、それは今でも思う。

 そう思って外すことを決めたのだが……外したこの石を「お守りとして」再び差し出したのはミルだった。
 これから行くのは危険な場所。もしあたしが危険な目に遭《あ》っても誰も助けることが出来なかった時のために、その意味で付けていてくれと言われた。
 ソロネはあたしに力が本当にあるのかどうか疑わしいことも知っている。それで置いていったのだから、「力を増幅するため」以外の効果もあるのではないかと言うのだ。だから、目に見える効果はなくても持っていたほうがいい、と。

 この石のおかげで彼らの心的負担が減るのなら、付けたくないと言うのはただの我が儘《まま》だろう。考えてみれば未《いま》だにあたしが悪魔化しないのはこの石が抑えているからかもしれないし、第一、「出立する時までに力を得る」という約束を反故《ほご》にしてついて来ているのだ。これ以上お荷物になるわけにはいかない。



「……ソロネとは行き違いになったみたいだな」

 師匠《アンリ》が名残惜しげにカップの底をさらうカチャカチャという音があばら家《や》に響く。
 いや、あばら家、と言うのは失礼だった。此処《ここ》はグラストニアにある1軒の宿屋。人間狩り以降、人が来ないせいで万年休業状態のようになっていた店の店主に、食事は自分たちで用意するから泊まる場所だけ貸してくれ、と交渉して無理やり転がり込んだのだから。
 それなのに店主は布団まで引っ張り出して貸してくれた。たとえそれが長年しまい込まれていて埃《ほこり》臭い代物《シロモノ》だったとしても、床の上や野宿に比べれば段違いで……店主とこの店には一生足を向けては寝られない。


「空路と陸路じゃすれ違うほうが難しいわよオジサン」

 ルチナリスたちはドラゴンに姿を変えたウィンデルダに乗って此処《ここ》まで来た。つまり運び屋の「荷物」として。
 道の都合で真っ直ぐに進めない陸路に比べて、空路は一直線。
 しかし良いことばかりではない。
 ドラゴンなど見たこともない人々に怯《おび》えられたり攻撃されたり、はたまた捕まえられそうになる危険を避ければ人里近くには降りられない。やむを得ず周辺の山や森に一旦着地し、そこから歩いて人里に入るという手段が取られている。そんな手間はかかるが、それでも馬車と汽車を乗り継ぐよりはずっと早いらしい。

 そして便利な反面、カリンが言うように陸路を行く人とすれ違うことはない。
 上から探そうにも豆粒より小さくては判別もつかない。

 案の定、この町に向かったと聞いていた豪奢《ごうしゃ》な金髪がトレードマークのお姉様は何処《どこ》にもいなかった。
 豆粒でもあのお姉様の金髪なら見えそうだと思ったのだが、それでもわからなかったあたり、ロンダヴェルグには戻らずに別の場所へ向かったのかもしれない。ノイシュタインで起きた人間狩りの噂を耳にして、そちらへ向かったとも考えられる。

「エリックも帰って来ないしな」

 ノイシュタインの報を聞いて先に聖都を後にした勇者《エリック》も、未《いま》だに合流できていない。途中の町で情報を拾った限りでは、人間狩り自体は時間的にも収束しているようなのだが、町がどうなっているかはわからないらしい。
 そうだろう。悪魔がいるとわかっている土地にわざわざ行く者などいない。


「いっそのこと、こっちから迎えに行くのはどうでしょう」
「やめてよ。ウィンデルダをそんな危ない場所には連れて行けないわ」
「だ、そうだ。諦めな」

 ルチナリスの提案はカリンによって一蹴《いっしゅう》され、追随《ついずい》する師匠《アンリ》にトドメを刺された。
 当のウィンデルダは黙々とパンを齧《かじ》っているが、聞いても無駄だろう。保護者役を買って出ているカリンが「危険だ。行かない」と言っているのでは。 

 それに勇者やソロネが合流できなくても文句は言えない。
 もともと彼らには魔界に行く必要も義理もないのだから。彼らの持つ武器や魔力は魔族と戦う際には役に立つだろうが、それだけの理由で巻き込むわけにはいかない。
 今同行しているカリンとウィンデルダにしたって、この先にあるという隔《へだ》ての森までの道連れ。ドラゴンの姿を見慣れているウィンデルダ山脈周辺に比べると、ロンダヴェルグ以南の道中は前述したとおりウィンデルダが飛ぶにはいろいろな意味で向いていない。彼女《ウィンデルダ》がずっと黙っているからと言って、それを肯定の意味に取ってはいけない。


「そりゃあ見知らぬ土地はいいわよ。マッパーの血が騒ぐわ。でもね」
「わー《か》ってるよ。俺だってそっちの小《ち》っこい嬢ちゃんに無理させてジルフェに吹っ飛ばされるのは御免《ごめん》だ」


 勇者は帰ってこない。
 彼が心配していた妹《メグ》は悪魔狩りがあったノイシュタインではなくその隣町だから被害などないだろう、様子を確認したらすぐ戻って来るだろう、と、甘く考えていたのかもしれない。
 もし家族が無事だったとしても、彼は町長をはじめ、ノイシュタインにも世話になった人が多くいるからそちらの心配もするだろう。もしかしたら復興に手を貸さざるを得ない状況になっているかもしれない。
 彼《か》の地で悪魔狩りの残党に出くわして、怪我をしたかもしれない。命を落としているかもしれない。その前にロンダヴェルグを無事に抜け出せたのかすら確認できていない。 

 行け、と言ったのは自分。なのに、戻って来ないことをどうこう言うのはおかしいわ。
 ルチナリスは最後のひと口になってしまったウニのムースを掬《すく》う。パンに付けようかとも思ったが、結局そのまま口に運んだ。


「しっかしこの歳になってドラゴンだの精霊だのと知り合うことになるとは」
「今度は悪魔とも仲良くなっちゃいなよオジサン。人外な顔同士仲良くなれるんじゃない?」
「だから悪魔は……! ……まぁいいや、この話は終わりだ終わり!」

 そんな師匠《アンリ》の声を聞きながら。




「あれが今日の宿。森に行くのは明日の朝だ。大したもんもねぇ町だが、散策して来るか? この世の名残に」

 今日の昼頃、一行はグラストニアに着いた。
 師匠《アンリ》が大きなリュックを下ろしながら指さしたのが、今、ルチナリスたちがいる宿だ。
 悪魔に襲われた時の名残なのか、窓は何枚もの板で塞《ふさ》がれていていて人がいるようには見えない。しかしそれはこの宿屋に限ったことではなく、通りに並ぶ他の店も同様で、まるでふらりと立ち寄ったら最後、2度と外に出てこられない食人屋敷のよう。今でこそ笑い話にできるけれど、数時間前の当時はまさに断頭台に上る囚人になった気分で、足を踏み出すのにかなり勇気が要《い》ったものだ。

「死にに行くんじゃないんだから、そういう言い方は止めて下さいよ」

 笑えない冗談に引きつる頬を両手で擦《こす》り上げて隠したことを思い出す。


 この町を出たら、後はもう森しかない。そしてその先は魔界だ。
 人間界で最後に見るのが人間のほとんどいない町だなんて。そんなことを思いながらルチナリスは散策しろと言われた通りに目を向ける。

 人間狩りに襲われた町や村はほぼ壊滅する。
 小さな村なら赤子から老人まで捕らえられ、後に残されるのは死体くらい。比較的大きな町でも8割近くが同じ目に遭い、生き残る者はごく僅《わず》か。そんな人間狩りに、此処《ここ》グラストニアは再三にわたって襲われたのだと言う。
 ノイシュタインと違って大きな港があるから被害の後も人が集まりやすかったのか、音楽の町ということで有数の劇場《コンサートホール》があったからか。人間狩りの後に復興する町が皆無に近い中、グラストニアは何度も復興を遂げた。そして聖都ロンダヴェルグ同様、「悪魔に屈しない町」として知られるようになったのが逆に仇《あだ》になったのか、その後何度も襲われる羽目に陥《おちい》った。
 悪魔に目をつけられている、となれば|流石《さすが》の人々も逃れるようにひとり、ふたりと町を去るようになり、船も寄港する港を変え。客がいなくなれば、華やかに劇場を彩《いろど》っていた踊り子や歌い手たちも離れて行った。
 紅《あか》いイブニングドレスはその中でも花形だったのだろう。町中にその痕跡を見ることが出来た。





「シェリーは素晴らしい歌姫でしたよ」

 ルチナリスがそう声をかけられたのも、そんな痕跡のひとつを眺めていた時だった。
 ちょうど買い物からでも帰ってきたところなのだろうか。みすぼらしい布の袋を提げた老婆が立っている。袋の口から、自生している雑草を抜いて来たのかと見紛《まご》う|草《野菜》と、僅《わず》かな瓶詰が見える。夕食の材料だろうか。

「シェリー?」
「ほら、その紅《あか》いドレスの。綺麗な人でねぇ。まぁ美人歌姫も今じゃお婆ちゃんになってるだろうけどさ」

 空気が擦《こす》れるようなうら悲しい笑い声を耳にしながら、ルチナリスはもう看板に目を向ける。裾だけになったドレスから彼女の美貌を想像することはできない。

 シェリー。
 司教《ティルファ》が義兄《あに》に襲われながらも呼んだ名だ。
 あれはいったいどういう意味だったのだろう。意識がもうろうとして会いたい人の幻でも見たのだろうか。

 会いたい人。ルチナリスは考える。
 ティルファ様の会いたい人って、前《さき》の聖女様じゃないの? と言うことは、聖女様の名前がシェリーで……このドレスの人が聖女様だったってこと?

 まさか。

 偶然にしては出来過ぎている。出来過ぎているからこそ疑わしい。
 司教《ティルファ》の話を聞いている時も思ったが、前《さき》の聖女の失踪した年と死亡したとされる年、そして聖女自身の年齢が噛み合わない。まるで聖女がふたりいるようだ。

 失踪したとされる100年近く前、聖女は「やりたい仕事がある」という理由で髪を染めていた。ということは若くとも10代、またはそれ以上。働いている子供は珍しくないが歌姫はないだろう。
 そして次代の聖女とされる候補者の娘が現れ始めたのは、ここ1年ほどの間。それまでは「聖女の力が失われていない」「だから生きているかもしれない」と判断されて神託も下りずにいた。
 これがひとりの人だとしたら、どう考えても人間の寿命を超えている。
 だがもしふたり……司教《ティルファ》が知らないだけで血縁にあたる娘か歳の離れた妹がいたとしたら辻褄《つじつま》は合う。

 司教《ティルファ》に影響を与え、失踪した前の聖女をAとする。
 Aが失踪の何年か後に亡くなって、聖女の力がその娘――Bとする――に流れて。
 でもBは聖女だと宣言することもロンダヴェルグに行くこともなく、そのまま市井《しせい》の民として……グラストニアで歌姫として活躍して。
 度重なる人間狩りからこの町を出て、ミバ村のほうに行って。
 そこで病気か怪我か、はたまたミバ村の人間狩りに巻き込まれたかはわからないけれど亡くなって。
 Bには身寄りがなかったから他の娘に力が流れてしまった(今ここ)。

 もしかしたら聖女Aもグラストニアで歌姫をしていたかもしれない。聖女BはAに倣《なら》って歌姫を始める際に、Aの名前《シェリー》を名乗ったのかもしれない。
 それなら年齢や年数が不協和音を奏《かな》でることもない。


「レコォドがあるから聞いていくかい?」

 老婆は傾きかけた家の扉を開けながら手招く。

「悪魔を呼ぶ声だなんて言う人もいたけどね。そりゃ、あの歌声を聞けば悪魔だってフラフラ寄って来るってなもんさ」

 そんな噂もちょうど「シェリー」の活動時期と人間狩りの時期が重なっていたからこその風評だろう。
 前言、ちょっとだけ撤回。
 聖女B《シェリー》がこの町を出たのは人間狩りのせいだけれども、本当に本当の原因は、この町の住人から悪魔を呼ぶ女だと責められたからかもしれない。

 ルチナリスは傍《かたわ》らのミルを見上げる。彼女は目だけで「ご自由に」と答える。
 宿屋はすぐ目と鼻の先だ。大声を出せば聞こえるだろうし、このお婆さんならルチナリスの腕でも倒せそうだし、何よりミルがついて来るなら安心だ。
 それに。
 前《さき》の聖女についての有力な情報に繋《つな》がるかもしれない。
 ルチナリスは老婆に向かって頷いた。





『splendida caelum……Neque noctem aurora est……novum…… 』

 カタカタと上下に揺れながらレコォドの上を針が滑って行く。ところどころに雑音が入るものの、シェリーの歌声は雑音など全く気にならないくらい明瞭に耳に流れ込んで来る。

「これは何て曲ですか?」
「さあねぇ。何か新年を祝う歌らしいから、うちじゃ毎年、年が明けた時に聞いているんだけどね」

 老婆は懐かしそうに目を閉じる。今頃は失った家族と共に過ごした新年の様子でも思い浮かべているのかもしれない。

 それにしても、何処《どこ》かで聞いたことのある歌だ。
 何処《どこ》だったろう。ノイシュタイン城下町で? それともオルファーナで? 違う。もっと前……何処《どこ》かで。

 懐かしい。

 ルチナリスも老婆に倣《なら》って目を閉じた。
 歌が響く。
 高く、高く、青い空をずっと高く駆け上がっていく。歌に乗ってルチナリスの心も空へ飛ぶ。
 
 海が見える。
 太陽が煌《きら》めく。
 自分の周囲を踊る風を感じる。

 そして。

 差し伸べられた手が見えた。
 笑っている、誰かの口元が見えた。







 老婆の家を辞《じ》した頃には、高いところにあったはずの陽も傾いてしまっていた。
 町の向こう、明日向かう予定の森に熟《う》れ切ったトマトみたいな夕陽が沈もうとしている。潰れた果肉から紅が飛び散って、あたりを同じ色に塗り替えていく。
 まるで……ミバ村の最後の日に見た夕陽のようだ。あの後やって来た悪魔たちに襲われて、村と村人はあの夕陽と同じ色に染まった。


「行くのか? 劇場主のところに」
「……行ってもいいの? かな」

 老婆は歌姫シェリーのことは何も知らなかった。
 歌姫や踊り子といった芸で稼いでいる人の素性はたいてい公《おおやけ》にされていない。実家や住居に押しかけたり、親兄弟に絡んだりする一部の悪質なファンから身を守るためもあるが、ミステリアスなほうが人気が出ると思われているからだ。シェリーの母か姉も歌姫だったのか否か、なんて話を老婆が知らなくても文句は言えない。
 だが、老婆は知らなかったが「劇場主なら知っているかもしれない」との情報をくれた。
 劇場主も老婆同様、命だけは助かったそうだが、劇場を畳み、今では崖の上にある一軒家に引き籠っているのだと言う。


「目と鼻の先だ。数時間の寄り道は大丈夫じゃないのか? このまま魔界に行って死んだ日には、前《さき》の聖女のことが気になって成仏できなくなるぞ」
「それは困ります」


 埃《ほこり》と落ち葉が絡まった灰色の塊が、風に煽《あお》られて通りを横切る。半壊した劇場の入口に吸い込まれていく。
 入口の左右に並んだ看板絵は、ひとつとしてまともな形で残っているものはない。
 人々が町を去る時に思い出として持って行ったのだろうか。それとも魔族によって壊されたのだろうか。悪魔を呼ぶ歌声だから、と、人の手によって壊されたのだとしたら少し悲しい。


 ノイシュタインは今、どうなっているだろう。
 この町のように人がいなくなっているだろうか。町の名残がわからなくなるほど滅茶苦茶にされてしまっただろうか。

 義兄《あに》と共に過ごしたあの世界がまるで夢だったかのよう。
 悪魔の恐怖を知りながらも、それに怯《おび》えることもなく過ごした10年。あの時、あたしとあたしを取り巻く世界を「悪魔」から守っていたのは、紛《まぎ》れもなく、その「悪魔」と呼ばれる人だった。
 でも、あたしを守ってくれたその人は、もう……いないのだ。


 耳の奥でシェリーの歌声が響く。
 歌を聞いている間に見えたあの光景は何だったのだろう。
 笑いかけたあの人は誰だったのだろう。
 あの歌を、あたしは何処《どこ》で聞いたのだろう。




「あとはタマゴサンドです」

 その声にルチナリスは我に返った。

 ウニのムースを配り終わったらしい執事《グラウス》が、大皿をテーブルの中央に置いている。パンの耳がついたままの大ぶりのサンドイッチが山になっている。

 ……何だろう、このギャップは。
 普通、ウニのムースとかの後に出てくるのは舌平目のナントカとかカントカとか、そう言うものじゃないの? 白い皿の真ん中に少しだけ料理が盛ってあって、まわりをソースで飾ってある、みたいな。
 いや、期待していませんわよ? こんな傾いた宿屋でそれを期待するほうがおかしいのはわかってますことよ奥様! って、そうじゃない。セレブ会話でお茶を濁している場合じゃない。
 ルチナリスはブリキカップを握ったまま、席に着こうとしている執事《グラウス》に目を向ける。


 崖の上の一軒家に行ってみたい、とはまだ言えていない。
 老婆の家から戻ってきてこちら、明日には魔界入りする、ということで執事からも師匠《アンリ》からもピリピリした緊張が伝わって来て、とても寄り道したいなどと言える雰囲気ではなかった。夕食時には多少和《なご》やかになっているだろうと、その時が来るのを待っていたのだが……カペレガムからその売込み、場違いなウニ、そして意表を突いたタマゴサンド。この連続攻撃には反撃の隙もなく、こうして腹の中で言いたい思いだけが石のように重く沈んでいる。

 また寄り道をしたいと言ったら執事は気を悪くするだろう。そうでなくともあたし《ルチナリス》のせいで出立が遅れているようなもの。執事ひとりなら、いや、あたしがいなければ、とうの昔に魔界入りできていたはずだ。
 執事が義兄《あに》を取り返したいと思っていることは痛いほどわかっている。あたしとは違って、義兄《あに》はあの家にいるべきではないと、こちら側に帰って来るのが最善だとそう信じて疑わない。

 前《さき》の聖女のことなど、聖女候補が何人も現れている今となっては過去の話。ほじくり返したところで誰も得をすることなどない。
 年代と聖女の年齢の辻褄《つじつま》が合おうが合うまいが、それはあたしひとりのモヤモヤが解消するか否《いな》かというだけで、この旅での優先度はかなり低い。義兄《あに》を取り返してからでもいいくらいだ。
 それは……わかっているけれど。


「タマゴサンドってこういう奴《やつ》だったか?」

 ルチナリスの向かいでは、早々にブリキコップを置いた師匠《アンリ》がひとつ手に取り、まじまじと眺めている。
 細かく刻んだゆで卵を卵と酢を混ぜて作ったソースで和《あ》えたものが挟まっているのが定番だが、執事のタマゴサンドは厚焼きの卵焼きが挟まっている。レタスの緑とケチャップの赤が、原色に近い黄色を華やかに引き立てている。

「なあ?」
「そ……うですね」

 言い出せないまま、まわりの空気に合わせるようにルチナリスもサンドイッチをひとつ手に取った。

 こんなものを食べている場合じゃないのに。そんなことを思いながらも一口頬張ると卵焼きの甘さが広がった。
 うん、これは卵サラダ系では味わえない。と、何となく流されてしまって。そんな自分が嫌になる。


「私はこちらのほうが好きなので」
「ああ、わかる。結局、料理って料理人の好みが入ってくるからな」

 執事の言に相槌《あいづち》を打ちながらやっと現れたミルは、肉の塊を手にしていた。
 その肉に目が釘付けになったであろう師匠《アンリ》が、

「それじゃその肉はお嬢の好みなのか……」

 と呟く。自分の半分ほどの胴回りしかない女性剣士が肉に齧《かぶ》り付く様《さま》を想像したのかもしれない。よもや「女の子はスイーツでできているの♡」などという夢を見ていたわけではないと思うが、何処《どこ》か落ち込んでいるようにも見える。
 そしてその悲しみに満ちた呟きはミルには届かなかったようだ。

「ああああああ! ミぃぃぃルぅぅぅぅぅ! ずっと出てこないからまたいなくなったかと思ったじゃなぁぁぁい!」

 中年親父の落ち込みも微妙な雰囲気も蹴り飛ばす勢いで、ミルの首にカリンが抱きついた。肉を乗せた皿を落とさないかのほうに注意を向けているミルには相変わらずと言うか流石《さすが》と言うかなのだが、やはりこういう行為を目の当たりにするとふたりの関係を疑ってしまって。
 ちょっと待て! この3人で三角関係とか見たくないわよ?
 と言うか、カリンにしか懐いていないウィンデルダも入ってきたら四角関係にならない!? ってそんなことを考えている場合じゃないのに(n回目)、あたしの馬鹿!

 黙って見ているだけなのに頭の中では支離滅裂なひとりコント。
 わかる、これは笑いに逃げているだけ。それがわかっているから、また自己嫌悪ばかりが上書きされていく。


 何故《なぜ》だ。あたしはこんなに消極的ではなかった。
 「ちょっと一軒家に行ってみたいの!」と言うだけのことに何故《なぜ》ここまでウジウジと空気を読みまくっているのだ。
 人数が多すぎるから言い出すタイミングが掴《つか》めないのか?
 それとも……。
 

「ミルってたまに姿を消すから心配なのよー」
「厨房からなど消えようがないと思うが」
「そうだけど、ミルって急に気配が消える時あるじゃない? それでふらっと全然違うところから戻ってきたりして。それで、もしこのまま消えちゃったりしたら、って」
「戻って来るんだからいいだろう? 大袈裟な」 

 その間にもミルとカリンの意味深な会話は続いていて。
 ウィンデルダと師匠《アンリ》は黙々とサンドイッチを平らげていて。


 ……罪悪感。から?
 ルチナリスはひと口齧《かじ》ったままになっているサンドイッチを、俯《うつむ》いたままもうひと口頬張《ほおば》る。
 ロンダヴェルグに行きたいと言って出立を遅らせたあたしが、今度また前《さき》の聖女について知りたいから一軒家に行きたい、なんて言ったら皆からどう思われるだろう。それが心配だから?
 それとも。


「お嬢がずっと厨房に閉じ籠ってたのはそのせいか」
「此処《ここ》の竈《かまど》は火が弱くて、なかなか火が通らなくてな」

 ミルはカリンをあしらいながらも、手にしていた皿を自分の席の前に置く。まさか本当にひとりで食べるつもりでは!? と(主に師匠《アンリ》が)凝視する中、彼女は短刀《ナイフ》で肉を削《そ》ぐように切り分け、小皿に取り分けていく。

「鴨の腹に香草を詰めて、塩釜焼きにしてみたのだが」
「その鴨と香草はあたしとウィンデルダで取って来たのよ! 褒めて褒めてー!!」


 どうやらルチナリスとミルが老婆の家を訪問している間、カリンとウィンデルダは食材調達に行っていたらしい。
 香草は老婆が持っていたものに似ている。やはり近くに自生しているのかもしれない。

「でも花薄荷《ハナハッカ》は見つからなかったの。ごめんねぇ」
「……旅先ではな。仕方ない」
「花薄荷《ハナハッカ》?」
「ミルのお茶。飲んだことない?」

 ……あれか。
 ルチナリスはロンダヴェルグでの食卓を思い出す。思えば3度3度の食事に必ず薬草茶が出て来ていた。
 きっとあれが花薄荷《ハナハッカ》なのだろう。

「花薄荷《ハナハッカ》は邪気を払うって言われているの。ロンダヴェルグでもなかなか手に入らないから、あたしが定期的に届けてるのよ」
「ああ。助かってる」


 自慢げに話すカリンの顔を眺めながら、もしかしたら自分が何時《いつ》までも悪魔化しないのは、ずっと花薄荷《ハナハッカ》のお茶を飲んでいたから邪気《悪魔の毒気》が寄り付きにくい体になっているのかもしれない。なんてことを、ルチナリスはふと思った。
 共に薬草茶を飲んでいた勇者《エリック》も、花薄荷《ハナハッカ》に守られていればいい、と。

 そして、そう願う一方で、ひとつの疑惑がゆっくりと首をもたげる。

 和気あいあいとした雰囲気にあてられるようにしていろいろ考えるのも、一軒家に行きたいなどと今になって思いつくのも、全部逃げだ。
 今大事なのは魔界に行って義兄《あに》に会うことなのに。
 あたしはそのために此処《ここ》にいるのに。
 前《さき》の聖女のことも気になるけれど、魔界行きを延ばしてまで調べなければいけないことではない。「ただ名前が同じ」だけの歌姫の素性にしてもだ。
 それなのにあたしは……何だか……魔界行きを引き延ばしたくて別件に目を向けているよう、な……?




 それにしても何故《なぜ》にこれから敵地に潜入しようと画策《かくさく》している連中の食事がこんなに豪華なのだろう。今日はクリスマスでも誰かの誕生日でもないのに。
 やはり今日が人間界最後の日だからか?
 行ったら戻って来られないと、そう思っているからか?
 ミルもカリンも、そして魔族のはずの執事《グラウス》や師匠《アンリ》でさえも。ウィンデルダは……どう思っているのか全く分からないけれど。


「料理が出来る奴《やつ》はやっぱり旅の必需品だよな」

 師匠《アンリ》が肉を頬張りながらやけにしみじみと呟く。
 その言葉からは死地に赴《おもむ》く覚悟は微塵《みじん》も感じられない。どちらかと言えば「明日も肉が食いてぇなぁ」みたいな(消極的な)未来を抱いているようにも聞こえる。

 だが、今まで質素倹約の権化みたいな食事続きだったのに、今日はいきなりスペシャルディナー。どれだけ疎《うと》くたって何かあると思うのが普通だ。1分前の自分《ルチナリス》のように「最後の晩餐のつもりかも!?」と邪推してしまうし、だから場が暗くならないように別の話題で誤魔化しているのだ。そうに決まっている。
 それに元軍人だから旅と言っても行軍で野営、なんてほうが多かっただろうし、そうなれば食事も自分たちで作るわけで、飯《メシ》が不味《マズ》ければ英気も萎《しぼ》むわけで。
 今回のこれも世間一般の旅行よりは行軍に近いものがあるから、尚更《なおさら》食事の重要さを感じているに違いない。


「そうよねー。あたしが最初にいたパーティにもいたわよ、料理人」

 カリンがウニを掬《すく》いながら、こちらも過去に思いを馳《は》せている。

「ご飯が美味《おい》しいって幸せよ。2番目のパーティは料理できる人がひとりもいないからずっと外食だったんだけど、行く先にいつもお店があるとは限らないじゃない? ダンジョンも泊まりになってくると、後半はほっそい雑草がちらほら生えてるだけみたいな場所で野営になるのよね。最悪よ。何食えってのよ」
「何を食べたんだ?」
「その日倒したのがスライムだけだから、って。いや、スライムは食えねぇよ! ってその場で啖呵《タンカ》切って帰って来ちゃったわ」

 ご飯大事。
 生のスライムを食べた経験でもあるのだろうか、師匠《アンリ》が「うげぇ」という声が出てきそうなほど口元を歪めている。

 考えてみれば、ノイシュタイン城にやって来ていた多くの勇者一行にも料理人はほとんどいなかった。剣士亭に貼ってあった求人募集にも料理人はなかった。料理ができる人という指定もなかった気がする。
 多分に「勇者パーティに料理人はいない」というのがデフォルトで、カリンが属していた最初のパーティが特殊だっただけだろう。スライムを食べようとした2番目のパーティを責めてはいけない。多分。


「ああ、そう言えば10歳になるとナントカマスターを目指して旅に出るのが習わしの国の子供も、必ず料理人が付いて回っていたそうだ」

 意味不明に追随《ついずい》しながら、ミルは半分が骨ばかりに――実験室の硝子《ガラス》ケースに入っている人体模型のように――なった塊を置く。
 骨の隙間から香草が覗《のぞ》いている。鴨の|脂《あぶら》と絡んで……雑草じみた野性味溢《あふ》れる草のくせに、妙に美味《おい》しそうに見えるのは何故《なぜ》だ。


「へぇ、それは誰の情報だ?」
「エリックだが」

 あいつは博学だな、と師匠《アンリ》とミルは、今此処《ここ》にはいない勇者を話題にして笑っている。
 いや違うでしょ。その情報、絶対何処《どこ》か間違ってる。
 ツッコミたい。ツッコミたいけれど残念なことに根拠がない。

 
 ――楽シソウ ネ。


 嘲笑《あざわら》う心の声が聞こえる。
 今になって魔界行きを|躊躇《ちゅうちょ》するあたしを。
 躊躇《ちゅうちょ》していることからすら逃げようとしているあたしを。
 


「でもこんなに料理ができたらいいですよね」


 ――ホラ、マタ。


 隣に座る執事に話しかけるルチナリスを、心の声が嗤《わら》う。

 違うわ。
 この旅の主導権を握っているのはこの男。ここを落とさないことには寄り道などできない。だから。


 ――ソノ寄リ道ハ ソンナニ 重要ナコト ナノ?


 それは……。
 ルチナリスは心の声から耳を塞《ふさ》ぐ。
 みんなが和気あいあいと最後の食事を楽しもうとしているのよ。あたしだって今だけは、


 ――逃ゲテル。


 違う!


「……どうかしましたか?」
「いっいいいえいえいえいえいえ! た、食べたいものが何でも作れるんですから!」

 ルチナリスの様子に不審なものを覚えたのか、怪訝な目を向けて来る執事を笑顔で誤魔化《ごまか》して。
 そうよ、今は食事を楽しまなきゃ。水を差すことなんてできないわ。これは逃げているわけじゃない。
 心の中にゆらゆらと浮かび上がる嘲笑をそんな言葉の蓋《ふた》で追いやって、覆《おお》い隠して。


 今までならそんなことを言おうものなら三ッ星レストランのシェフ並になるまでしごかれる羽目になっただろうが、流石《さすが》に今から料理教室は開催しないだろう。
 自分《ルチナリス》の腕が悲惨すぎたせいでミルと出会ったであろうところから言えば、料理スキルは低いほうがいいのでは? なんて思わなくもない。
 けれど女の子なのに何も作れないというのは案外、肩身が狭いのだ。しかも連日、玄人《くろうと》はだしな料理スキルを目の当たりにさせられ続けていると。
 男尊女卑だ、炊事は女の仕事か!? と荒らげつもりもないし、誰もそんなことは気にしていないだろう。
 でも!
 ウニや鴨は無理だとしてもサンドイッチくらいは! パンに具材を挟むだけなんだし!

 かつて「茶葉にお湯を注ぐだけ」の代物《シロモノ》ですら執事に「毒」と言われたことなどすっかり忘れて、ルチナリスは新しいサンドイッチに齧《かぶ》り付く。


「そうでもありませんよ」

 その「毒」と言い放った執事は、マナー教本のお手本のような所作でサンドイッチを切り分けている。
 サンドイッチにナイフとフォーク!? あたし、手づかみで食べちゃったわよ!?
 先ほどウニを「スプーンだけで我慢してくれ」と言われただけあって、手づかみでも注意されることはないが、10年間この男にテーブルマナーで小言を言われ続けた身としてはかなり気にしてしまう。
 いや、TPO的には手づかみのほうが合ってるはず。……はず……なんだけど、ピクニックじゃあるまいし、ディナーとしてはやはりナイフとフォークは必需品なんだろうか。悩む。

「料理の腕がどれだけ酷《ひど》くても、自分のために作ってくれた料理と言うのは料理人のものよりも美味《おい》しいと感じたりするものですからね」

 だがしかし。
 続けて執事の口から放たれた台詞《セリフ》に、ルチナリスはポロリ、とフォークに刺そうとしていたサンドイッチ片を取り落とした。

 慰めているのだろうか。
 こいつが?
 もしかして頑張って作れば、この男も美味《おい》しいと言ってくれ……いやいやいや。
 変な想像をしそうになってルチナリスは慌てて首を振る。
 それはない。どう頑張ったところで、「塩が足りません」とか「焼きが甘い」とか難癖《なんくせ》をつけてくることは長年の付き合いで十分わかってることじゃない! 今まで褒めてくれたことなんか1度たりともないじゃない!
 ないじゃない! ……け、ど。

「グ、グラウス様は例えば、どんなものだったら美味《おい》しいと思います?」

 それでもちょっと聞いてみちゃったりする乙女心。
 こ、これはちょっと興味があるだけよ。執事に、じゃなくて、これだけ料理が出来る男が食べたいもの、ってところに! あとは話題作りと、会話が途切れないようにと、それから、それから……っ!

「私? 私は……………………パンケーキ、ですか、ねぇ」
「パンケーキ!?」

 考え考えしながら返って来た返答に、ルチナリスは思わず声を上げた。
 それならあたしでも作れる!
 いや、だから、これには他意はなくってぇぇぇぇえええ!
 声を上げてしまってから頭の中で弁明してももう遅い。遅いけれども誰も聞いているわけではないし、セーフよセーフ!
 それにこれは執事に気があるからではなくて! あたしだってこれくらいは出来る、と見せつけるための、そう! 全くできないんじゃなくて少しはできるランクなのよ! という自己アピール!! 0と1との差は大きいのよ!


「何だ? 手料理で男を落とす算段か?」
「師匠は下世話すぎます!」

 ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべて酒をあおる大男に、ルチナリスは小さく舌を出した。
 この酔っ払いの中年親父め。そんなことを言ってるからその歳で嫁のひとりもいないのよ! ……と、それは心の中だけで。お酒のおかげで機嫌は良さそうに見えるけれど、キレたら手がつけられないのは町長宅で執事と一触即発だったことでも確認済。それに面と向かって悪態が言えるほど親しいわけでもない。

「ああ」

 そんなやりとりを眺めていたミルが急に得心したかのような顔で頷《うなず》いた。

「誰かのものになっている男を手に入れることに意義があるんだとソロネが言っていたが、こういうことか」
「何ですかそれはぁぁぁぁあああああ!!」

 急に何を言い出すんですかお姉様。
 この人はこの人でいったいどんな育ち方をしてきたのだ。真面目なのはいいがソロネや勇者の与太《よた》話を鵜呑みにされては困る。

「女は天性のハンターだと言っていたぞ。そんなのはソロネだけだろうと思っていたのだがルチナリスもそうだとは、ソロネの言うことはあながち間違っているわけではないのだな」
「ちっ、違」

 ソロネさん。あなた一体いつも何喋ってんですかーー!?
 勇者様といいソロネさんといい、もう少し寡黙になってください。いない時にまで影響を及ぼすのはやめてください。|是非《ぜひ》!

「何だ、ポチみたいのが好みなのかぁ? エリックが泣くぞ。仲良く海水浴に行った仲なんだろ?」

 何時《いつ》の間にやらすっかりできあがっている師匠《アンリ》が、呂律の回らない舌で絡んで来る。
 あーもう! この中年親父は! 仲良く、って、そこにあなたもいたでしょうに! と耳を塞ぎたくなってきたルチナリスの横から、今の今まで黙っていた執事の声が聞こえた。
 パンケーキまでの穏やかさは何処《どこ》へやら。その声の温度は氷点下にまで下がっている。

「……聞き捨てなりませんね。あれは確か女友達と出かけると仰《おっしゃ》っていませんでしたか? 嘘を言ってまで男と……しかも半裸で。破廉恥《ハレンチ》な」
「誤解しないで! 行ったらたまたま勇者様がいたのよ!! 仕方ないでしょ!?」

 半裸って何だ! あれは水着よ! いかがわしい言い方するんじゃないわよ!!
 そう思いつつも躾《しつけ》モードにシフトチェンジしている執事の視線が怖すぎて直視できない。この男、義兄《あに》がいない間、あたしの保護者でいるつもりかもしれない。

 違う! 誤解はとかないと! 
 あたしは勇者様なんて何とも思ってませんからーー!

「なるほど。脱衣で男を釣るのか」

 そんな中、ミルが火に油を注ぐ。

「ミルさんは少し黙っててぇ!!」

 だからあれは水着よ!
 あたしが裸になって勇者様を誘惑したみたいに聞こえる発言はやめて!!




 ああ。何故《なぜ》コント展開になるのだ。
 いや、わかる。これも人間界最後だから。明日には敵地入りするから、だから今だけはそれを忘れようとしているのよ。気持ちはわかる! わかるけれどぉぉぉお!!
 ルチナリスは心の中で苦鳴を上げる。上げている間も目の前では勝手に他人の恋バナ《恋愛話》を捏造《ねつぞう》した談笑が続いている。


「そう言うお嬢はどうなんだぁ? 男には興味なさそうだが」
「残念だが興味を持ったところで中年は射程外だと思う」
「おい」

 ルチナリスが反応しなくなったので飽きたのか、酔っ払い親父《アンリ》はミルにちょっかいをかけ始めた。
 放っておいても自分のことを喋ってくれるカリンと違って、何も言わないから気になる部分ものあるのだろう。腕は立つ人だから常人には理解できない同類の臭《にお》いでも嗅ぎ取ったのかもしれない。台詞《セリフ》はオッサンだけれども。
 男勝りな剣士を「お嬢」と呼ぶのは嫌味と紙一重な行為だが、予想に反してミルは何も言わない。
 もしこれが勇者だったら、今頃、彼の体は剣圧に吹き飛ばされて壁と一体化しているところだろうにこのセクハラ親父《アンリ》に対して何もしないのは、元々の他人への興味の薄さもあるだろうけれど、挑発をあえて流しているようにも感じる。

 これもやはり「常人には理解できない同類の臭《にお》い」か!?
 よくあるじゃない。戦力が拮抗《きっこう》していると何年戦っても決着がつかないから、あえて正面衝突しないようにしている、とか何とか。


「パンケーキなんか自分で作れるだろ」

 そんなルチナリスのセルフ解説中にも、親父の標的は執事に移動している。


 ――コノ分ジャ 徹夜デ宴会コース 確定ネ。


 封じたはずの心の声までもが何処《どこ》かから漏れ出してくる。
 

 ――コノママ デ イイノ?
   コノママ ダト 一軒家ノ話ヲ出ス機会モ ナイママ 日ガ変ワッテ 出発シテシマウ ワヨ?


 それは……困る。
 でも。


「ええ。でも自分で作るものではないんです」

 メイドの心、執事知らず。
 隣席の心の嵐など全く気付いていないのか、未《いま》だにスルースキルが継続中なだけなのか、執事《グラウス》にルチナリスの心の叫びは届かない。ノイシュタイン時代にはプライバシーはないのか!? と訴えたくなるくらいあっさりと他人の心を読んできやがったと言うのに!


 が。
 ちょっとだけそれは置いといて。


 自分で作るパンケーキが食べたいわけじゃない?
 自分のために作ってくれた料理は料理人のものよりも美味《おい》しく感じる?
 どんなに腕が酷《ひど》くても?
 ……あれ? それって……あたし、作るチャンス!?




 いやだから! 違う違う違う!! あたしは執事のことなんざ何とも思ってない!
 最近ちょっと優しいからってホイホイ|靡《なび》くあたしじゃないわ。ほら、前に勇者様も言っていたじゃない。恋愛の基本は押して押して引くんだっ……いや違う! だから! 本当に! 何とも思ってませんからーー!!




「――以前、青藍様が作って下さると仰《おっしゃ》いました。その約束はまだ叶えて頂いていませんねぇ」

 遠くを見る目で執事は言う。その表情にルチナリスの思考が止まった。
 ああ、この男は何でも義兄《あに》に結びつけてしまうのか。ずっと心の中には義兄《あに》がいるのか。
 だけどあたしは違う。あたしは義兄《あに》のことを考えない時間がある。考えない日がある。義兄《あに》を取り戻すことが本当に義兄《あに》のためになるのか揺らぎ続けている。
 それは――。


 ルチナリスはカチャ、とフォークを置いた。

 ああ、そうだ。
 だからあたしは前《さき》の聖女の消息を気にするのだ。執事の味の好みが気になるのだ。

 ロンダヴェルグが襲われたあの日、あたしの中で義兄《あに》は死んでしまったのだ。司教《ティルファ》を踏みつけて笑ったあの人は義兄《あに》ではないと……取り戻したところでもう「あたしのお兄ちゃん」に戻ることはないと、そう、わかってしまったから。だから心の奥底で義兄《あに》のことを切り捨ててしまったのだ。

 ずっと自分を騙しながら此処《ここ》まで来たけれど。
 そんな考えは一時の気の迷いに過ぎないって、そう思おうとしたけれど。

 だから、魔界に行きたくなくなってしまったのだ。


 ……これって、薄情、よね。
 あの人に救われなければあたしは今頃、生きていないのに。
 同じようにあの人に命を救われた執事は、今でもあんなに想い続けているのに。
 なのに、あたしは。




「そう言えばお嬢は本当にいいのか?」

 ルチナリスがひとり勝手に落ち込んでいる頃、地声が既《すで》に煩《うるさ》いというレベルを超えてしまっている男は、ひそり、と声をひそませた。ミルはそんな師匠《アンリ》の変わりように怪訝《けげん》な顔を向ける。

「いいのか、とは?」
「魔界に行くことだよ」
「私が行かなかったらルチナリスは5分ともたずに食われるだろうが、むしろそのほうがいいのか?」
「いや、だから……ああ、っと」

 師匠《アンリ》は歯痒《はがゆ》そうに髪を掻《か》きむしる。

「嬢ちゃん《ルチナリス》のことは置いといて。お嬢は行っていいのか、って聞いてる」

 ミルはそんな中年男を冷やかな目で見下ろした。帯剣していたら抜いているかもしれない、そんな殺気は、だが、すぐに霧散した。

「……何を心配してるか知らないが、自分の身は自分で守れる」

 ミルは鼻先で笑う。

「顔に似合わず心配性だな、アンリ先生は」
「しかしだな、」
「私が行くと言っている。エリックもソロネもいない今、戦力は喉から手が出るほど欲しいのだろう?」

 ミルのほうは既《すで》に覚悟を決めているようだ。
 潔《いさぎよ》いと言えば聞こえはいいが、何故《なぜ》そこまで自分《ルチナリス》を守る必要があるのだろう、とも思う。師匠《アンリ》のように他の理由があるのか……まさかひとりで魔界の魔族を全滅させるつもりではないだろうが。
 それでもまだ何か口の中で歯切れ悪く呟いている師匠《アンリ》を無視し、ミルは改めて鴨肉を取り上げた。

「味わって食べておけ。潜入したら当分はまともな食事はできなくなる」

 そう言いながらルチナリスの皿に肉を足す。食べても食べても減っていかない肉片を口に運びながらルチナリスはミルを見上げた。

「潜入したら食事抜きですか?」
「抜き、ではないが」

 ミルは一旦席を立ち、厨房から小さな皿を持って来た。

「移動中の食事はこのような乾パンや乾肉になる。ナイフやフォークを使うような食事はできないし、こうやって座って食べられるかすら疑問だ」

 どうやら鴨の塩釜焼きと同時進行で作っていたらしい。
 乾パンと言っても普通のパンを乾燥させたものとは少し違う、パサパサに硬くなった切れ端だ。齧《かじ》ってみたが全く味がしない。肉は味付けをした後、焦げる寸前まで火を通して乾燥させたと説明されたが、こちらは硬すぎて噛み切れなかった。


「最後の晩餐《ばんさん》、ってやつだな」

 師匠《アンリ》は2瓶目となる酒を開封し、手酌で注ぐ。酒も当分縁がなくなるから、今日は特別なのだろう。

「……縁起でもない」

 執事は眉をしかめる。
 から元気で賑やかにしていた反動だろうか。急にしんみりとした空気が下りてきた。


 当分。本当に当分で済むだろうか。
 もしかしたら本当にこれが最後になるかもしれない。

 ルチナリスの脳裏に結晶の部屋の惨憺《さんたん》たる光景が浮かぶ。
 割れた結晶。千切《ちぎ》れた管《チューブ》。倒れ伏す司教と窓辺に並ぶ鳩。
 そして、舞う風の中で見た黒い――。


 あの人は、あたしたちの敵として現れる。
 10年もの間、勇者を退け続けた「無敗の魔王」が、今度はあたしたちの前に。

 きっと執事はあの人を倒すことなどできない。
 師匠《アンリ》も躊躇《ちゅうちょ》する。
 ミルの腕は折り紙付きだけれども、それでも相手が悪すぎる。そんな人が待ち構えているところに、彼らはあたしという足枷《あしかせ》をつけて行こうとしている。





「満腹で眠くなったのか?」

 フォークを置いたルチナリスに師匠《アンリ》が目を向ける。執事もミルもあたしを見ている。


 ……でも、もしあたしが魔界に行かなかったら?
 ルチナリスの中で、もうひとつの道が姿を現す。
 この道を選べば、執事とも師匠《アンリ》とも離れてしまう。きっとこの先で再び交わることはない。この道は、そんな道だ。


「う、うん。疲れたし先に休むね」

 視線から逃げるようにルチナリスは席を立った。
 そうだ。結局聖女の力を手に入れることが出来なかったあたしは部外者。戦力外。執事も師匠《アンリ》も同情で連れて行ってくれようとしてくれているだけで、本音を言えばいないほうがいいと思っているはずだし、実際問題、あたしがいたら邪魔なだけ。
 あたしが行くのを止めたらミルも魔界には行かない。ミルはこの件とは全く関係ないのだから、巻き込まないほうがいいに決まっている。戦力は減るかもしれないけれど、あたしを庇いつつの戦力3人よりも足枷《あしかせ》のない戦力ふたりのほうがいい。きっと。

 だったら、あたしは此処《ここ》でいなくなったほうが……お互いのため。じゃない?


 ――逃ゲル ノ?


 あたしの中で声がする。

 逃げるんじゃないわ。でもあたしは足枷《あしかせ》にはなりたくない。それはロンダヴェルグ入りする前の、あの街道で決めた時から変わらない。


 ――命 ガ 惜シク ナッタンデショ?


 違う。あたしは。


 ――ぐらうす様 ヤ 師匠ハ 死ンデモ 構ワナイ ッテ。


 違う!



「……ル、」

 執事が何か言おうとするのを遮るように、ルチナリスは部屋を飛び出した。