再び戻った庭にはもう兵士たちの姿はなかった。
そのかわり別の列ができている。
「あれは……なにかしら」
第二夫人は眉をひそめた。
老若男女入り乱れた列は兵士たちのそれよりも間隔が空き、長々と続いている。
総じて見れば老人よりは子供、男性よりは女性が多い。ただ、汚れた服を着、両手を戒《いまし》められているところだけは共通している。
咲き乱れる花々に違和感を覚えてしまいそうになるほど、どの顔も悲哀に歪んでいた。
「人間狩り、ですね」
「まぁ……」
だから、先程の兵士たちなのか。
最近は他の家と争うこともないから不思議に思ってはいたけれど、狩りに行っていたのか。
青藍は1時間ほど前に見た光景を思い返す。
狩りによって捕えられた彼らの運命は今更教えられる必要もない。
魔族が人間を「狩る」という行為には、たったひとつの意味しかないのだから。
人間の血肉は今や滅多に口にできない貴重品。これだけの量を捕らえることができたのは大収穫と言えるだろう。
兵士たちの機嫌がよかったのは花の鎮静効果だけでなく、相伴《しょうばん》にありつけるかもしれないという期待もあってのことかもしれない。
「……この場にいるのに彼らを救うことができないなんて」
母は悲痛な面持ちで唇を震わせる。
同じように思わないのは自分が母以上に魔族だからなのだろうか。息子は黙ったまま母と人々の列とを見比べる。
母は人間を食べない。
人間を狩るという行為に嫌悪さえ見せ、何もできない自分を悔いる。
しかし彼女は、鶏や牛、豚といった肉は普通に口にしている。先ほど飲んだ紅茶だって元を正せば植物だ。
命に優劣があるというのか?
それらが良くて人間だけ駄目だというのは、ただのエゴではないのだろうか。
捕えられる人間は、この家だけに限っても何十人といる。ここで一時の同情に任せて助けたところできりなどないこともわかっている。
人間で言うところの豚や鶏が、魔族にとっては人間、と言うだけの話なのだから、魔族側が罪悪感など抱くわけがない。
ただ違うのは、自分たちと同じ姿形をしているものを食らう、と言うことだけ。
そのことに背徳を感じるかどうかだけ。
だから思う。
もし豚や鶏が人間の姿をしていたら、人間はそれらを食べることができるのだろうか。
母は、その命を助けられなかったことに涙するのだろうか。
幸か不幸か、今まで自分の食卓に人間の血肉が上がってきたことはない。
だから彼らを見ても「美味しそう」という発想はできないのだが、しかし、いくら口にしたことがないとしても、自分も母も彼らの言うところの悪魔――捕食側であることは間違いない。
口にしようとしまいと、「悪魔」は「悪魔」としてしか彼らの目には映らない。
どちらにせよ、今夜のうちに出立する身では今回も口にせずに終わる。
それが残念だと思わずに済むのは……きっと幸運なことなのだろう。
最後尾に近づいてきたのか、目の前を歩いていく列は先程よりも切れ切れになりつつある。一様にうなだれ、疲れ切った顔が続く。
逃げようともしないのは監視兵がついているからというだけではないだろう。生きることを諦めてしまっている。だから、すぐ近くで見ているのに救いを求めてくる者もいない。
「行きましょうか、母上」
見ていても気分が悪くなるだけ。
彼らに残された救済は、死によって長い苦しみから解放される時だけ。
自分たちにできることなどなにもない。
青藍は母を促しながら踵《きびす》を返しかけた。
そんな彼らの前で、少し遅れて歩いていた幼い少女がつまずいた。
疲弊しているのだろう、そのまま声もなく倒れ伏す。
手枷につながった鎖がカシャン、と音を立てた。
「なにトロトロ歩いてんだよ、クソ餓鬼《ガキャ》ぁ!!」
その音に、鎧姿のサイクロプスが大股で近づいてくる。
「おら! 立てよ!」
荒い言葉を投げかけながら何度もその小さな身を蹴る。
しかし幼女は動かない。
とうとう業《ごう》を煮やしたのか、サイクロプスは幼女の頭上で片足を上げた。
鎧姿の化け物が幼女の頭を踏みつけようと足を上げた時だった。それを遮る声が響いたのは。
しかし足は止まらない。
止めるつもりもない。
踏み下ろそうとしている足と幼女の間に人影が滑り込むのが見えた。
でも止めない。
サイクロプスは視界の端にその人影を捕えたまま、そのまま足を踏み下ろした。
ガッ!
と大きな音がした。
その直後、サイクロプスは後方へ吹き飛ばされていた。
人影ごと幼女を踏み潰すつもりだった。
どうせここまで運ぶ間に数人は駄目になっている。逃げようとしたり疲労で動かなくなったりと要因は様々だが、上も多少のロスが出ることは承知している。
こんなチビひとり減ったところでたいして変わりはない。傷んでしまえば廃棄するしかないのだから、自分たちに回って来るかもしれない。
第一、疲れているのは自分も同じだ。獲物をなだめすかして歩かせるなんて面倒なこと、やっていられるか。
と、そう思ったのに。
まさか自分のほうが吹っ飛ばされるとは。
そして、吹っ飛ばされたのは十中八九、先程入り込んで来た人影のせいだ。
「なにすんだテメェ!!」
サイクロプスは憤《いきどお》りの声を上げた。
威嚇《いかく》するように手にしていた曲刀を一閃すると、周囲の植え込みから白い花弁《はなびら》が散った。
さらにドシン、と足を踏み込む。
砂埃が舞い上がる。
周囲の木々から鳥が逃げるように羽ばたいていく。
漂う砂埃の向こうに座り込んだままの人影は動かない。その様子にサイクロプスは舌なめずりをした。
怖気《おじけ》づいたか?
今さら命乞いをしても遅い。あの小汚い小娘と一緒に切り刻んでやろうか。
いや、ただ殺すのでは面白くない。手と足を断ち、ケルベロスの巣の中に放り込んでやろう。生きたまま貪《むさぼ》り喰われればいい。
先の戦ではあまり腕を振るう場面がなかったから血が見たい。丁度いい。
だが。
「待て!」
惨《むご》たらしくも血が湧く想像に顔を歪ませたサイクロプスだったが、しかしその想像を実現させることはできなかった。
この騒ぎを聞きつけたらしい別の兵士がなにか叫んでいるのが聞こえた。列の半ばを守っているので離れることができないからだろう、腕を振り、必死に声を張り上げている。
「待て! そいつは、その方は……!! 青藍、様、だ!」
青藍?
曲刀をゆるゆると下ろしながらサイクロプスは砂埃を凝視する。
その呼称を与えられた者はこの城にはひとりしかいない。魔界中を探しても、多分、ひとりだけだろう。
引いていく砂埃の中、白いシャツが見えた。
次いで、黒い髪と、蒼い瞳。
間違いない。
幼女を庇《かば》うように片膝をついてこちらを見ているのは、確かにメフィストフェレスの次男坊。
怖気《おじけ》づきもせず、命乞いをする気も全くない、強い光を湛《たた》えたままの瞳がサイクロプスを射抜いていた。
「困りますな青藍様。……邪魔されるなら貴族様だとて容赦しませんよ」
曲刀を持つ手のひらに唾を吐きかけ、サイクロプスは下卑た笑いを浮かべた。
現当主のお気に入りと噂されているだけのことはある。男とは言え、これはかなりの上玉だ。
たとえ相手が上級貴族だとしても……いや、上級貴族だからこそ。踏みつけ、痛みつけるさまを想像するのは自由。表立って手を出すことなど到底不可能な相手だけに、獰猛《どうもう》 さを性《さが》 とする彼らの中には1度は苦痛に歪む顔を見てみたいなどと思う輩も多い。
魔王役に就任が決まったとはいえこんな細腕。
何度も遠征に出て実戦馴れしている自分と、せいぜい模擬戦程度の貴族様とでは比べ物にもなるまい。
サイクロプスは舐め回すように獲物を見る。
その顔じゃ戦うと言っても、閨《ねや》に呼ばれて別の意味で……ってところじゃないのか? 当主を始め、お偉方に可愛がられているんだろう?
そんな淫《みだ》らな想像を感じ取ったのか、青藍は不快そうに眉を寄せた。
「少々、お相手頂けますかね」
ターゲット変更。
サイクロプスはじりじりと間合いを詰める。たっぷりと楽しんだ後で不慮の事故とでも報告しておけばいい。
間の悪いことに鎮静作用のある花は散ってしまった。
自分のこの攻撃衝動は花がなくなってしまったせい。偶然居合わせたこの坊ちゃんの不運は、ただ嘆くしかない。
本当に。
本当に、なんて運の悪いことだろう。
「下衆《ゲス》が」
青藍の双眸《そうぼう》にゆらりと紅い光が灯った。
片膝をついたままの足元で風が渦を巻きはじめる。
掴みかかろうと伸ばしたサイクロプスの手は、紅《あか》く揺らめく炎に退けられた。
「なん……だ?」
目の前の獲物が変わっていく。
腕の細さや女のような顔はそのままだ。だが。
その名を表わしていたはずの蒼い瞳は既にどこにもない。穏やかな海のような色の代わりに彼の瞳を支配するのは、燃えるような紅。
青藍はすっと左腕を真横に伸ばした。
伸ばされた腕に目と同じ色の炎が浮かび上がる。渦を巻くように腕を覆っていく。
幾重にも、幾重にも絡みつき、勢いを増していく。
そして。
絡みつき、さらに行き先を探すように揺らめいた炎が、ふいにサイクロプスに向けて鎌首をもたげた。
それは巨大な竜の形。
青藍の身体の数倍もある巨体が、空中でとぐろを巻きながら鋭い眼光を投げかける。
火の粉が、まるで花弁《はなびら》のように舞い上がった。
「はいはい、そこまで」
手を叩く音にサイクロプスは我に返り、慌ててあたりを見回した。
ほんのわずかな間ではあったが相手に呑まれていた。もしその間に相手が攻撃をしかけてきていたら……。
背中を冷たい汗が伝う。鎧を着込んでいるせいで拭うこともできないのが、さらに不快感を増す。
こんな女みたいな顔のボンボンに威圧されて動けなかったなど……違う。動けなかったんじゃない。間合いを取っていただけだ。これから攻撃するところだったんだ。それなのに邪魔が入っただけなんだ。
そう、邪魔が――。
少し離れたところで黒髪の女性が呆れた顔で自分達を見つめている。
あれは前当主の奥方。第二夫人。
前当主が権限を全て長男に譲ってしまっているので奥方と言ってもなんの力もないが、それでも無下《むげ》に扱っていい相手ではない。
彼女は足下に無残に散った白い花を拾い上げると、その瞳をサイクロプスに向けた。
凪《な》いだ海の色。
しかし予想外の魔力の一端を見せつけられたばかりの目には、そんな穏やかな色にも薄ら寒いものを感じる。
「ごめんなさいね。この子、預からせてもらえるかしら」
ごめんなさいと言うわりには悪びれた様子もなく、第二夫人は冷ややかな目を向けた。
自分より上背のある、その太い腕で張り飛ばされれば一撃で自分など殺してしまうであろう醜悪な|化け物《サイクロプス》を前にして。
「そのほうが、あなたのためよ?」
彼女は笑みも浮かべず、そのまま手を握る。
くしゃり、と白い|花弁《はなびら》が潰れた。
「……仕事の邪魔をされると困るんですがね」
サイクロプスはしぶしぶという顔で曲刀を下ろした。
戦意が削がれたのは花のせいだ。決してこのふたりに気圧《けお》されたからじゃない。
「見た目に似合わず喧嘩っ早いわね」
去っていくサイクロプスから目を離し、母は苦笑まじりに息子を見た。
助けても無駄なことは重々わかっているのに蓋を開ければこれだ。自分の甘さにもだが、つれない態度をとっていた息子までもが簡単に動いてくれたことにも、つい笑みがこぼれてしまうのは否めない。
「戦えとは言わなかったわよ」
「それは向こうに言ってください」
手のひらに付いた砂を払いながら、青藍は無表情に呟く。
「そうね」
第二夫人は倒れたままの幼女の|傍《そば》に身を屈めた。
怪我は|此処《ここ》に来るまでについたのであろうかすり傷が少々。今の争いで新たについたものはなさそうだ。意識がないのは疲れ切っているからなのだろう。
争いを見られなかったことは良しとしようか。腕から炎が出たなど、子供の目からしても人間技だとは思うまい。
「でもよかったわ。あなたは全然変わってない」
「性格は変わったのでしょう?」
「ええ。冷たくて誰にも興味を持たない嫌な子になったと思ったわ。でも違う。ちゃんと自分より弱い者に救いの手を差し伸べることができる」
実際、止めていなければあのサイクロプスは再起不能になっていた。いや、それよりも狩りの獲物を奪い取ったことをどうやって隠そうか。人間狩りの獲物を巡って城内で争ったなど、しかもそれを勝手に取り上げたなど、いくら前当主夫人の指示であってもしていいことではない。
当主である紅竜が知ったら……せっかく幽閉を解かせたばかりだというのに、また刑罰を科して来られては元も子もない。
「そうでしょう?」
「差し伸べたのは母上でしょう」
母の言葉を息子は否定した。
弱者を救うのは美徳かもしれないが、それにだって限度がある。しかもこの場合は救うべきではなかった。
人間を狩るのもここまで連行してきたことも、全ては家の意向。自分達の行為はそれに反している。
そして。
悪魔に救われたって、この子供は喜ぶまい。
そこまでわかっていたのに、しかし動いてしまった。
サイクロプスが幼女を踏みつけようとした一瞬、母が自分の名を叫んだことを思う。
命令か懇願かは知らない、ただ、助けたいという意思。
だからと言って、母ひとりに責任を押しつけるわけにはいかないのだが。
息子の咎めるような呟きには答えず、ふふ、と母は笑う。
「ほんと、いやぁね。かわいい子をいじめるなんてクズよ、クズ」
サイクロプスに聞こえたら顔を真っ赤にして駆け戻ってきそうな|台詞《セリフ》だが、どうにか聞こえずに済んだらしい。鎧姿は振り返ることもなく遠くなっていく。
「あ、かわいい子ってところにはあなたも入るわよ」
「そう言う説明はいらないです」
「ここ、笑うところ」
息子の冷めた眼差しに、寒い空気が吹き抜けていった。
「それよりこれ、どうするんです?」
青藍は足元に倒れ伏している幼女を見下ろす。
母に言われるまま助けに入ってしまったが、あのサイクロプスも黙ってはいないだろう。所詮、回収されるのがオチだ。
自分達のしたことは正義の味方ぶってみただけの、ただの自己満足でしかない。
助けたところで、この幼女の死期がほんの少し伸びるだけ。
ほんの、数日か、数時間。
それなら「もしかしたら生き延びることができるのでは」などと期待させるほうが可哀想だ。あのサイクロプスには上級貴族に剣を向けた、という気の毒な事実だけ残ってしまうことになるが、意識のない間に返したほうがこの娘にとってはいいのではないだろうか。
「そうね……」
第二夫人は少しの間思案するように小首を傾げていたが、しばらくしてわざとらしく手を叩いた。気のせいだろうか、目の中に星が見える。
「あなた、お世話係要るわよね」
「はい?」
「ノイシュタインに行ってからのお世話係。まだ決まっていないのでしょう?」
ノイシュタインとは魔王城のある人間界の町。
そこで魔王に仕える使用人は魔界から連れて行くことが通例になっている。
|彼《か》の地で新たに雇っても構わないのだが、城主が魔王であることを知っていてもなんら問題のない同族のほうが余計な気苦労がない。
「この子供を?」
青藍は口元を歪ませて母を見、それから改めて幼女を見下ろした。
ちょっと待て。いくらなんでも幼すぎる。これじゃどっちが世話をするのだかわからない。
それにこの娘は人間だ。自分のことすら満足にできないような子供の上に、人間。連れて行っても足手まといにしかならないことはわかりきっている。
「お部屋余ってるんだからいいじゃない。ほらこんなに可愛いんだし」
「かわいければいいってもんじゃないでしょう?」
呆れ顔の息子に母は畳みかける。
「かわいい子がいたほうが生活にも潤いが出るものよ。これも運命だと思って」
「運命って、」
本当に何がさせたいのだろう。
そうでなくても人間ばかりの世界で、自分が裏では魔王であることを隠して暮らしていいかなければならないのに。
人間界まで連れ出せというだけなら荷物に混ぜて連れて行けばいいのだが、母の言い方ではどうもこの娘と一緒に暮らせと言っているようにしか聞こえない。
人間と。
人間の娘と。
青藍は警戒の色を含んだままの目で母を見る。
そりゃあこの娘を助けた責任を母に押しつけるわけにはいかないとは思ったけれど、だが、自分ひとりに押しつけられても困る。
「運命の人って信じる?」
母は遠く、城を振り返る。
あそこには兄が、父がいる。
「信じません」
「あのね」
さらりと返すと母は恨みがましい目を向けた。
どうせこの娘とも運命がナントカと言い出すのだろう。少女向け小説の読みすぎではないのか?
青藍はそっぽを向く。
何もなければ適当に|相槌《あいづち》を打つのも付き合いだとは思うが、この流れはどう考えてもこの娘を押し付けようとしているとしか思えない。
つい助けてしまったものの、後々扱いに困るのは母とて同じこと。この城を出て行く自分に押し付ければ証拠隠滅できる、とまで思っているかもしれない。
「この子がそうだとは言わないけれど、」
運命なんてものが本当にあるのなら、その人は兄だろう。
自分の一生はあの人のものだ。間違ってもこの娘ではない。
「あなたにもそんな人が見つかるといいわね」
そんな息子の心の内など知りもしない顔で、母は|微笑《ほほえ》む。
くだらない。
青藍はそっぽを向いたまま、その先の空を見上げる。鳥が2羽、連れ立って羽ばたいている。
外の世界とこの城とを遮っている城壁も、空までは遮ることができない。あんな小さな羽根でも……。
……本当に、くだらない。
それを言うなら、母にとって父は運命の人だったのだろうか。生まれ育った場所を捨て、たったひとりでこの城に来るほどに。
妻という肩書きだけ与えて、子を生《な》した今はもう顔を見せることもしないあの父が。
運命など、あるはずがない。