病院の待合室にある長椅子のひとつにルチナリスはずっと座り込んでいる。
座り込んでいる間にも担架で運ばれるような人から転んだ程度の人まで、多くの怪我人がやって来ては通り過ぎていく。
物言わぬ死体も多くいる。此処《ここ》まで来たものの力尽きてしまった者。既《すで》に息をしていないことを信じられない者の手によって連れて来られた者。手を施《ほどこ》すこともできない人々のためにベッドを使うわけにもいかず、彼らは物のように待合や廊下に寝かされている。
悪魔と化すおそれがある者は隔離される。
だが、化した者たちと同じ部屋に入れられるのが嫌で噛まれたと申告をしない者もいるらしい。
治療を待つ人々の中で時折悲鳴が上がるのはそうして黙っていた彼らが突然牙を剥《む》き、偶然近くにいただけの不幸な者を襲うからだ。そんな加害者も被害者も、噛まれても牙が届かないくらい堅牢な防護服に身を包んだ者によって淡々と連行されていく。
淡々と。
馴れてしまったのか、麻痺してしまったのか、感情を表さないようにしているだけなのか。誰も、何も言わない。
小走りで駆けて行く看護師の足音。
ざわめき。
泣き叫ぶ声。
まさに修羅場としか言いようがないのに、その音の全てがルチナリスにとっては霧の向こうにあるように聞こえる。
あたしは悪魔と化したあの子に引っ掻《か》かれた。
自身が悪魔化することも想像していたのだが、未《いま》だに変化は起きていない。「噛まれて」はいないから大丈夫だったのかもしれない。
「噛まれた」にしろ「引っ掻かれた」にしろ、二次被害を防ぐためにはその全てを隔離するのが病院側の見解だろう。しかし隔離されたら最後、それが間違いで入れられた健常者であったとしても、その部屋からは出ることは叶わない。他の被害者たちの餌食にされてお終いだ。
そう思うと言い出すことができない。
――悪魔化するかもしれないのに。
――何も知らずに治療を待っている周囲の人々を襲うかもしれないのに。
――自分がかわいいから言い出せないなんて卑怯じゃないの?
自分を責める声がずっと頭の中で響いている。
――それで聖女候補だなんて。
そうね。
あたしは候補者失格だわ。
何もできなかった。誰も守れなかった。祈ることすら拒絶した。
だから。
ルチナリスは髪留めに触れる。
……天使の涙は何の力も貸してくれない。
司教《ティルファ》の容体を見に行っていたミルが戻って来たのはそれから3時間近く後。紅に染まっていた空がその色を紺青に変え終わった頃のことだった。
周囲の治療を待つ人々は総じて入れ替わり、数も減っている。家に帰る者がいる一方、悪魔が潜んでいるかもしれないという妄想に怯《おび》えて帰れずにいる者もいる。貸し出せる毛布も足りない中、彼らは疲れた顔で身を寄せ合い、其処《そこ》に現れたのが「イチゴちゃん」であることにすら興味を見いだせないでいる。
数時間前の、ミルの姿に大勢の人が集まってきた時のことが夢だったよう。当人としては無駄に人が集まって身動きが取れなくなるくらいなら今のほうがずっといいと思っているだろうけれど。
「命に別状はないそうだ」
別状はないけれども怪我の具合としてはかなり深いものであるらしい。暫《しばら》くは安静にする必要があるが、彼自身は塔に戻ることを熱望しているそうだ。
聖職関係者も減り、聖女もいない今、彼が現場に復帰しようと思うのは当然のことかもしれない。早く聖女が決まれば彼の負担も減るだろうに。
まるで他人ごとのように考えている自分《ルチナリス》に呆《あき》れてしまう。あれだけ期待されていたのに、お前は人でなしか? ともうひとりの自分の嘲《あざけ》りが聞こえる。
相変わらず淡々と言う彼女《ミル》の袖口から包帯が覗いている。
先に逃げ出したルチナリスとしては剣士亭に雪崩《なだ》れ込んで来た悪魔の数などわからないが、足音だけでも十人前後はいた。その全てとやりあって生き残ったのは流石《さすが》聖女候補の護衛に選ばれるだけのことがあると言うべきだが、それでも多少の怪我はしていたらしい。
水路で再会して、塔まで行って、結晶の間に向かって。その間、彼女は怪我をしている素振《そぶ》りなど全く見せなかったどころかあたしを守り続けて。
司教《ティルファ》もミルも、自分の力が足りないばかりに。
そう思うのは驕《おご》った考えだと怒られてしまうだろう。だが、だからと言って聖女になる決心がつくはずもなく、力が沸くはずもない。むしろ自分は聖女には向かないという思いが膨らむばかりだ。
「何故《なぜ》止めた」
ルチナリスの隣に腰を下ろし、ミルは大きく息を吐いた。小脇に抱えていた帽子を膝の上に乗せて羽根飾りを弄《もてあそ》んでいる。
まるで猫などの小動物を撫でているような、そうして気を静めようとしている風にも見える。
「……ごめんなさい」
「謝罪はいらない。私は理由を聞いている」
あの白い光が収束した時にはもう、あの人の姿はなかった。そのせいなのかはわからないが、街中での悪魔被害も同じ頃を境にぱたりと途絶えたらしい。
だが悪魔化した人々が元に戻ったなんてご都合主義が待っているはずもなく。もちろん悪魔として倒された人が生き返って来ることもなく。前述したように、変わってしまった人たちを隔離することで仮初《かりそ》めの平和を手に入れているのが今の現状。
他の町に比べてずっと強固だと思っていた平和も、所詮《しょせん》は薄氷に過ぎなかったという事実は予想以上に人々に重く圧《の》し掛かっている。生き残った人々は治療に、復興に、と無心に体を動かすことでそれを忘れようとしている。
隔離されたままの人をどうするのかはまだ決まっていない。司教の回復を待ったところで彼らが元に戻る可能性は限りなく低い。
開かずの間の中で蟲毒《こどく》の虫のように襲い合って自滅するほうが先かもしれない。
こんな時、聖女がいれば皆を元に戻すことが出来るのだろうか。
あの光は――執事《グラウス》の祖母を治した時の光に似ていたけれど――それでもあたしは聖女にはなっていない。あれ以降、やはり力は出せない。
「……死んでほしくなった。ミルさんにも、あの人にも」
冷やかに振り返ったあの人。
すっかり忘れたって顔であたしを見た、あの人。
あの人は……義兄《あに》はもう、あたしを知らない。
執事の話を聞いて納得していたはずだったのに、いざ目の当たりにすると、こんなにも辛《つら》い。
「あそこで止めれば自分が危ないってことくらいわかるだろう。自分の命すら大事に出来ない奴《やつ》が他人を救うことなど出来るはずがない。お前は聖女失格だな」
そうかもしれない。
あたしは「悪魔」の妹。今更、聖女なんかになれるはずもない。
髪留めに手をやる。
この石には天使の力が封じてあるはずだった。現にメグは力を発揮したし、勇者は「危険なもの」と称した。でも、あたしの時はただ光っただけだ。
使わないと心に決めていたのだからそれでいいはずなのに、その裏でこの石を持っていたにもかかわらず力が出せなかったということを悔しいと思う自分がいる。
――聖女になりたかったの?
違うわ。
――でも、なりたかったんでしょ? 誰よりも唯一無二の自分に。
他の聖女候補の娘よりも役立たずの「あたし」が、本当は秀《ひい》でてるのよ、って。
……違……う。あたしは。
「あ、あたしってば落ちこぼれだから。ほら、あたしが候補から外れたほうがもっと優秀な人が見つかるし、いいじゃないですか!」
こうして座り込んで呆《ほう》けている間、看護師に混じって人々を癒しているジェシカの姿を見かけた。「聖女様だ」と手を合わせて涙ぐむ人々に笑みを向ける彼女は、街中で出会った時とは違い、本当に聖女のようだった。
彼女だけでなく、他の候補者たちも街のあちこちで同じように人々を癒していることだろう。
もしあたしがあの時命を落としたとしても、代わりはいくらでもいる。人々の役に立つ聖女候補が。それを思うと、あの人の手にかかって死んでいたほうがこの街のためにはよかったのではないかとすら思う。
そんなルチナリスの返答に、ミルはただ眉を寄せる。
「聖女候補はいくらでもいるかもしれないが、ルチナリスという娘はひとりだ。死んだら悲しむ家族もいるのだろう? もっと自分を大事にしろ」
「家族……」
執事はあたしのことを家族だと言った。
遠く離れていても、何時《いつ》か帰って来る場所だと。それが、家族だと。
でも今の義兄《あに》にとって、あたしは家族ではない。あの人はもうあたしのところには帰っては来ない。
「……心配してくれる人だったら……いました」
過去形。それが、悔しい。
あたしがこれから魔界に行くのは間違いなのかもしれない。義兄《あに》はあたしを知らない。あたしが知っている義兄《あに》ではない。今回のように敵として攻撃してくるのは間違いない。
「でも、それを言うならミルさんだって」
剣士亭の厨房でも、地下水路でも、塔でも。
傷つくことも殺されることも恐れずに彼女は飛び込んで行った。いくら命令だからって、こんな、何の役にも立たない小娘の盾になっていい人ではない。
「私にはもう、心配してくれるような人はいないからな」
ミルは溜息をひとつ吐くと宙を仰いだ。
淡い金髪が揺れた。
「でも、そうだな。私は、この命を精一杯生きる。この命をくれた人が悲しまないように」
お前は? とミルは目で問う。
お前は、それでも命を粗末に扱うのか? そのために誰かが悲しんだとしても、と。
命をくれた人。
あたしに何かあったら、義兄《あに》は……悲しんでくれるのだろうか。
「おぅ無事か、ルチナリス!」
「師匠! どうして此処《ここ》に!?」
病院を出たところでいかつい顔をした大男が立っているのが見えた。
少しでも見知った顔に会えたからだろうか。ほっとすると同時に何故《なぜ》彼が街の中にいるのだろうという素朴な疑問も頭をもたげる。以前は爪先だけでもこの街に拒絶されていたのに。
それと同時に。
「ミぃぃルぅぅぅぅ!」
赤毛ポニーテールのお姉さんが師匠《アンリ》を押し退けて飛び出し、ミルに抱きついた。
「やだもう! ウィンデルダが大地が泣いてるとか言うし、壁の外に鳩がいっぱい死んでるし、煙とか上がってるし、街の人血だらけだし、と言うか街の中ボロボロだしー!」
誰だろうこの人は。
お友達だろうか。ミルの場合、見た目も口調も「男装の麗人」で通用するから女性ファンとか……いや、これはただのファンじゃない。ミルが剣を抜かない。と言うことは個人的に親密な交際(自主規制)の仲だとか……まさか。
「悪魔が出たとか言うじゃない! って、そう言えばティルファは無事!?」
「命に別状はない」
ミルと足したら±《プラスマイナス》0《ゼロ》になりそうなテンションの高さだ。と、それは置いといて。このお姉さんも司教を呼び捨てにしているのですが、若いお姉さんには呼び捨てを推奨しているわけではないですよね司教様。そんな、ただのエロ親父じゃない。
そんなツッコミが僅《わず》かに首をもたげたが、すぐに沈んだ。そんなことを思っていられる心境じゃない。
「あー……まぁ、その、何だ。悪魔騒ぎがあったそうじゃねぇか。ポチが心配してたぞ」
お姉さんのテンションにこちらも押されつつ、師匠《アンリ》が口を開く。
彼がロンダヴェルグに入ることができたのは、やはり結界が壊されたせいらしい。それでも純血の「ポチ」こと執事《グラウス》は未《いま》だに入ると気分が悪くなるそうなのだが。
「血統書付きはこういう時弱いから面倒だよな」と小馬鹿にしたように笑う師匠《アンリ》はこの1ヵ月ほどの間、執事《グラウス》と一緒だったはずだがどうしていたのだろう。町長の家で会った時から一触即発でお世辞にも仲がいいとは言えなかったが、今はそれ以上に対抗意識が高まっている気がする。
それよりも。
ルチナリスの脳裏にあの時の光景がよみがえる。
結界がなくなったのは結晶が壊されたからだとしても、まずは結界があるうちに誰かが入り込む必要がある。そして結界が壊された今でさえ、執事はこの街に入ることができないでいる。
だったら、あの人はどうしてあの場所にいたのだろう。上級貴族というどの魔族よりも古い血を持つあの人が。何故《なぜ》。
純血ではないからか?
しかしあの巨大な結晶を鳩に壊させるのは無理だ。少女にも無理だ。しかも司教《ティルファ》が守っているのだから、壊すには大人が数十人規模、しかもかなりの戦力を持つ者――それこそ義兄《あに》レベルの――がいる。
悪魔化した人々はもとを正せば一般市民や聖職者。戦闘力がある者もいたかもしれないが、短期間に塔に入り込み、塔内部にいた人々を一掃し、司教を襲い、結晶を壊す。それができる人を、あたしは義兄《あに》以外に知らない。
そしてあの場所にいたのは、義兄《あに》だ。
「あたしは……大丈夫です。でも」
「でも?」
ルチナリスは師匠《アンリ》を見上げた。
義兄《あに》がいた、と伝えるべきだろうか。あの変わり果てた義兄《あに》のことを知ったら、この男は、そして執事はどう思うだろう。それでもまだ魔界に行くと言うだろうか。
あたしは心が揺れ動いている。魔界に行く必要などないのではないか、と。
「何でもヴァンパイアみたいに血ぃ吸うんだって?」
「ええ」
師匠《アンリ》は暫《しばら》く考え込んでいたが、やがて躊躇《ためら》うように口を開いた。
「紅竜と結婚するって言うアイリスって嬢ちゃんがヴァンパイアの一族だってことは知ってるか?」
「え?」
「ポチが言ってたぞ。長い付き合いがある家だとは言え、アイリス嬢の家とメフィストフェレスは仲が悪いんだ。それこそ手を取り合うよりは叩き潰したほうが早いって思ってるほどにな。それなのに今になって、それも何であんなに歳の離れた娘を選んだのか、理由があるんじゃないか、ってな」
アイリス。
ゲートから出てきたお嬢様は夢の中の住人などではなかった。彼女は|義兄《あに》や執事と同じように、黙っていれば自分たち《人間》と何処《どこ》も違うところなどなかった。あたし《ルチナリス》が人間だとわかっていたのに、あの旅の間、1度も襲っては来なかったし、人間だと蔑《さげす》んでも来なかった。
「今になって思えば、紅竜の奴《やつ》、その嬢ちゃんの力が欲しかったのかもな」
「今回の件に……アイリス様が関わってるって言うんですか?」
物語の中のヴァンパイアとは似ても似つかぬ黒い化け物。
所詮《しょせん》、物語は物語。美化していただけで、本当は黒くなるのがこの世界のヴァンパイアのデフォルトなのかもしれない。最初から仲間にするつもりなどない場合は黒くなるのかもしれない。途中で鳩を経由したからかもしれない。それはわからない。
でも、黒というのが気になる。
メグの時と同じように、闇と言うものが関わっているのだろうか。アイリスも義兄《あに》も、闇に呑み込まれてしまったのだろうか。義兄《あに》のあの変わりようも、闇のせい……と考えればいいのだろうか。
「アイリス嬢じゃない。紅竜が、だ」
そして紅竜も。
義兄《あに》が連れて行かれた家は、あたしたちが行こうとしている場所は、きっと闇に染まっている。
「人間は強いな」
復興に走り回る人々を眺め、師匠《アンリ》は眩しそうに目を細める。
「あれだけ凹《ボコ》られても、もう立ち上がって」
「カラ元気ですよ」
「カラ元気も元気のうちだ。立ち止まるより進むことを選ぶから今があるんだろう。……何時《いつ》か、魔族より人間のほうが強くなる日が来るんだろうな」
何時《いつ》か。
そんな日が来ればいい。できることなら手を取り合って共存していけるようになれば、もっと。食料として狩られることに怯《おび》えることもなく、魔法が使えるからといって迫害されることもない、そんな日が。
そうなればもう聖女も魔王も必要なくなるのかもしれない。
でもその道のりはとてつもなく遠い。
「それで、だ。どっちにしろ俺らは予定通り出るが、お前さんはやっぱり残るか? あの家は、きっと俺らが思っているよりずっと危険だ」
「……いえ、行きます。行かせてください」
このまま行ったところで彼らの足手まといになることは免《まぬが》れない。かもしれないが、この街も安全とは言えなくなってしまった以上、何処《どこ》にいても同じことだ。もし人質に取られるような無様なことになったなら、自分の身は自分で処《しょ》す。
それに。
「もしあたしが邪魔になったら切り捨ててください。人間でなくなってしまったら……その時も」
少女に引っ掻かれた結果がまだ出ていない。此処《ここ》にいれば人々を襲うかもしれない。
旅立って執事《グラウス》らを襲うのはいいのか、という話になるが、彼らは元々魔族だし、此処《ここ》の住人よりもずっと強い。
もしあたしが自我を失くしたとしても、この人たちなら、きっと。
ルチナリスは髪留めを外した。
これは、力をいとも容易《たやす》く出すことができるらしい。でもそれはジェシカのように最初から力を持っている者に限ってのことだ。あたしが持っていたところで宝の持ち腐れにしかならない。
後で司教《ティルファ》に返せばいいだろうか。
剣士亭のマスターは……姿を見ていない。
「私も行こう」
後ろから声がした。
見れば帽子を被り直したミルがいる。相変わらず赤毛ポニーテールのお姉さんも隣にいる。
「魔界とやらに行くのだろう?」
「な、何のことでしょうっ!」
「しらばっくれるな。お前が外出した夜にエリックを絞めて吐かせた。義兄《あに》に会いに行くのだろう?」
外出した夜というのは、師匠《アンリ》と落ち合うために家を抜け出した日のことだろう。上手く隠していたつもりだったのに全部知られている。
『――お前は、こんなところで死ぬわけにはいかないんだろう!?』
知っていたのか、魔界に行くことを。
知っていて、今まで黙っていたのか。
「私はお前の護衛だからな」
「そう! それにあたしもいるしぃ!」
「ええ!?」
ミルの隣でにこやかな笑みを振りまいているこのお姉さんは一体全体何者だ!? 武器も持っていないようだけれども、まさか魔界にまで来るつもりか!? 司教を呼び捨てにしていたし、もしかしたら彼女もとんでもないチートスキル《主人公属性の人》だったりするのだろうか。
「え、えっと、ミルさん、この人は……」
「カリンちゃんでーす! カリンちゃんって呼んでね!」
ああ。この人、お姉様《ソロネ》と同じ属性だ。何も考えてない人だ。
「カリンはマッパーとして地図を作る一方で運び屋もやっているんだ。どうやらそちらのオッサンに頼まれてグラストニアの先まで連れて行ってくれるらしい」
「契約したのはポチだがな」
「そうよー。札束で頬っぺた叩かれるような気分、久しぶりに味わったわよ」
「すまねぇな、あいつ、性格悪くて」
「わかるわ、オジサンの苦労!」
そして執事をネタにして師匠《アンリ》とお姉さん《カリン》は意気投合しているようだ。いったい何をしたのだあの男《執事》は。
絶句するルチナリスの横で師匠《アンリ》は値踏みするようにミルに視線をやった。ほぅ、と呟いたのはただ単に若い女性だったからか、剣士としての腕を感じ取ったのかはわからない。が、彼は鷹揚《おうよう》に頷《うなず》く。
「まぁ、エリックもソロネもいないしな。戦力は多いほうがいい」
「多いほうがいいって、だって魔界よ!? 帰ってこられるかだってわからないのに!」
断ると思っていたのにあっさり了承したアンリを前に、慌てたのはルチナリスのほうだ。
行くのは魔界。人間を喰らう魔族が多くいる土地だ。いくら腕が立つと言っても人間を、それも全く関係ない人を巻き込むのはどうだろうか。
しかも自分を候補者失格だと言ったのはミルなのに。この街を出て行く自分はもう聖女候補ではなくなるのに。それなのに何故《なぜ》護衛を続けると言うのだろう。
まさか本当に恋愛フラグが立っ……いや、それはあり得ない。隣のお姉さん《カリン》がそれを許さない。でも他にどんな意図があってそんなことを言い出したのかと言えば、まるで見当がつかない。
「お前は自分を粗末に扱い過ぎる。お前に何かあると領主様と執事さんとやらに顔向けできなくなるんだろう?」
「でも」
「デモデモ|煩《うるせ》ぇぞ。いいじゃねぇか、行きたいって言ってんだから」
旅は道連れとか一蓮托生とかいろいろ適当なのがあるだろ、と師匠《アンリ》がニヤリと笑う。
「ほら、ポチが首を長くして待ってるぞ。あんまり待たせるとダックスフントとか言うのになっちまうかもな」
「それは首ではなくて胴が長いのだろう」
「ダックスフントかわいいわよねー」
連れ立ってさっさと歩いて行ってしまう3人の後を追おうとしたルチナリスは、ふと誰かに見られているような気がして振り返った。
背後に立つのは天まで届きそうな高い塔。
バササ……と羽音がした。
白い鳩が数羽、夜空に羽ばたいていく。
鳥なのに夜に飛ぶのか。
ルチナリスは暫《しばら》くの間、鳩を目で追い、それから門に足を向けた。