20-2 崖の上の家




 皆さんこんにちは。
 私は今、崖の上の一軒家に来ています――。


「……いや。皆さんって誰よ」

 自分で自分にボケツッコミ。ルチナリスは息を大きく吐くと半壊したアーチを見上げた。
 黒っぽく煤《すす》けた木のアーチは当然のことながら燃えた残骸……ではなく、雰囲気が出るように加工してあるのだろう。お洒落《しゃれ》な庭づくり素材の定番「枕木《まくらぎ》」に木肌の感じが似ている。
 しかしできた当初はお洒落だったであろうそのアーチも、長年風雨にさらされ続れば朽《く》ちる。もしかしたら数度にわたる人間狩りの際に損傷したのかもしれない。そう思ってしまうほど傷み具合は酷《ひど》い。
 そして酷《ひど》いのはアーチだけではなく。
 その先に鎮座している屋敷もかなりの傷みようだ。壊れてはいないものの色は褪《あ》せ、全体的に左に――海風の影響だろうか――傾いている。町の家々と同じように窓には板が打ち付けられ、中に人が住んでいるようには見えない。気配もない。いい天気なのに洗濯物も干されていな……いや、それはきっとまだ朝早いからだ。そうに違いない。
 でも。
 
「本当に、いる、のかなぁ」

 此処《ここ》は昨日老婆に教えられた劇場主の家。
 紅《あか》いイブニングドレスの歌姫・シェリーのことを知っているかもしれない人の家だ。

 シェリー。
 司教《ティルファ》が倒れる時に呼んだその名前は、確かめたわけではないけれど十中八九、前《さき》の聖女のものだろう。そしてこの町の歌姫の名もシェリー。
 その名前は珍しくもないし、芸名かもしれないし、その聖女とはたまたま同じ名前だっただけの可能性も拭い去ることはできない。そんな偶然を、まるで鬼の首でも取ったかのように掲《かか》げて遥々こんなところまで確認しに来る奴《やつ》はただの馬鹿だ。あたしだけれども。
 第一、歌姫シェリーが前《さき》の聖女だったとして、それがどうだと言うのだ。
 次代の聖女候補が現れ始めたことから見て、前《さき》の聖女が亡くなっていることは間違いない。候補の娘たちに共通点がないことから、受け継がれるべき力が分散されてしまったと……聖女に継ぐべき血縁者がいない、ということも推測できる。

 だからその話はそれで終わり。必要なのは過去ではなく未来。この世にいない聖女よりも、未《いま》だに確定していない次代の聖女。
 こうして歌姫シェリーのことを調べたところで、あたしの雑学がひとつ増えるだけ。


 ――コレガ 魔界行キ ヲ 止メテマデ シタカッタコト ナノ?
 ――逃ゲ出ス 口実ガ 欲シカッタ ダケ ジャナイノ?


 相変わらず頭の中ではあたしを嘲笑《あざわら》う声が聞こえる。その声が足取りを重くする。


 ――聖女ニ ナル 重圧カラモ 逃ゲタ ノヨ。


「……そうよ」


 あたしはロンダヴェルグから逃げた。
 何日経《た》っても力を手に入れることができないから、魔界行きを口実にしてロンダヴェルグから出て来てしまった。
 悪魔に襲われた爪痕《つめあと》も残っているのに。司教《ティルファ》までもが倒れた今、不安がっている人々を慰《なぐさ》め、勇気づけるのも聖女候補の役目だろうに。司教《ティルファ》が「魔法使いとしての才能ならある」と評価した娘たちが持てる力を尽くしている中、最も期待されたあたしは何もしないで逃げてきた。
 そして魔界行きを目前にして、それからも逃げた。

「最低だわ」

 ルチナリスはひとりごちる。
 口に出してしまうと、本当に最低な人間だと思えて来る。



 あたしは魔界には行かない。
 義兄《あに》には会えなくてもいい。と言うよりも、もう1度会いたいと思うことができない。どうせ会ったところで攻撃されるのがオチ。ハッピーエンドは待っていない。
 それにあたしが行けばミルも付いて来る。聖女候補を辞めたのだから護衛をしてくれなくてもいいと道中、何度も訴えてきたが、全く聞く耳持たずに此処《ここ》まで来てしまった。このままでいけば確実に魔界入りする。
 魔界は途中であたしが死んだところで、それじゃ、と戻って来られる場所ではない。そうなれば、ミルが魔界で圧倒的戦力差を前に命を落とす未来は確定も同然だ。
 元々ミルは部外者。執事と師匠《アンリ》の目的のために駒になる必要も、まして死ぬ理由もない。

 執事と師匠《アンリ》を見捨てるのか。自分だけ逃げるのか、という意見もあるかもしれない。あたしが行くことをやめたところであのふたりは魔界に行くだろうから。でも現実として、生き残ることを優先することはありえない選択肢ではない。


 宿屋ではあたしがいないことに気が付いた頃だろうか。手紙を置いて来たから探しに来ることはないだろう。
 そんなことを思いながら、視線は眼下の町を、その先の森に向く。
 森までは距離があるけれど、足枷《あたし》がいなければ歩いて辿り着ける。だからカリンたちとも此処《ここ》で別れたかもしれない。もう随分経《た》つのにドラゴンの飛影が見えないのはそのせい。
 
 ……随分?

 何気《なにげ》なく思ったことに思考が止まる。
 随分って何? あたし、そんなにずっとドラゴンの影を探してた? もう行ってしまったのか、って? それとも――。

 ルチナリスは首を振る。

 違う。
 彼らが探してくれているなんて思っていない。
 勝手に出てきたのに自分勝手よ。都合良すぎるわよ。散々悪態の限りを並べられているならともかく、探すなんて……必要だと思われているなんて、未《いま》だに自分にそれだけの価値があるとでも思っているの?

「あたしって、最低」

 何を期待してるの?
 あたしのせいで予定が狂って、あたしのせいで魔界入りが遅れて。約束どおり聖女の力を手に入れていれば思ってもいいけれど、何もできていないのよ? お荷物のままなのよ? むしろいなくなってせいせいしているに決まっている。
 そんなあたしがいなくなって誰が困るのよ。ミルが命を散らさずに済むだけでもいいことじゃない。

 それに執事や師匠《アンリ》だって魔界行きをやめる権利はある。戦力が足りなければ引くことも部隊長をやっていた人ならわかるはずよ。義兄《あに》に会うのは今でなくても……そう、今はまだその時期じゃなかったんだわ。

 頭の中では必死で弁明を繰り返すあたしがいる。
 捨てられた女が未練がましく自分を正当化している時のようで、自分で自分が嫌になって来る。

 このみっともないのがあたし。所詮《しょせん》は主人公を夢見ただけの、実力もない、ただのモブ。





「行くか」

 ルチナリスは両手で頬を叩いた。
 こんなところで何時《いつ》までも突っ立って。探しに来た時に見つかりやすいように? 行くつもりないのならさっさと別の方向を向いて進めばいいじゃない。
 ただの自己満足のために。それがあたしにはお似合い――。

「人が住んでいるようには見えないな」
「まぁそうなんですけどね」

 ……って!?
 つい返事をしてしまったが! と振り返ると……何時《いつ》からそこにいたのだろう。風に吹き飛ばされないように片手で帽子を押さえたミルが、同じように一軒家を見上げている。

「な!?」

 何でーー!?

「お前の手紙からいくと私は魔界に行く必要がないらしいから、だったら此処《ここ》にいても構わないはずだが」

 いや、そうなんだけど! って、そんなことを聞いているのではなくて!
 水面で空気を漁《あさ》る魚のような顔で口をパクパクさせているあたしに、ミルは当然のように言うけれど!
 何故《なぜ》だ!?
 先ほど町を見た時には誰もいなかった。町に気を取られていたにしたって、隣にいれば気が付くはずだ。そう言えば昨夜、カリンが「いきなり気配が消えて、別のところから戻って来る」と言っていたけれど、って。

「何でそいつまでが!!」

 ルチナリスはミルが片手でぶらさげているものを指さして絶叫した。
 それは陶製の人形。ぶ厚いタラコ唇とじっとこちらを見つめ返してくるような目がどうにも愛玩用には見えないそれは、海の魔女事件の時に魂を封じられたものだ。




 何の因果か持ち帰る羽目になり、ノイシュタイン城の自分の部屋に置いたままになっていたそれが、何故《なぜ》此処《ここ》に!?

「ああ。何だかよくわからないがアンリ先生が持ち帰って来たらしい。ルチナリスのものなのだろう?」

 ミルの解説は相変わらず大雑把だが、やっと手放せたと思っていた人形が戻って来た諸悪の根源は師匠《アンリ》であるらしい。
 封鎖されているはずのノイシュタイン城にどうやって入ったのか、とか、それで何故《なぜ》あたしの部屋に入った? とか、何の意図があってその人形を持って来たのだ、とか言いたいことはいろいろあるけれど、文句を言いたい時に限ってその諸悪の根源はこの場にいない。


「ほら、行くぞ」
「はあ」

 よかったな、と渡されると受け取らざるを得ず、ルチナリスは人形と理不尽な思いを抱えてミルの後に続くこととなった。




 さて。何もかもがイレギュラーだ。
 ルチナリスは目の前で湯気を立てているカップと焼き菓子を凝視した。
 カップの中身はお茶、と思われる。紅茶よりも随分と色が濃く、香辛料《スパイス》の酸味や辛味にも似た香りがするから、フレーバーティーの一種なのだろう。ロンダヴェルグでミルの薬草茶に慣らされた身としては、この程度なら許容範囲内だ。
 焼き菓子には輪切りオレンジや刻んだナッツが乗っている。何度も悪魔に襲われて、町の人(例として昨日の老婆)なんて雑草(に酷似した野菜らしき草)を食べているのに、こんな小洒落《こじゃれ》たものがあるとは驚きだ。帰る時にお代を支払わなければいけないのではないだろうか。
 窓は板で塞《ふさ》がれているが、それが気にならないほど部屋の中は明るい。
 シャンデリアの硝子《ガラス》は虹色に煌《きら》めき、ソファは1度埋まったら抜け出せなくなりそうなほどフカフカ。
 うん。これは店だ。金が取れる。

 誰にも気付かれないように、と夜明け前に宿屋を抜け出したルチナリスは当然、朝食も食べていないわけで……先ほどからお腹がキュウキュウと鳴いて辛《つら》い。隣にミルがいなければとうの昔にどちらも平《たい》らげておかわりまでしているだろう。

 が、できない。
 手を出そうとした矢先、ミルから小声で「食べるな」と言われたのだ。

 
 こうして出されているのは食べながら待っていてね、と言う意味だと思うのだが、しかし面識のない相手の家に押しかけているのだから、相手が顔を見せるまでは手をつけずに待っているのも礼儀なのかもしれない。
 人生16年、メイド歴10年。こうして他所《よそ》様の家にお邪魔してお菓子を出された経験などないルチナリスにはそのあたりの社会的な常識というものがわからない。
 ミルはソファに腰掛けたまま目を閉じ、微動《びどう》だにしない。眠っているのかとも思ったが、そうして忠告されるのだから起きてはいるのだろう。


 しかし、何時《いつ》までこうしていればいいのだ。
 時計がないのでどのくらいの時間が経過したのかもわからない。せめて窓の外を見ることができれば陽の高さで大体の時刻を測ることもできるのだが。
 応接間に通されて早《はや》1時間……は経《た》っていないと思いたいが、何にせよ手持ち無沙汰すぎて居心地が悪い。せめてお茶だけでも飲ませてもらえれば、唇を湿らせる程度にチビチビと啜《すす》って時間を潰すことができるのに。空腹も紛《まぎ》れるのに。


「い、今頃みんなは森に着いてる頃で……すかね?」

 仕方がないのでミルに話しかける。
 書置きを残して逃げてきたのだ。執事《グラウス》にも師匠《アンリ》にもボロクソに言われているだろう。「もう2度と帰って来るな」とか「あいつは昔からいい加減な性格で」とか「野垂れ死んでしまえばいいのに」とか……何を想像しても悪《あ》しざまに言われている光景しか浮かんでこない。

「ああ」

 ほら、やっぱり。

「――アンリ先生が酷《ひど》い二日酔いで、休んでから出立するらしい。まだ唸《うな》ってるんじゃないのか?」
「……は?」

 何だそれは。って、と、言うことはまだ出立していないということ? 
 いや! いやいやいやいや! 彼らが発《た》っていないとは言え、あたしが出て行った事実は変わらない。今頃は、

「話を聞いて帰って来るだけなら1時間もあれば十分だろう、と思っていたのだが此処《ここ》の主人とやらは何時《いつ》まで待たせるつもりだろうな。こちらから押しかけた手前、文句を言うわけにはいかないが」
「いや、ええと、あの」

 どういうことだ。
 あの置手紙を見て、それでも待ってくれるほど執事は温和ではない。
 しかも今回の件は義兄《あに》絡み。1秒でも早く現地入りしたいはずだ。師匠《アンリ》の二日酔いで出立が遅れているならそれこそ苛々《イライラ》はMAXを振り切っていて、あたしがジャンピング土下座したとしても許してなどくれないだろう。
 それなのにミルは、話を聞いたらあたし込みで戻るつもりでいる。何故《なぜ》だ。


「それにしても話を聞きに行くだけで大袈裟すぎないか? 予定通り出立していたとしても走れば十分に追いつける距離だろう」

 そう言いながらミルは懐から折り畳んだままの紙片を見せた。

「~~~~!!!! ミルさん! それって、ぇぇぇええ!」

 間違いない。あたしの書置き。
 つまり! ミルはあたしの手紙を持ってきてしまったと!? 執事たちはまだ見ていない、とぉぉぉお!?

「押し付けられた恩など返す返さないは自由だろう。お前は元々魔界とやらに行くのが目的だったのだし、そちらの出立日が来たのなら行くのが当然だ。気に病む必要などないし、お前が残ったところで劇的に復興するわけでもない」
「いやそうなんですけど」

 あたしがいてもいなくてもロンダヴェルグには影響しない。
 正論だが、正論すぎて悲しくなってくる。世の社畜な人々も面と向かって同じことを言われたら、あたしと同じように凹《へこ》むだろう。

「お前は聖女候補になったのをいいことに、ロンダヴェルグの知識を仕入れて成長の糧《かて》にするつもりだったのだろう? ティルファが聖女に、と期待するのは勝手だが、その勝手に寄せられた期待を叶えなければいけない義理もない。お前が聖女になりたくなったのなら話は別だが」
「……いやそうなんですけど」

 傷口に辛子《からし》を練り込むのはやめてくださいお姉様。
 何だか、あたしが必死に考えたことが無駄だったみたいじゃないですか。


「昨日レコォドを聞きに行った時も、聞いて帰って来ただろう。今日だって聞いて帰ってくればいい。何故《なぜ》どちらかを選択しなければならない?」

 行動としてはそうだけれども、でも、気持ちの上では違う。
 あたしは……。 

「義兄《あに》に会いたくなくなったのか?」
「……」

 言いたかったことが全て消えた。
 戦力外だとか、前《さき》の聖女のことが気になるとか、ミルの命がとか、そんな建前は全部。

 あたしの「お兄ちゃん」はもういない。
 会いに行ったところで出迎えるのは、あたしを知らない、義兄《あに》のかおをした別人でしかない。
 だから。
 「お前なんか知らない」って、面と向かって言われるのが怖いから。「敵だ」って言われるのが嫌だから。
 だから……。

「戻るまでに考えればいい。どちらにせよポチもアンリ先生もお前の真意は知らない。黙って帰ればお前が魔界行きをやめようとしていたことなど、誰も知らずに終わる話だ」
「……そうでしょうか」

 それでいいのだろうか。
 そうしていつも中途半端に許されてしまうから、だからあたしは何時《いつ》まで経《た》っても何もできないのではないだろうか。

 ミルは足を組みなおすと、ソファの背もたれにもたれ掛かった。

「では問うが、お前の計画どおりに魔界行きをやめればお前は成長するのか?
 義兄《あに》に会うことも、義兄《あに》を連れて行った家の真意を確かめることもできず、ただ捨てられたと泣いて暮らすだけで、それで本当にお前はいいのか?
 時期が悪いと言っても、今後、お前が魔界に行く機会が来るのか? お前はその時まで生きていられるのか?
 聖女になれないからと背を向けたお前に、ティルファやロンダヴェルグからの援助の手が金輪際向けられることなどないように、逃げるということは差し伸べられる手を撥《は》ね退け続けることと同じことだ」


 あたしは。
 ルチナリスは人形を抱えたまま背を丸める。
 腹に人形の頭部が刺さるけれど、背を伸ばして座ってなんかいられない。

 あたしは。どうしたら。



 その時だった。

「――お待たせして申し訳ない」

 扉が開き、白髪の老人が現れたのは。




 老人は手をつけられていないカップと焼き菓子を見、それから改めてルチナリスとミルに目を向けた。

「……お口に合いませんでしたかな?」
「あ、ええっと、」
「いえ、突然の来訪にもかかわらず快く受け入れて頂いただけで十分です」

 やはりひと口でも食べておくほうが礼儀だったのでは!? 「せっかくの好意を無にしやがって」みたいな顔をさせて、もしこれで機嫌を損ねたら! と、隣を小突《こづ》きたかったが、間髪《かんぱつ》入れずに謙虚な台詞《セリフ》を吐かれてしまうとまるで食べて待っていることのほうが図々しいことのようにも思えてきて……結局ルチナリスは口を噤《つぐ》む。
 そしてそんなミルの態度に気を悪くするでもなく、老人は、

「ああ、お茶が冷めてしまっているね」

 と呟くと卓上のベルを鳴らした。

 訪問した時に出迎えた小間使いらしき女性が現れ、ふたりの前の紅茶をカップごと変えていく。温度に比例するように薄くなっていったあの香辛料《スパイス》の香りが、再び部屋に満ちていく。

 今度こそは口をつけるのが礼儀だろう。だがそれでもやはりミルは、カップにも焼き菓子にも手を出そうとはしない。
 そんなミルに老人は何を思ったのだろう、

「ルチナリスさん、でしたな。さあ」
「は、はあ」

 突然名指しされ、ルチナリスは問題を解けと教師に指《さ》された生徒の如《ごと》く飛び上がった。

 何故《なぜ》名前を!? と一瞬思ったが、訪問した時に名乗ったからそれが伝わっているのだろう。
 老人はふたりの真向いと言うよりはルチナリスの真正面に腰を下ろし、じっとこちらを見つめてくる。ミルのように無視することはとてもできなくて、ルチナリスはおそるおそるカップを手に取った。
 当然のことだが近くに寄せると香りが強くなる。嗅いでいるだけで飲みたくて喉が鳴る。しかし、ミルが飲むなと言ったことも気になる。

「い、いただきます」

 逡巡《しゅんじゅん》した挙句《あげく》、ルチナリスはカップのへりに口をつけ、飲むふりをした。本当は飲みたい。喉も乾いているしお腹も空いている。
 いったい何のフレーバーなのだろう。嗅《か》いだだけで意識を持って行かれそうだと思った香りは、本当に持って行かれていたのかもしれない。皿に戻す寸前で手を離れたカップが、カチャン、と音を立てた。黒ずんだお茶が皿の上に零《こぼ》れた。



「それで」

 老人は鷹揚《おうよう》に座り直すと、自《みずか》らのカップを取った。飲んでいる間も飲み干してからも、ずっと顔はルチナリスにだけ向いていて、まるでミルを意識的に避けているようにも見える。
 顔には出さなかったが、やはり先ほどの受け答えに引っかかるものがあったに違いない。それとも自分《ルチナリス》とだけ話をするつもりでいるのか。

 突然訪問したにもかかわらず通してくれて、お茶まで出して。老人の行動は好意的なのだが、目がそれだけではないように思えてならない。
 訪問した際に、此処《ここ》へ来た目的も伝えてある。歌姫シェリーについて聞きたい、と。
 本人は亡くなってしまっているかもしれないが、シェリーはあの劇場の看板。亡くなっているからと言って素性をペラペラと喋ったりはしないだろうし、その前にどんな意図があって調べに来たのか、劇場主なら気になるだろう。なんせ町の人々の間では「悪魔を呼ぶ歌声」だなどと噂された歌姫。雇っていたこの老人もあらぬ迫害を受けたかもしれない。
 この老人も町の人と同じ考えだったならともかく、もしシェリーの側だったとしたら、受け答えによってはあたしたちは敵とみなされる。


 そもそもシェリーが前《さき》の聖女の名だという根拠すらないのだ。
 司教《ティルファ》が倒れる間際に呼んだ名をあたしが勝手に会いたい人の名前ではないか、と推測しただけで、本当は婚約者とか(いればの話)、妻とか(いればの話)、妹とか(いればの話)、子供の頃好きだった幼馴染みとか(いればの話)かもしれない。
 そう考えると、こうして出向いて来たことこそ、その時期ではなかったのではないかと後悔の念すら浮かんでくる。

 そんな思いで老人を見上げると、こともあろうに老人のほうが身を乗り出し、ルチナリスの両手を掴んだ。

「ひっ!」

 思わず出た悲鳴にミルが腰を浮かし、剣の柄に手をかける。
 だが。

「ああ、やはりルーシアの面影が残っている」

 と涙ながらに続いた言葉は、ミルとルチナリスの動きを止めてしまった。


 ルーシアとは?
 疑問に思う一方で、この話の流れから推測できるものもある。そしてあたし自身心当たりがないわけでもない。
 あたしは孤児。親の顔も覚えていない。
 あたしをミバ村の神父に預けた人は何の血縁関係もない人で、たまたま人間狩りで生き残ったから連れて来てくれたのだろう、と聞いている。その人もあたしを預けて間もなく息を引き取ってしまったため、あたしには名前以外何もわかるものがなかった。フェーリスというのは神父の姓だ。
 だから、ルーシアの面影があるというのは、つまり。

「ルーシアは私の娘でね。50年ほど前に男と駆け落ち同然に出て行ってしまったのだよ。その後1度だけ娘が生まれた、と手紙を寄越してきて……ルチナリスなんて滅多にない名前だからまさかとは思ったが……これも聖女様のお導きに違いない」

 聖女の導きと言われるとまさに聖女絡みで此処《ここ》まで来た身としては反論のしようもない。
 だが名前が同じだというだけという適当な理由だけで此処《ここ》まで来てしまったのは、まさか実の祖父と巡り合うためだった! これぞ虫の知らせ、何と言う奇跡! |流石《さすが》聖女様! と手放しに喜べるほどおめでたくもない。
 第一、この老人の根拠も名前だけだ。面影があると言ってもあたしは平凡なモブ顔。目がふたつ、鼻と口がひとつずつある女性なら何処《どこ》かしらには似ている部位がある。



「こうして訪ねて来てくれたのも何かの縁だろう。どうだい、このまま此処《ここ》で暮らしては?」

 老人は手を放してくれないばかりか、そんなことを言ってくる。

 急にそんなことを言われても! いや、老人側としてはルチナリスという名の娘がやって来た時点でそう考えていたかもしれないけれど。 
 どうにかしてください、とばかりにミルに目で訴えてみても、彼女とて老人の言葉が嘘か本当かの判断などできない。それどころか、

「お前の好きにすればいい」

 と放置するつもり満々だ。

 保護者代わりの義兄《あに》を失い、聖女候補からもおりてしまい、さらに魔界にも行かないあたしは今日住む場所すらない。ミル自身、聖女候補でなくなったあたしの面倒をみるつもりなどないだろうし、その前にあたしにはロンダヴェルグに住む権利がない。ノイシュタインに戻ったところで彼《か》の地は廃墟と化しているおそれがあるし、唯一の頼りである勇者の消息は掴《つか》めない。
 ミルにしてみれば都合よく友好的な親族が現れたのは好都合だと思っていることだろう。傾いてはいるが内装は充実している家と、豊富な食料もある。何度も悪魔に襲われた町という部分だけがネックだが、人が離れてしまった今、襲ったところで得るものの少ないグラストニアなどもう見向きもされていないかもしれず。
 だとすれば、寂れてはいるが平和な暮らしができるであろうことは間違いない。


 魔界に行かないのなら。
 ルチナリスは両手を握り締める。
 ミルには考えておけ、と言われたけれど、こんなに早く結論を出さなければならなくなるとは。でも。
 
「き、急に言われても心の準備がと言うか、その前にシェリーについて教えて頂けませんかっ!」
「シェリーはただの歌姫だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 老人は嗤《わら》う。

「お前は実の母よりも、何処《どこ》の馬の骨ともつかない女のほうが気になるのかい?
 ああ、そんなことよりもっと顔をよく見せておくれ。お前は本当にルーシアに似ている。
 あの子が出て行ったのもお前くらいの歳だった。あの子が出て行って、そして同じ歳のお前が戻って来る。これもきっと定めだ。そう思うだろう?」


 その笑みに何処《どこ》か暗いものを感じたのは、あたしだけだろうか。




 それにしても、それ以上でも以下でもない、とはどのような意味にとればいいのだろう。
 ただの歌姫でしかない、という意味なのか……そもそも「シェリーが聖女だったかもしれない」という推論をこの老人《劇場主》には話していないから、自分たちが彼女を歌姫以上の存在だと思っている、などとは知り得ないはず。
 彼自身、彼女を「それ以上かそれ以下《ただの歌姫ではない》と思っている」のか、それとも話自体を打ち切りたいのか。此処《ここ》に通されたのだって、訪問した目的《歌姫》について語るものがあるから通した、というよりは、祖父だとカミングアウトするためだけに入れたように見えなくもない。
 しかしいきなり祖父だと言われても、証拠も何も……そうだ。

「あの、あたしが孫だって言う証拠はありませんか? 名前以外に」

 例えば母の形見の指輪とか、そういうアイテム。物語的には孫《あたし》側が持っていることが多いのだが、ここで血縁関係を証明しようとしているのは祖父《老人》なのだから彼が出すべきだ。とはあまりにも無茶ぶりが過ぎるとは思う。思うけれども「はいそうですか」と受け入れるには老人の話も提案も、唐突だし、重すぎる。

「何を言っているのかね。そんな奇妙な名前がこの世にふたつとあるものか。それに顔が瓜二つだ。これ以上の証拠はない」
「だったら母の……ルーシアさん、の肖像画とか、は」
「そんなものはない」

 そして当然のことながら証拠品などはないらしい。
 そうだろう。そんなものがあるなら、魂《ソウル》が呼び合ってるぜ! みたいなノリで迫《せま》らずとも最初から出している。それに第一、

「(……証拠を出されたところでお前は判断できるのか?)」
「(デスヨネー)」

 物心ついた頃にはあたしは既《すで》に孤児。これが証拠だ、と見せられたところで認識できるはずもない。ミルに小声でツッコまれるまでもなく。


「何を迷うことがある。このままでは住むところも働くところもないのだろう? 此処《ここ》にいれば何不自由なく暮らせるじゃないか。働く必要もない。毎日着飾って、美味《うま》いものを食べて、」

 ルチナリスが乗り気でないことを察したのだろう。老人は畳みかけて来る。
 これだけの家なのだから普通は遺産目当ての孫や娘が押し寄せてくるものだろうに、祖父のほうから「お前は孫だ」と迫《せま》って来るとは斬新な……じゃない。美少女だったり、世界有数の頭脳の持ち主だったりと何か秀《ひい》でたものがあれば孫に欲しがる理由もわからなくもないのだが、なんせあたしはモブ女。繰り返すたびに悲しくなるけれど、証拠もないと言うのなら余計にあたしを選ぶ理由がわからない。
 加えて肖像画すらないというのなら、50年前に生き別れた娘の顔など何処《どこ》まで覚えていることだろう。途中で理想が混ざらないと何故《なぜ》言える。何処《どこ》にでもあるモブ顔が功《こう》を成《な》したと言うべきか、裏目に出たと言うべきか、「あ、見たことがある」が「娘に似ている」を経由して「孫に違いない」と至ってしまったに違いない。
 きっと寂しかったのだろう。孫が現れたと言うのに奥方を始めとする他の家族が出てこないところからいくと、その家族も他界してしまっている可能性が高い。



「ああそうだ。長旅で疲れただろう。部屋を用意するからゆっくり休むといい」

 老人はいきなりそんなことを口走ると、忙《せわ》しなくベルを鳴らした。
 先ほどと同じ小間使いが現れ、部屋を整えるように指示されてまた姿を消す。 


「(どうするんだ?)」

 ミルが小声で問うてくる。
 次に小間使いが現れたら、あたしは部屋に連れて行かれるのだろう。そしてゆっくり休んで……その間に執事と師匠《アンリ》は魔界に旅立ってしまう。彼《か》の地に行くには隔《へだ》ての森を通る鍵がいるから、それを持たないあたしはもう追うことはできなくなる。


 ――魔界ニハ 行カナインジャ ナカッタノ?


 いつもの、あたしを嗤《わら》うあたしの声が聞こえてくる。
 矛盾していると、お前の決意はその程度のものか、と嗤《わら》い続ける。


『義兄《あに》に会いたくなくなったのか?』


 魔界に会いに行ったところで義兄《あに》はあたしを義妹《いもうと》だとは思わない。だから会わない。でも本当にそれでいいのだろうか。
 執事も師匠《アンリ》も死ぬために行くわけではない。ミルだってそうだ。あたしなんかを守るために命を散らせるのは、なんて、きっと本人はそんなこと微塵《みじん》も思っていない。


「あたし、は……」

 あたしは孫になるために来たわけではない。歌姫シェリーに母や娘がいるかどうかを確認したかっただけ。それなのに肝心なところは全く知ることができないまま……まるで誰かに手を引っ張られて、強制的に進路変更された気分だ。


 ――ソレデ イイノ?


 此処《ここ》にいればもう苦労しなくて済む。
 命を失う心配もしなくて済む。
 義兄《あに》に会わずに済む。
 でも。

 ルチナリスは老人を窺《うかが》う。
 この人は本当に自分の祖父なのだろうか。証拠も何もないのに孫におさまってしまっても大丈夫だろうか。
 この後、もし本当の孫が現れたら?
 本物の娘《ルーシア》が本物の孫《別のルチナリス》を連れて帰って来る未来がないとは言い切れない。


 ――マタ 逃ゲルノ?


 そうかもしれない。
 でも今回ばかりは「はいそうですか」と居座っては駄目だ。もし違っていた時に、この人もあたしも救われない。


 ――コノ人ノ 孫ヲ 演ジテ アゲルノモ 人助ケ ジャナイ?
   ドウセ 身寄リモ ナインダシ。


 この人の勘違いに便乗しているみたいであたしが嫌なの。


 ――るちなりす ガ 此処《ココ》デ すとーりーカラ脱落シタ トコロデ 誰モ 困ラナイ ノニ?


「(……ミルさん)」

 ルチナリスは心の声には返事をせず、顔を老人に向けたまま、小声でミルに問いかける。

「(やっぱり魔界に行きたいって言ったら、馬鹿だなと思いますか?)」
「(思うな)」

 あっさりと返された返事には落ち込むものもあるけれど。

「(でも散々迷って回り道をして、それで導き出した答えなのだろう?)」

 思わず見返したルチナリスの視界に、ニヤリ、と意地の悪い笑みが映った。

「(そういう奴《やつ》は嫌いじゃない)」

 この人、こんな顔するんだ。と一瞬、目を奪われた矢先。


「……やはり足止めは無理だったか」

 その言葉と共に、老人の口から黒い霧状のものが噴き出した。




 この霧は。
 見たことがある、なんてかわいい程度のものじゃない。海でメグの周囲にまとわりついていたもの。ソロネが「闇」と称したもの。
 それが……どうして!?

「だがお前たちは此処《ここ》で終わりだ。魔界に行くことはできぬ」

 口を歪《ゆが》めて老人は嗤《わら》う。隙間の開いた口角から泡が垂れる。そして歪みは口元だけではなく、体全体が人間ではあり得ないほどに曲がり、ねじり、形を変えていく。
 同じだ。メグの時と。
 だとすれば彼も闇に呑み込まれてしまっていたのか? 祖父だと言ったのは嘘だったのか?

「そうとも。この偽りの世界で楽しく暮らしていればよかったものを。せっかくのあの方の温情を」
「あの方、って」
「そんな問答をしている暇などないぞルチナリス」

 老人の座っていた場所には今やうねうねと蠢《うごめ》く黒い蔓の塊があるばかり。かつての名残か、人の形に見えるのが余計におぞましい。文字通り老人が蔓《闇》に「呑まれてしまった」ようにしか見えない。
 そしてその人型の蔓は、腕であったものをこちらに伸ばしてくる。
 その先が枝分かれして巻きつかんと迫って来るのを避《よ》け、ルチナリスはミルに引っ張られるまま扉に走った。

 だが。

「開《あ》かないっ!」

 押しても引いても叩いても、扉はびくともしない。
 そう言えば以前、義兄《あに》と訪れたオルファーナでも今と同じように得体の知れない世界に閉じ込められたことがあった、と窓を探したが、その窓は老人の背後。しかも外側から板で塞《ふさ》がれていて椅子を叩きつけた程度では壊れそうにない。

「馬鹿め。お前たちは此処《ここ》で終わりだと言っただろう!」

 どうすれば。
 焦る気持ちもそのままにルチナリスは周囲を見回す。武器になりそうなものと言えばティーカップと皿くらい。女の非力でソファをブン回すのは無理だ。テーブルも重そうだし……。
 
「――任せろ」

 その時。隣で頼もしげな声が聞こえた。

 そうだ、ミルは見習いとは言えロンダヴェルグ聖騎士団の一員。この闇というものが悪魔の一種なのかはわからないけれど害を為す存在というところは同じだし、どうにかできる術《すべ》を持っているに違いない!
 と、期待に満ちた目を向けると。


 ……視線の先にミルはいた。
 いたけれど、ミルとルチナリスの間に「もうひとつ」浮かんでいる。
 どう考えたって身長が足りないのにその目線の高さは反則だ、とツッコむ気も失せるソレの無表情なタラコ面《づら》がルチナリスを見下ろしている。無表情のくせにやけに得意げで腹が立つ。




「なんであんたが!」

 人形の分際で何故《なぜ》喋る!
 その身に魂を封じられていた際、執事から同じことを思われていたとは露知らず、ルチナリスは抗議の声を上げた。
 人形に何ができると言うのだ。手も足も出ない、いや、動かないくせに!
 そりゃあメグから逃げる時にも持って来たつもりなど一切合切《いっさいがっさい》ないのに何故《なぜ》か何時《いつ》までも傍《そば》にあったし、ノイシュタイン城に置いてきたと思っていたら師匠《アンリ》経由で戻って来るし、と、登場の仕方がただの人形の範疇《はんちゅう》を越えて……いや、正直に言おう! 呪いの人形並だけれども!
 だけど! 今までだって不細工なだけのただの人形だったじゃない! 助けてなんてくれなかったじゃない! なのにいきなり「任せろ」って。
 ねぇ! 「任せろ」って言ったのはミルさんよね!? この人形じゃないわよね!?
 期待と言うよりむしろ懇願《こんがん》に近い涙目でミルを見上げたが、ミルは残念そうに首を横に振るばかりだ。
 そして。

「闇を葬り去るビィィィィィィィイイイイイムっ!」




 こともあろうに人形の目から光線《ビーム》が出た。
 光線は老人であった蔓の塊を、そして板を打ちつけた窓を貫く。そのままグルン、と身を回転させると、目から放出され続けている光線《ビーム》が部屋を横真っ二つに通り抜け……壁を、そして扉をも破壊した。

 待って。
 ファンタジーの概念をブチ壊すそれは何?
 ネタなの? ネタよね? あたしは悪夢を見ているのよね!?
 絶体絶命のピンチから助けてくれてありがとうなんだけれども何か嫌。
 人形が宙に浮かんで光線《ビーム》で敵を薙ぎ倒すだなんて、言ってみればとてもファンタジー《非現実的》ではあるけれど、あたしが言いたいファンタジーはそれじゃない。剣と魔法と、魔王と聖女と勇者の、そういうファンタジーよ。ひとつ間違えたら笑いしかとれないソレはファンタジーじゃない。
 卒倒できるものならしたい。したいけれども魔族だらけの環境でのメイド仕事で鍛えられた体力と精神力はそう簡単に夢の世界に旅立たせてはくれない。
 ああ、前にも似たようなことがあった。筋肉は裏切らないって何処《どこ》かで聞いたけれど、倒れることもできない《ヒロインになれない》のは難点だわ。

「何をしている! 行くぞ!」

 悲しみの海に溺れる暇もなく、ルチナリスは腕を引っ張られる。
 壊れた扉を蹴破り、廊下を抜け、外に飛び出す。玄関扉も同じように開かなかったら、という心配は杞憂《きゆう》に終わった。もっとも開かなかったところで光線《ビーム》が有無を言わさず破壊していくのだろうけれど。




 強い海風が吹く。
 真正面から叩きつけられてよろめいたルチナリスの視界に、少し前にくぐったはずのアーチはなかった。
 後ろを振り返ったが、案の定、家は住めそうにないほどに壊れている。

 夢だったのか。
 きっと夢に違いない。人形が光線《ビーム》を出すなんて夢以外の何ものでも――。

「夢などではないぞ!」
「喋ッタァァァァァァァァアアアアア!」

 ミルに抱えられていた例のブツ《人形》の頭だけがクルリと回ってルチナリスのほうを向いたことに、ルチナリスは思わず悲鳴を上げた。
 奴《やつ》はジンジャーボーイクッキーの如《ごと》く頭と胴体が繋《つな》がっていたはずだ。回る首などないはずだ。もっと言えば光線《ビーム》を出す穴もなかったし、素材自体が陶器だし、口なんか描いただけだから喋るはずが、

「真実は小説より奇なり、とはよく言ったものよのう」

 ホホホホホ、と高笑いが描いただけの動かない口から聞こえて来る。
 何この悪夢。そしてミルさん、どうしてそんな怪しいブツを抱えていられるの? 投げ捨ててもいいのよ? と言うか投げ捨ててお願い。

「投げ捨てろとは非道な! それが危機を救ってもらった恩人に言う台詞《セリフ》かえ!?」

 恩人って言葉は人間に使うんです。
 ルチナリスはそっと人形から目を逸《そ》らす。
 言っていることはもっともだが、あまり関わり合いにはなりたくない。城に持ち帰っておいてその言い方は矛盾していると言われそうだが、あれは何処《どこ》に逃げてもついてくる人形を放置したら呪われそうで仕方なく持ち帰ったまでのこと。決して崇《あが》め奉《たてまつ》ろうとかかわいがろうとか、そういう目的があって持ち帰ったわけではない。

「……だって普通じゃない……」

 本人《本人形》を前にこんなことを言ったら呪われ一直線でしかない気もするが、思わず本音が口に出た。目の前に教会があったら即座に持ち込んでいる。お祓《はら》いをしてもらっている。

 そんなルチナリスの態度に仲を取り持とうとでも思ったのか、ミルが口を挟んだ。

「ああ、言っていなかったが、大地の精霊メイシア様らしい」
「何がですか?」
「これが」

 そう言いながら目の前に突きつけられたのはやはり例のブツ《あの人形》。
 恐怖を抱いている相手に「大丈夫だよ、怖くないよ」と出すにしてはあまりにも行動がぞんざいすぎる。衝動的に(人形を)張り飛ばさなかっただけでも褒めてほしい。
 が、その前に。

 メイシア様?
 メイシア様というと、四大精霊のひとりで聖都ロンダヴェルグにいると言われている、あの?

 ルチナリスは突き出されたままになっている人形に目を向ける。かなり見慣れているはずだが、それでも真正面から顔突き合わすのは辛《つら》い。
 しかしこれが精霊で、メイシア、様?
 精霊というとスノウ=ベルやアドレイのような小さい女の子型だと思っていたが、四大精霊というほど偉くなるとやはり違って来るものなのだろうか。神様だって偉くなってくるとヒラヒラした装飾品の数が増えたり、やたらと神々しくなったりするものだし。と、それは物語で見ただけで実際に会ったことなどないけれど。この体裁を見る限り、精霊の間での「神々しい」基準は絶対に人間のそれとは違うのだろうけれど。

「うむ。苦しゅうない、近《ちこ》う寄れ」
「……遠慮シマス」

 だがしかし。
 これが仮にメイシア様だとすれば今までの怪奇現象の数々も納得できないわけでもない。なんせ精霊だ。人間ではない。聞いた話では、四大精霊は子供が生まれた時にやって来て加護を与えてくれるらしいし、人智を越えた何かを持っていることは間違いない。
 そんな偉い精霊が何故《なぜ》ノイシュタインの海などにいたかは不明だが、きっと呪いの人形と間違えられて捨てられたとか、そういうあたりなのだろう。

「我が身にその魂を宿して以来、ずっと見てきたのじゃ。前々から呆れるほどの優柔不断さで苛々《イライラ》したことも1度や2度ではなかったが、先ほどの悪魔までもウダウダウダウダと煮え切らない態度で蹂躙する様は、ああ、そういう戦い方もあるのかと目から鱗が落ちるようじゃった。
 なかなかに面白い。これも何かの縁ぞ、加護のひとつも与えてやろう」
「加護」

 呪ってやると言われているようにしか聞こえない。
 加護ってアレよね? 守護霊みたいに守ってくれるってことよね? 
 この人形に。

 この人形に!?




「え、えっと」
「見ればそなた、誰の加護も受けていないではないか。ちょうどいい」

 何がちょうどいいんですかーー!?
 助けて下さい。誰か意味が分かるように教えてください。勝手に話を進めないで下さい。
 ルチナリスは生温かく見守っているミルに目を向ける。そう言えば先ほど、この人形がメイシアだと言ったのは彼女だが……と、言うことは知っていたのだろうか。知っていて持って来たのだろうか。

「お前が何の力も出せなかったのは加護を受けていなかったからではないか? 大地の力は母なる力。聖女の根幹となるものだ。くれるというなら貰っておけばいい」
「いや、だから」

 そう言えばこの人、前にも利用できるものは利用しておけ、みたいなことを言っていた。この人形が何処《どこ》に行くにもついてくる呪いの人形だというより前に精霊の化身だと刷り込まれたから、きっと何をしでかしても「精霊ならそれが普通」。きっと「良かったな」としか思っていない。
 ……でも。

 加護を受ければあたしでも魔法が使えるようになる?
 ルチナリスは拳《こぶし》を握る。
 力が使えれば足手まといではなくなる。足枷《あしかせ》にならずに済む。命の危険があることに変わりはないけれど……。


『――聖女になればお兄ちゃんの病気が治るかもよ?』


 義兄《あに》の不調は眠り続けるだけではなかった。闇を取り込んでしまったが故《ゆえ》の記憶の欠落。だからあたしや執事のことを忘れてしまっている。
 でももし力が……大地の、聖女の力が使えるようになるのなら、あたしは義兄《あに》を元の義兄《あに》に戻すことができるかもしれない。あたしのことを知っている、あたしの「お兄ちゃん」に。





 影がさした。
 見上げればドラゴンがいる。見覚えのある人たちの顔が見える。

「それでこれからどうするんだ? お前は」

 ミルが小首を傾げる。手を差し伸べる。
 その手に、今は此処《ここ》にいない人を想う。

「……言うまでもないわ」

 ルチナリスはその手を取った。
 耳の奥で、歌姫シェリーの、あの歌声が聞こえた気がした。