9-4 月下悲歌




 蜂蜜色の髪の精霊が黙り込んだままの執事を見上げる。
 通話の内容は彼女も聞いているだろう。声をかけるべきか躊躇《ためら》っているようだ。


 配膳室《パントリー》で珈琲《コーヒー》を淹れている時に、その連絡はきた。
 相手はメフィストフェレス本家。城主に直接ではなく城宛てに連絡を入れて来たあたり、まず最初に取るであろう自分《執事》に聞かせるつもりだったのかもしれない。

「グラウス様、」
「そんなに、酷い顔をしていますか?」

 軽口のように尋ねても、精霊は答えない。
 私はどんな顔をしているのだろう。グラウスは軽く頬を叩く。


 遠く離れた者同士が連絡をし合うことができるのは、通信能力を持つ彼女たちのおかげ。人間界でも同じような機能を、あちらは機械で作ろうと模索しているらしい。
 もし実用化されれば馬車や汽車と同様、魔界でも使われるようになるのだろう。魔族は人間を蔑《さげす》むくせに、使えるものは簡単に取り入れる。

「いえ……」

 言葉に反して精霊は未だ逡巡している様子。機械ならこんなふうに気を遣《つか》われることもないのだろう、と思うと同時に、実用化されればこの精霊たちはどうなるのだろう、とも考える。
 動物や虫にすら捕食されてしまう弱い立場の彼女らの、その唯一の価値が量産されるようになったら……いや。
 グラウスは首を振る。
 実用化されるとしても当分先の話だ。今から考えることではないし、自分が思いあぐねるものでもない。魔族と共存するにしても庇護を離れるにしても、彼女らの未来は彼女らが考えるべきことだろう。


「珈琲がぬるくなってしまいましたね」

 精霊のほうを見ないまま、独り言のように呟く。温め直すことも考えたが止《や》めた。
 どうせ、飲まない。


 ふ、と暗くなった配膳室に、グラウスは窓の外を見上げた。
 月がゆっくりと群雲《むらくも》に隠れていく。




 執務室に戻って来ると、書類の山は可否にわけられて署名も済んでいた。
 花押《かおう》とでも呼べばいいのか、妙にデザインじみた署名が見える。偽造防止とは言え、いつ見ても難解な署名だ。これが真似できないのでデスクワークの代役だけは押しつけられずに済んでいる、とも言えるのだが。

 グラウスは応接セットの机に持ってきたカップを置く。
 白い磁器の中にあるのは見慣れない黒。「無」を表す色、白以外の全ての色を混ぜた時に現れる色。紅茶の透明感はそこにはない。

「青藍様」

 さりさりと紙の上をペンが走る音だけがやけに大きく聞こえる。

「青藍様」

 彼はペンを走らせる手を止めない。
 まるで自分が言おうとしている言葉を拒絶するように。

「……青藍様。第二夫人が亡くなったそうです」

 カリッ、とペン先が紙に引っかかる音がした。
 黒いインクの染みが、じわりと白い紙を染めていく。


 ああ。黒は白をも呑み込んでしまうのか。
 グラウスは徐々に広がっていく黒を見つめる。死体の下から流れ出る血だまりのように見えるのは、今の胸の内が映っているからだろう。
 そして視線を上げれば、青藍が手を止めたまま自分を見上げている。
 感情をどこかに置き忘れてしまったかのような目は、10年と少し前に魔界本庁で再会した時の、あの彼を思い出す。

「……そう」

 重い沈黙が部屋を満たしていく。
 雲に隠れてしまったのだろう。先ほどまで辛《かろ》うじて薄く差し込んでいた月明かりが、プツン、と途切れるように掻き消えた。
 蝋燭の炎が部屋全体にまだらな陰影をつける。ゆらり、ゆらりと揺れながら壁に映し出される影が、笑っているようにも、そして泣いているようにも見える。


 もっと驚くかと思っていた。
 実際、自分がその一報を聞いた時はかなり驚いた。つい半日程前まで元気な姿を見せていた彼女の訃報に。

「至急本家にお戻りになるよう要請が届いております」
「わかった」

 だが彼は。
 取り乱しも嘆きもしない。
 もしかしたらとうにわかっていたのかもしれない。魔王役を就任してからずっと会うこともなかった母が、病弱な身をおして此処《ここ》まで会いに来た時から。

「戻られるのですか?」

 黙って席を立ち、上着に袖を通している青藍の背に声をかけると「何を馬鹿な」と言わんばかりの目を向けられた。
 葬儀は3日後。縁を絶っているわけでもないたったひとりの血縁だ。行くに決まっている。でも。

「駄目です」

 彼が行こうとしている場所は、彼が長く幽閉されていた城。
 手を下した兄が当主となっているその城に行って、再び帰って来られる保証は何処《どこ》にもない。

「駄目です、あそこは」
「俺の実家」
「ですが」

 頭ではわかっているのだ。自分がどんなわがままを言っているか。
 でも。


 幽閉を解かれたのは魔王役就任が決まったからだと聞いている。
 魔王になっていなければ彼は今でもあの城に閉じ込められていて、こうして再び巡り合うことも傍《そば》にいることもできなかった。
 そして今、魔王役に推薦した第二夫人が亡くなり、後押しした前当主も表舞台から姿を消している。
 魔王役としては長すぎる10年を務め上げた今、辞めたところで異を唱える者はいない。それどころか現当主である兄から「本家に留まれ」と面と向かって言われれば、それを拒否してまで再びこの地に舞い戻ることなどできないだろう。
 当主の弟はひとりしかいないが、魔王ならいくらでも代わりがきく。

「そ、れでも、行っては……」 
「終わったらちゃんと帰って来るから」

 青藍は安心させるかのように笑う。少し背を伸ばして、子供みたいに頭を撫でてくるのもいつものこと。
 だが私はこの笑みを浮かべた人を過去に失くしている。この顔を見せられて煽《あお》られるのは不安ばかりだ。安心などできるはずがない。

 ああ、私は今どんな顔をしているのだろう。
 息がかかるほど近くにいるのに、その顔が見れない。髪と、肩と……グラウスは力なく垂れ下がっている自分の手をわずかに持ち上げる。
 手を伸ばせば、あなたに触れることができる。
 それだけ近くにあなたがいる。

 彼の背中に手を回しかけ、そしてグラウスはその手を固く握って下ろした。
 出来ない。それをしたら、封じている気持ちに呑みこまれてしまう。


「兄上に残るよう言われても、ちゃんと帰ってきますか?」
「え? あ、うん、帰って……来るよ」

 来ないな。
 曖昧に視線を逸らす青藍に、グラウスは唇を噛んだ。


 前から薄々そんな気がしていた。この人にとってノイシュタインでの生活は仮のものでしかないのではないか、と。
 実際、魔王役にしてみれば誰であろうとここでの生活は仮住まいに過ぎない。生き延びても、歳を取らない魔族であるが故に「人間ではない」と知られる前に交代するのが掟。生死合わせて在籍年数は平均5年と言われている。
 しかしこの人は任期以前に、いついなくなっても構わないと思っているような節《ふし》が多々見受けられる。ルチナリスが幼くなければ、5年を区切りに辞めていたのではないだろうか。
 使用人も最低限しか置かず、身の回りのものもほとんどが城の備え付けか本家から送ってきたもの。趣味のものなどひとつもない。唯一の私物と言えば髪を結わえているリボンだろうが、それだってルチナリスが買って来たものだ。

 彼はいつでもここを去れるよう、私物を増やさずにいる。
 そう、見える。


「私も行きます」

 グラウスの声に青藍は黙ったまま手を止めた。何か言いたげに口を開きかける。

「あなたをひとりで行かせるとろくなことになりません」

 告げられるのが拒否であろうことは十中八九間違いない。それがわかっているから、グラウスは畳み掛けるように言葉を重ねる。
 ひとりで行かせたらきっと帰ってなど来ない。
 そうでなくてもこの人は手を離すとすぐに何処《どこ》かへ行ってしまう。何故《なぜ》こんなに、と思うほど災難に巻き込まれる。心配性だの過保護だのと言うけれど、何もなく帰ってきてくれる人ならここまで心配などするものか。
 それなのに……こともあろうに、あの兄の元へなど。

 だから。

 あなたがどうしても行くというのなら。
 あなたがあの兄の言に揺らいだりしないように、ずっとついていなくては。


 グラウスの髪を弄《もてあそ》びながら、青藍は眉を寄せている。
 そんなに触り心地のいい髪だとは思わないのだが、彼のお気には召しているらしい。思い返せば、最初に出会った時から彼はこの髪に手を伸ばしてきたものだった。
 最初は珍しさで。そして今は幼かった義妹《いもうと》をなだめるのと同じ心境で。
 それでも、この髪を他の誰でもなく彼が気に入っているというのは誇らしくもあり、無駄に伸びた身長のせいで親にすら滅多にされた覚えのないこの「頭を撫でてもらう」という行為を心地いいと思ってしまっているのも確かなことで……幼子同然の扱いにも関わらず断ることのできない自分を恨めしくも思う。

 自分が触れることができない分、相手に触れてもらいたいと思うのかもしれない。
 自分がこの人の特別なんだと、そう誤解していたいのかもしれない。


「あの家には兄上がいるからお前は連れて行きたくないんだけど」

 指に絡んだ毛が僅《わず》かに引っ張られる。

「気が合いますね。私も紅竜様がいるからあなたを行かせたくありません」

 その小さな痛みが、彼の精一杯の抗議の声に聞こえる。

 あの兄は自分を目の敵にしている。
 禁忌を破った自分を処罰し損なっただけでも気に入らないだろうに、尚且《なおか》つ未だもって弟にまとわりついているのだから。見逃してやったのに再び視界に戻ってきた|煩《うるさ》い小蠅、とでも思っているに違いない。
 そしてそのことを青藍は知っている。どんな因縁があったのか、あの兄がどんな男か、教えたのは自分だ。嫉妬から大袈裟に言っているだけ、という程度の認識にとどまっているかもしれないが、それでも「せっかく救ってやったのに何故のこのこ戻って来たんだ」とは思っているだろう。
 それなのに突き離さないばかりかこうやって髪に手を伸ばしてくるのだから……傍《そば》にいてもいいのかと淡い期待を抱いてしまう。

 でもそれはこのノイシュタインでの話。
 仮初《かりそ》めの中の幸福。
 本家で自分が彼のそばにいることは、彼にとって負担にしかならない。



「私がいては邪魔ですか?」

 グラウスは問う。
 邪魔だろう。ついて行くことで彼は己《おのれ》だけでなく執事の責任をも負うことになる。あの兄のことだから、ほんのささいな失態でも拾い上げてくるに違いない。

「邪魔だって言ったらついて来ない?」
「いいえ」

 私が傷ついたり死んだりしたら、この人は連れて行ったことを後悔するだろうか。
 最後まで勝手を言って自滅した私を愚かだと嗤《わら》うだろうか。
 こんな男を庇った過去の自分に呆れるだろうか。

 でも。それ以上に。
 この人をひとりで行かせたら、「私が」きっと後悔する。


 あの兄は待っている。
 幾重にも張り巡らせた蜘蛛の糸にこの人がかかる瞬間を。
 もとより手元から離すつもりなどないのだ。逃がしてしまった獲物をもう1度狙うように、必ず捕まえに来る。

 あの15年をあなたは幽閉ではないと言ったけれど。
 生活レベルが落ちたわけではないとも言ったけれど。
 あなたが。
 あなたが、またあの人形のようになってしまうのなら。
 私はあなたを、あの兄には渡さない。

「私も、行きます」

 ああ。葬儀が終わるまでの数日とは言え、私は私のためだけに彼に負担を強いようとしている。
 彼の優しさに付け込んで。




 青藍は手を止めた。
 視線がふっと暗く鋭いものに変わる。蒼い、海の底のような色の奥にゆらりと紅い炎が見える。

「……お前、俺のことを守ろうとか、そんな馬鹿なことを考えてはいないだろうね」

 図星。
 顔に出さないように努めていたのに。
 その炎に絡めとられたまま、グラウスは息を呑む。

「お前に守ってもらうほど落ちぶれちゃいないんだけど」

 この人は鈍いくせに、たまにとんでもなく察しがいい。

「魔……王様をお守りしようなんて、大それたことを考えるはずがないでしょう?」

 執事の返事に青藍は険しい顔のまま、髪に伸ばしていた手を外した。
 冷たい手が一瞬、グラウスの頬をかすめる。


「結界を張って来る。終わったらすぐ出かけるからな」
「は、……い?」

 ついて行っていいってことか?
 グラウスは出て行く後ろ姿を見送りかけ……数秒遅れて後を追った。




 廊下は冴え冴えとした光が差し込んでいる。
 先に出て行った人の後ろ姿が遠くに見える。

 くらり、と既視感《デ・ジャ・ヴ》が襲った。

 ああ、そうだ。これは10年前、魔界本庁で見かけた時と同じ。兄の後ろを無表情のままついていくあの人を追いかけることすらできなかった、あの時。
 しかし今の私はあの人を追うことができる。あの時とは、違う。

 グラウスは冷たい光の中に足を踏み出す。

 本家で彼を守らなければならなくなるとすれば、相手は9割方当主――あの兄だろう。
 弟ほどではないだろうが、兄もそれなりに能力は長《た》けているだろう。獣になれる程度の力しかない自分が勝てる可能性は限りなく低い。
 だがミイラ取りがミイラになるようなことでもあれば、青藍は再び自らを犠牲にするかもしれない。失敗は許されない。

「私は間違っていますか……?」

 何が最良なのだろう。
 ひとりで行かせても、ついて行っても、どちらにしても良い結果になるとは言えない。むしろこのまま彼を連れて最果ての地にでも逃げてしまったほうが、とさえ思う。
 家も一族も魔王も義妹《いもうと》も、何もかも捨てて。たったふたりで。

 ただ、彼はそれを望んではいない。そうやって自分勝手を押しつけても彼は何も言わずに受け入れてくれるかもしれない。でもそれでは、あの兄と何も変わらない。
 命くらいいくらでも賭けられるけれど、でもそれが、彼の心に新たな傷を刻むことにしかならないのなら――。
 グラウスはポケットの中から小さな耳飾り《イヤリング》を取り出した。窓から差し込む月明かりを反射して、手のひらの中で鈍く光っている。


 私は。
 あなたに笑っていてほしいだけなのに。