8-8 鏡の中の私




 トルルルルン、というベルのような音にルチナリスは目を覚ました。

 カーテン越しの薄暗がりの中であたりを見回す。
 何百年前もから使われて来たせいか、炎の形に煤《すす》がついてしまっている壁。あまり使うこともない飴色のライティングデスク。そう、ここは自分の部屋だ。
 枕元に置かれた時計は4時を指している。起きるにはまだ早い。もうひと眠り……と潜り込みかけて、ふと、さっき鳴っていたのはこの時計だろうか、との疑問が首をもたげる。
 聞き慣れない音だった。この時計の目覚まし音はあんな音だっただろうか。いやそれよりも、この時計に目覚まし機能など付いていただろうか。
 手を伸ばして時計を掴み、ベッドの中に引っ張り込む。暗がりの中で見えた時計は上部に文字盤が、下部に小さな人形が付いたもの。確か定時にはオルゴールとともに人形がくるくる回る仕掛けだったように思う。

 あの音はオルゴールの音だったのかもしれない。
 半分寝ぼけていたから中途半端に聞こえただけなのかもしれない。
 何となくそがれてしまった眠気に、ルチナリスは仕方なく身を起こした。

 



 クローゼットの取っ手に、ミモザのような淡い黄色のワンピースがかかっている。
 今日はこの服を着るつもりだったのだろうか。だが明るい色に違和感を感じて、クローゼットの扉を開ける。
 中にかかっている服はどれもピンクやすみれ色といった淡い色調のものばかり。そのどれも着る気になれなくて、仕方なく最初のミモザに袖を通した。


「もう起きたの? 早いわね」

 着替え終わるのを待っていたかのように部屋の扉が開き、同い年くらいの少女が顔を出した。
 ルチナリスと同じ薄茶の髪と茶色の瞳。背丈も同じ。ただ違うのは、ルチナリスの髪が見るからに硬そうな直毛なのに比べて、彼女はふわふわと波打っている、というところだろうか。
 クローゼットに押し込まれた山のような服も、彼女になら似合うに違いない。

「とてもよく似合っているわ。やっぱりあなたには黄色が似合うわね」

 自分では似合わないと思うのだが、少女はミモザ色のルチナリスを上から下まで眺めては満足げに笑う。
 このミモザを選んだのは彼女なのだろうか。

「そうよ。暗い色なんか着たら気分まで暗くなるでしょ。黒も紺も、蒼《あお》も駄目」


『――頭から服から黒いんだから』


 声が聞こえた。

「どうしたの?」

 耳に手を当てて固まったルチナリスに、少女が眉をひそめた。怪訝な視線が刺さる。
 愛想笑いで誤魔化したものの、少女はまだ不審げな目をしている。

 何だろう。さっき頭に響いた声は確かにあたしの声だった。
 あたしは誰かにそう言ったことがあるのだろうか。でも、誰に。
 考えても答えは出て来ない。少女に聞けばわかるかもしれないとの思いがよぎったが、余計に不審がられる恐れもある。
 ルチナリスは黙って下を向いた。

「……髪を梳《と》きましょう。くしゃくしゃだわ」

 細かいことにこだわらない主義なのか、ルチナリスの奇行をたいしたことではない、と判断したのか。
 少女は背後からルチナリスの両肩に手を置くと、つ、と押した。


『――髪もくちゃくちゃで。地下室でネズミでも追いかけていたんですか?』

 
 耳鳴りのように、声が聞こえる。
 黙ったままのルチナリスを鏡台の前に座らせ、少女はゆっくりと髪を梳く。
 そして、

「アンティークって言えば聞こえはいいけれど、古くてみっともないわ」

 そう言うと、彼女はルチナリスの後頭部から髪留めを外した。ぱさり、と落ちてきた両横の毛束に、ルチナリスは慌てて振り返り、少女の手から奪い取るように髪留めをひったくった。
 あまりの勢いに少女が目を見開く。
 咎めるような目に、罪悪感が首をもたげる。
 それでもルチナリスは髪留めをつけ直した。鏡もブラシも使っていないから不格好に曲がっているだろう。それでも。

「こ、これは外しちゃ駄目なの」
「こっちのほうがかわいいわよ。こっちにしなさいよ」

 少女はルチナリスの態度にへそを曲げるでもなく、金色の小花が連なった髪飾りを取り出した。
 その繊細な細工は以前、何処《どこ》かの店先で見た覚えがある。
 「最近の流行《はや》り」であるらしいが使い方を知らないとはとても言い出せなくて、興味がないそぶりをして帰って来てしまった。帰ってから何度も「あれはかわいすぎて似合わない」と自分に言い聞かせた。
 あれは、いつのことだっただろう。

「ほら」
「これで、いいの」

 それに、この髪留めは外しては駄目だと言われたもの。怖いものから守ってくれるお守りだから、と。

 ……誰に?





「それよりおなかが空いたわ! ねぇ、そうでしょう?」

 少女のはしゃいだ声に我に返った。
 気がつけば目の前には白いクロスがかかったテーブル。籠に盛られたパンと、ソテーされた肉、そして湯気の立つスープが並んでいる。
 だが食欲はまるで湧いてこない。それどころか大量の生クリームでも摂取した後のように胸がムカムカする。

 向かい側に腰掛けた少女は嬉しそうにパンを選び取っている。食べたくない、と言えば今度こそ彼女の機嫌を損ねてしまうだろう。ルチナリスは同じように腰掛けると、食べる順番を迷うふりをしながらテーブルの上を見回した。


 ぱっと目を惹いたのは植物を生《い》けた皿。
 と言っても、生けられているのは緑色の葉をつけた蔓だけだ。濃い緑色が白いテーブルクロスと引き立て合うさまは清々しい朝にはもってこいだが、花言葉はあまりいい意味ではなかったような。




「それはアイビーよ。アイビーの花言葉って知ってる?」

 肉を切りながら少女が問う。
 ルチナリスは両手を膝の上で握ったまま首を振る。
 つい最近、誰かもそんなことを言っていた。どんな意味だろうと思ったのを覚えている。結局、意味を教えてもらう前に帰って来てしまったけれ……


 ……帰って来た? の?


 ルチナリスはテーブルに、少女に、そして室内に目を向けた。
 そう言えば、さっきまでは自分の部屋にいなかったか? 階段も廊下も、いや、扉を開けた記憶すらない。どうやってここまで辿り着いたのだろう。
 そしてこの部屋も。食事をとる部屋のようだが、全く見覚えはない。
 自分が食事をとっていたのは使用人用の食堂だった。無骨な木の大テーブルには花どころかテーブルクロスすらかかってはおらず、先を争って奪い取らなければ食べ損ねてしまう。
 でも、それが楽しかった。あたしはずっとひとりだったから。

 ひとり?
 それじゃ目の前のこの子は誰?


 トルルルン……
 何処かで、またあの音がする。



「あなたは、誰?」
「……ここは何処? 記憶喪失のドラマで主人公が必ず言う台詞《セリフ》ね」

 茶化す声に耳も貸さず、ルチナリスは椅子を蹴る勢いで立ち上がった。 
 そうだ。大事なことがあったはずだ。こんなところで知らない女の子と悠長に食事などしている暇もないほどに。
 ぐずぐずしていたら、大事なものを失ってしまう。それが何かはわからないけれど――。

「アイビーの花言葉はね。……死んでも離さない、って言うの」

 少女の声に目の前の蔓が弾けた。
 いや、弾けた、という表記だけでは語弊がある。皿から零《こぼ》れてテーブルの上に広がっていた蔓が、パン! と放射線状に広がったかと思うと蛇のようにうねり、ルチナリスに向かって飛び掛かって来た。手足や首に巻きつかれそうになって、ルチナリスは慌てて飛びすさる。
 椅子が音を立てて床に倒れた。

「何処へ行くの? ここにいればずっと楽しく暮らせるわ。ここにはあなたを蔑《さげす》む者など誰もいない。美味《おい》しいものを食べて、綺麗に着飾って、永遠にここで私と暮らすの。素敵でしょう?」

 違う。
 追って来る蔓を払い除《の》け、ルチナリスは扉に辿り着いた。
 ドアノブに手をかける。しかし、押しても引いても扉は開かない。

「……様! 青藍様!」

 口をついて出た言葉に、ルチナリスははっとした。

 そうだ。どうして忘れていたのだろう。
 あたしは彼と一緒にオルファーナに来た。怪しいナンパ男を撒《ま》いて店に入ったものの、その男は追いかけて来て……それで、気がついたらここにいる。

 この扉はあの店につながっているのだろうか。
 いや、つながっていなくてもこの部屋からは出なくてはいけない。
 出られなかったら、あの少女が言うように永遠にここで暮らさなければならなくなるのだろう。さっきみたいに何もかも忘れて。


 トルルルン、トルルルン……

 音がする。
 聞いているだけで気が急《せ》いてくる。
 あたしはこんなところにいてはいけない。逃げなきゃ。早く。


「青藍様!」

 ガチャガチャと無駄な努力をし続けるルチナリスの背後から足音が近づいてくる。

「そうやっていつも誰かに助けられるのを待って。甘えているとは思わないの?
 すぐに助けを乞おうとするその口で、男の手を借りずにバリバリ働くなんてよく言えたものだわ。呆れているわよ? お、に、い、さ、ま、も」
「そ、んなこと」
「まぁ、青藍様はそんなこと言わないわね。あなたってば簡単に落ち込むんだもの。せっかく育てた魂が不味《まず》くなってしまうわ」

 不味くなる?
 ルチナリスはノブに手をかけたまま肩越しに少女を見る。


 義兄は魔族だ。
 そして魔族と人間は捕食者、被捕食者の関係にある。
 しかし義兄は人間を食べたりはしない。簡単に捕まえられたであろうルチナリスでさえ10年も生かされてきた。

「そりゃあ不幸のどん底にいる貧相な小娘なんか食べたって美味《おい》しくないもの。太らせて、幸せの味を覚えさせたほうが美味しいのよ? 血肉も、魂も。10年も、って言うけれど、魔族には瞬きする間のようなものだわ」

 違う。ルチナリスは首を振る。
 義兄は、魔族だと知られた時には人間の世界に戻れと言った。食べるつもりなら逃がそうとするはずがない。少女の言葉を借りれば、10年かけて美味しく育った「あたし《人間》」を。
 それにフロストドラゴンも言っていた。義兄は人間の血肉を口にしていない、と。

「爬虫類の言葉は信じるくせに、私は信じられないって言うわけ?」

 鈴が鳴るように少女は笑う。
 カサカサと乾いた葉音を立てながら蔓が少女に絡んでいく。


「ねぇ、魔族がどうしてあんなに秀麗な外見を持っていると思う?
 あれはね、人間を騙すため。人間は美しいものは正しいと思う。憧れる。ホイホイと近付く。
 あなたもそう。もしお兄様が二目《ふため》と見られない醜悪な顔をしていたらそんなに懐いていたかしら?」
「そ、れは、」

 あるかもしれない。
 幼少の頃にガーゴイルを見て泣いたらしいし、もし義兄がガーゴイルと同じ外見だったら懐くどころか悲鳴を上げて逃げただろう。
 姿を隠しながらもずっとそばにいて、何かといろいろと教えてくれたのはガーゴイルのほうだったのに。
 最初の頃の義兄は、ずっとあたしを放置していたくらいなのに。

「それに青藍様だってあなたがいないほうがいいのよ? あなたがいなければ、とうに魔王なんて辞めていた。
 魔王役を続けると言うことは、その分、死ぬ確率が増すということ。わかるでしょう? 迷惑なのよ、あなたがいると」


 魔王の平均任期は5年。
 魔族の間で「魔王」という職の評価がどうなっているかは知る由《よし》もないが、毎回命の駆け引きをする仕事など長く勤めたいと思う者はいないだろう。
 ルチナリスがそばにいたいと言ったから、だから義兄は任期を延ばしている。それにどうして気づかなかったのだろう。

 ああ、だから執事は自分に辛く当たるのか。
 義兄に追い出す気がないのなら、ルチナリスが自らすすんで出ていく気になるように。義兄の安全を願えば、人間界に繋ぎ止めようとするものはひとつでも排除したいに決まっている。

 だったら。

 義兄のことを本当に思っているのなら、あたしはここにいたほうがいいのではないのだろうか。
 ここにいれば綺麗な服を着て美味しいものを食べていられる。他人と自分を比べることもないし、嫌味を言われることもない。永遠に。

「あたし、」

 少女がニィ、と笑う。
 蔓がシュルシュルと音を立てて床を這って来る。




「駄目です! 気を確かに持って!」

 突然耳元で出された大声にルチナリスはよろめいた。
 足首に巻きつきかけていた蔓が、熱いものに触れて引っ込めた手のように退《しりぞ》く。

「……スノウ……ベル……?」

 ルチナリスの肩に立っていたのは、義兄の懐中時計から現れたあの精霊だった。
 そう言えばあの時計は義兄から預かっていた。ポケットに入れたままになっていたから、この場所にも付いてきたのだろう。

「あんなポッと出の得体の知れない相手の言うことを信じて、10年も一緒にいた青藍様を疑うとか、あり得ないです!」
「疑ってるわけじゃ……ないわ。あたしがいないほうが青藍様のためにはいい、って、」

 ドラゴンの時もルチナリスを庇《かば》って力を使い果たして、それでドラゴンに乗っ取られた。
 ルチナリスがいたから魔界に帰ることもなく、ずっと魔王を続けてきた。


『――人間として生きなさい』


 あれは義兄の本心も入っていたのではないのだろうか。
 出て行ってくれ、と……。

「青藍様はあたしの前では無理をする。いいお兄ちゃんでいようとする。
 グラウス様には言うわがままもあたしには言わないの。それってあたしには心を開いていないってことじゃない? あたしは結局のところお客さんでしかなったって、そういうことでしょ?」

 ただ単に押しつけられた人間の小娘など、本当は縁を切ってしまいたかったのではないだろうか。 
 なら、これが1番いいことなのよ。
 あの子が誰かは知らないけれど、ここにいれば働くこともなく楽しく暮らしていける。
 義兄も人間界にいなくてはいけない理由がなくなる。
 執事も、義兄が傷つくことを心配しなくて済む。
 みんな幸せになれる方法がここにあるんだもの、選ばないわけがないじゃない。


「……勝手にわかった気になってんじゃないわよ」

 ぼそりと呟かれた声は誰のものだったか。
 ルチナリスがその声の主を探すより前に、スノウ=ベルは腕を組んだ仁王立ちのような姿勢で彼女の鼻先に飛び上がった。

「そんなのあったりまえでしょ? グラウス様は執事、ルチナリス様は義妹《いもうと》! 青藍様は ”お兄ちゃん” がやってみたいんだから、ルチナリス様はそれだけで価値があるの! 自分より小さいのに格好《カッコ》つけたいお年頃なの!
 それに、……………………むしろグラウス様にあんなベタベタ抱きついたら引く。キショ《気色悪》いわ」

 最後のほう、かなり毒が入っていたように聞こえましたが。汽車から捨てられそうになったこと、根に持っていませんか?
 ケッ、という声が聞こえてきそうな顔の精霊の敬語を吹っ飛ばした発言に、ルチナリスは返す言葉もない。





「邪魔しないでくれる?」

 精霊の登場ですっかり忘れ去られていた少女が、叫び声と共に腕を閃《ひらめ》かせる。
 その動きに連動するように、ルチナリスのほうを向いていたスノウ=ベルの背に向かって蔓が弓なりにしなった。
 振り払うように飛んできた瞬間、ルチナリスは精霊の体を両手で掴み、真横に飛び退いた。

 とは言え、冒険ものの主人公のように格好《カッコ》よくはいかない。避《よ》けた拍子に足首が変なほうに曲がった。おっとっと、と酔っ払いのように数歩よろめく。尻餅をつくことだけは回避したものの、最終的な着地ポーズはガニ股だ。かわいい女の子からは程遠い。
 でも!
 そんなことを言っている場合ではないし、見知らぬ女の子に見られたくらい無視しよう。旅の恥はかき捨てって言うじゃない!

 扉が開かないのなら、他から逃げる!
 素早く左右を見回したが、だが、部屋の中に他の扉はない。
 あるのは――。

 ルチナリスは窓辺に駆け寄った。
 遠くに白い欄干の橋が見える。が、店の窓から見た光景と感じが違う。
 この見え方は……1階からの眺めではない。

「何処《どこ》へ逃げたって無駄よ。ここはあなたの心の中。疑り深くて他人を羨《うらや》むばかりの心が作り出した闇」

 カサカサと蔓がルチナリスの足元に伸びてくる。
 見れば床も壁も緑色の蔓に覆われようとしている。
 その蔓の中から、少女の声だけが聞こえてくる。

「その卑屈な自尊心《プライド》を守るための壁が現実世界との距離になる。ほら、とんでもなく遠いわ」

 蔓の中からゆっくりと少女が姿を現す。
 いや、少女、ではない。

「誰も助けになんか来ない。王子様が窓を割って助けに来てくれるようなお姫様になどなれないことくらい、自分が1番よくわかっていることでしょ?」

 現れたのはルチナリスと同じ顔。

「……あたし?」

 どういうこと?
 あの少女はどうしてあたし《ルチナリス》と同じ顔をしているの?

 ううん。その答えはもう出ている。



 ルチナリスはスノウ=ベルをポケットにねじ込むと、かたわらの椅子に手をかけた。

 この世界があたしの心の闇からできているのなら。
 あたしの卑屈な心から来ているのなら。

「王子様を待つような女じゃないことくらい、あたしだってわかってるわよ!」

 自分に打ち勝つ、なんて恰好《カッコ》いい言葉で飾る必要なんてない。
 あたしはあたし。それ以上にもそれ以下にもなれない。
 義兄があたしをどう思っているかなんて知らない。引導を渡されたわけじゃないんだもの。勝手に想像して悪く思う必要なんてない。

「だからっ! 助けなんか待たない!
 今は、ひとりでバリバリやっていくのが流行《はや》りなんだからぁぁっ!!」

 卑屈なあたしも本当のあたし。
 義兄はきっと、そんなあたしもちゃんと見てくれている。今更飾る必要なんてないくらいに。


 ルチナリスは椅子の背を両手で持ち上げると、勢いをつけて窓に叩きつけた。