20-4 それぞれの想い




 ところ変わって人間界。

 その森は鬱蒼《うっそう》として暗かった。
 針葉樹は寒い季節でも葉を落とすことがない。それが生《お》い茂っているこの森は、頭上にあるはずの太陽の光すら拒絶してしまっている。
 ささくれ立った幹と枝から垂れさがる蔓《つる》。
 ホウホウと何処《どこ》からともなく聞こえて来る梟《ふくろう》の鳴き声。
 苔に覆われた足下は湿気を帯び、足を踏み出す度《たび》に靴底でグチュル、と滑《ぬめ》った音がする。

 この光景は何処《どこ》かで見たことがある。何処《どこ》か。何処《どこ》だったろう。ルチナリスは考える。
 ミバ村周辺の森だっただろうか。
 狩られて連れて行かれる道中で見たのだろうか。
 義兄《あに》と共にノイシュタインへ来る途中に通った森だろうか。
 先日、グラストニアでレコォドを聞かせてもらった時に頭に浮かんだ映像《ヴィジョン》といい、「何処《どこ》かで見た」と思うものが多すぎる。

 そんなことを考えながら歩いているからだろうか。地面から浮き出た木の根に何度も足を取られてしまう。



 一度はやめようと思った魔界行きだが、執事《グラウス》にも師匠《アンリ》にも知られることなく、ルチナリスは再び合流して此処《ここ》にいる。
 置手紙を回収してしまったミルの機転に因《よ》るものだが、彼女は何故《なぜ》執事《グラウス》たちに手紙を見せなかったのだろう。
 自分《ルチナリス》が心変わりをすると信じていたのか。
 今となっては感謝しかないが、ミルの行動には疑問を抱かずにいられない部分も多い。


 執事《グラウス》も師匠《アンリ》も、何の力もないあたし《ルチナリス》を魔界にまで連れて行くことに本音では賛成などしていなかった。ロンダヴェルグで何の力も手にできなかった折《おり》には連れて行かない、という約束だった。
 それを覆《くつが》して此処《ここ》まで連れて来てくれたのは、義兄《あに》にひと目合わせてやりたいという同情などではなく、結界が壊れたロンダヴェルグに残して行くことのメリットが見いだせなかったからでしかない。
 長く結界によって守られて来たロンダヴェルグの人々は魔族に襲われることへの対応ができない。戦うことも聖騎士団や警護兵に任せっきりにしていた節もある。だからこそ、結界が失われた今、魔族からしてみれば美味《おい》しい狩場のひとつに成り下がってしまった。そんな場所に残して行くくらいなら連れて歩いたほうが守れる、とそう思ったのかもしれない。

 そしてそれはグラストニアも同じこと。
 再三、魔族に襲われたあの町は今や狩場としての旨味は皆無に近いが、それでも決して安全な場所ではない。劇場主が本当にあたしの祖父だったとしても、眠る場所が確保できるだけで魔族に対する脅威は変わらないし、きっと執事《グラウス》たちはあたしをあの町に残して行こうとは思わないだろう。

 ノイシュタインも襲われ、周辺の町もどうなっているのかわからず。
 あたしが魔界に行かないと言い出して、もし安全な場所まで送り届けるなんてことになった日には、彼らの魔界入りはさらに遅れてしまう。
 だからミルはあたしが魔界行きをやめようとしたことを隠したのだろうか。
 
 ルチナリスは前を行くミルの背に目を向ける。
 道とも言えない獣道に迫《せ》り出している枝葉を剣で払いながら師匠《アンリ》と何やら話している。


 護衛だから、という理由で此処《ここ》まで付いて来た彼女だが、その理由もどうだろう。「未来の聖女になるかもしれない娘をロンダヴェルグにいる間、護衛する」のなら、司教《ティルファ》から指示されたことでもあるし身を挺《てい》して守ろうとするのもわからなくはない。
 しかしあたしは聖女にはなれなかった。なることを諦めた。なのに付いて来ている。

 数時間前に偶然、あたしは大地の精霊の加護を受けた。だからもしかしたら聖女らしき力が出せるようになっているのかもしれない。しかしそれは今まで――あたしが加護を受ける前まで――ミルが付いて来ていた理由にはならない。
 実は予知能力の持ち主で、あたしが大地の加護を受けることを知ってたのなら、その行動もわからなくはないが。

 そレにもうひとつ。
 劇場主が住んでいると言われた崖の上の家に行った時もミルはひとりで現れた。
 もしあのような危険が待ち構えていることを知っていたのなら執事《グラウス》たちに手紙を見せ、共に連れて来ただろう。だとすれば知らなかったか、自分ひとりで十分だと思ったか……見た目にそぐわずあまり深く考えたりはしない性質《たち》のようだから、自称・大地の精霊なアレもいることだしどうにかなると思ったのかもしれない。


 アレ。
 ルチナリスは溜息を吐いた。
 「闇を打ち消すビーム」などというチート技を繰り出してくれたあの陶製の人形《大地の精霊メイシア様》は此処《ここ》にはいない。




「一緒に来ないぃぃぃいい!?」

 加護をくれるというから守護霊の如《ごと》く守ってくれるのかと思いきや、あの人形は平然と「魔界には行かない」と言い放った。
 両手で鷲掴みにした人形に食って掛かるあたしを皆がどう思ったのかは考えたくないが、口を挟むことなく遠巻きに見守られたことからして関わり合いになるのはやめよう、と思っていたであろうことは間違いない。

 だがしかし、見た目《ビジュアル》はともかく精霊だ。それも四大精霊という、精霊の中でもかなり偉く、また強い。執事《グラウス》がトトを手に入れた今、精霊としての必要性は格段に薄れるが、なんせ「闇を葬り去るビーム」なんてものを放つのだから一緒に来てくれれば心強いことこの上ない。

 闇と魔族は別物だが、これから向かう城はその「闇」に侵《おか》されている。少なくとも義兄《あに》はそうだし、紅竜や犀《さい》、そして彼《か》の城にいるであろうアイリスもどうなっているかわからない。
 でもその闇を葬り去ることができれば義兄《あに》は元に戻る。
 失われた記憶が戻るとまでは言えないけれど無差別に襲い掛かってくることはないだろうし、執事《グラウス》が望むように人間界に連れて来ることだって可能になる。
 少なくとも話をすることはできる。通じる。聞く耳はある。

 ノイシュタインでの記憶を失った義兄《あに》は、もしかしたら魔界にいたほうが幸せかもしれない。
 欺瞞《ぎまん》だと嗤《わら》われてしまうだろうけれど、寿命の長い魔族が人間に混じって暮らす苦労は執事《グラウス》の家族を見てわかっているつもりだから、あたしは絶対に人間界に、とは言えない。義兄《あに》の最善を見極めに行くだけになるかもしれない。

 なのにあのクソ人形、いや大地の精霊メイシア様は「行かない」と。

 ああ、今思い出しても腹が立つ!
 空気読みなさいよ! ずっと見守り続けて、加護まで与える気になった娘が魔界であっさり死んでしまったら残念でしょ!? と言うか、あたしたちが全滅したら話が終わっちゃうし、気をよくした魔族が大挙して押し寄せて来るかも知れないし、そうしたら精霊だって困るんじゃないの!?
 |義兄《あに》と義妹《いもうと》の感動的な再会を助けようとは思わないの!?
 見たくはないの!?
 それに今ならレギュラー入りよ!? 勇者様はレギュラー入りするために魔王側に混ざろうとしたわよ!?
 ……なんてことまで訴えてはみたものの、全く心を動かす様子もなく。
 あれだ、所詮《しょせん》陶器の人形に心なんてなかったのよ。とひとり寂しく涙を(一昔前の少女漫画のように)横っ飛びに飛ばした頃に口を挟んで来た師匠《アンリ》が言うには、精霊というものは人間にも魔族にもそう関心がなく、水の精霊ウォーティス様という加護を授けて回るのが趣味のお人がいるせいで「精霊は人間の味方で、祝福の加護を授けてくれる」という通説が一般化してしまっているだけで、本来は加護ですら気が向いたらする、と言う程度なのだとか。


「人類を怪獣から守るために遥か彼方の星からやって来ては3分間だけ戦って帰っていく宇宙人並の好意を期待するではない!」

 なんてあのクソ人形《メイシア様》は偉そうに言い捨てて行ったけれど、あたしは宇宙人とやらに知り合いなどいないので何のことを指しているのかさっぱりだったことは黙っておく。



 まぁ、どれだけ強力であろうと部外者であることは間違いないわけだし、誰も彼もが仲間に加わって来るはずもないし、少し前まで部外者のミルを魔界行きに巻き込むのは云々《うんぬん》と言っていた自分にそのことについて文句を言う権利もない。
 友好度が基準を超えていたら仲間になっていたかもしれないけれど、遊戯《ゲーム》のように仲間が増えまくってパーティを組むのにも一苦労、なんてことは、現実ではそうそう起こりえないもの。
 グラストニアの先まで、という契約で運んでくれたカリンとウィンデルダも|然《しか》り。

 別れは寂しいけれどこれが現実。
 この空の下の何処《どこ》かで生きていてくれるのだから、それでいい。
 そう、思わなければ。




 そしてメイシアのことだけにとどまらない。
 疑問もまだ山積している。例えば、あの劇場主は最後「足止めは無理だった」と言った。外に出た後で振り返った時には、建物は住めそうにないほどの廃墟と化していた。
 それはつまりあの劇場主自体が偽物か幻か、まぁとにかくそういうもので……あたしをか、あたしたちをかはわからないけれど魔界に行かせないために現れたということになる。
 義兄《あに》を連れ去られたまま泣き寝入りするなどあり得ない。必ず行動に出るはずだ、とはあちらさん《本家》側も承知しているだろうけれど、今のあたしたちが何処《どこ》にいるのかまで筒抜けになっているのは|解《げ》せない。監視している者がいて逐一《ちくいち》報告を入れているのか? それとも、この中に内通者が?

 ルチナリスはもう1度ミルの背に目を向ける。
 彼女が枝葉を払っているのは間違いなくあたし《ルチナリス》が歩きやすくするためだろう。師匠《アンリ》は彼女の隣にいるから恩恵は受けないし、最後尾にいる執事《グラウス》は背の高さからして彼女が払う位置にある枝葉の影響などほとんど受けない。
 彼女はどんな時もあたしのために動いている。しかしそれは百合フラグが立っているせいではない。絶対にない。「恋愛に疎《うと》いポワポワ系天然あざとい主人公だから気が付かないの♡」なんて言った日には、自分で自分の首を締めたくなる。
 だったら何故《なぜ》。

 執事《グラウス》が魔界に行くのは義兄《あに》を連れ戻すためで、だから彼は言うまでもなく本家の敵だ。
 師匠《アンリ》が魔界にいくのは勇者の見張り……というのは口から出たでまかせで、本当は前当主との約束で義兄《あに》を当主に据えるかどうかを見極めるためであるらしい。こちらもやはり紅竜からしてみれば敵になる。 
 ならばミルは?
 もし彼女が内通者なのだとしたら、怪しい言動も真実を隠すための嘘だと言える。嘘は重なれば綻《ほころ》びが出て来るもの。それが不自然さとなって表れているのだとも言える。

 しかし置手紙を隠したり、劇場主の邪魔をしたりと、どちらかと言えば彼女はあたし《ルチナリス》に魔界に行ってほしいようにも見える。
 少なくとも劇場主の邪魔をしなければあたしは数時間か数日か数ヵ月かもしくはそれ以上の時間をあの空間で過ごすことになったはずだし、そのことをそれとなく匂わせれば執事《グラウス》と師匠《アンリ》もあたしを放置したまま出立することはないだろうから、結果的に魔界入りを遅らせることもできた。
 それに邪魔するつもりなら、間違ってもあのクソ人形《大地の精霊メイシア様》を連れて来たりはしない。
 カリンやウィンデルダが内通していた可能性もないわけではないが、もしそうなら途中で帰ったりせず、魔界まで有無を言わさず付いて来るはずだ。
 カリンはミルとも親しいし、強引だし、口が上手い。
 ウィンデルダは足代わりとして役立つ。
 彼女らが我を通せば、執事たちも付いて来るなとは言えないに違いない。
 だったら――。


「あったぞ目印」

 先頭を行く師匠《アンリ》の声に、ルチナリスは顔を上げた。
 広場のように開けた此処《ここ》で行き止まり。針葉樹に囲まれていて暗いのは今までと変わらないが、その木々に埋もれるようにして朽《く》ちかけた小屋が立っている。板を打ちつけた窓や曲がった煙突が、その小屋がずっと長い間使われていなかったことを物語っている。

 これは。

 ルチナリスは息を呑んだ。
 そうだ。何処《どこ》かで見たことがあると思ったら。
 これは、勇者やアイリスたちと共に彷徨《さまよ》った夢の中で出てきた森。赤いフード付きマントを着た少女を追いかけて辿り着いた小屋だ。あの傾いた扉を開けて金髪の猟師と魔女のような老婆が出てきて、そして狼は……。
 ルチナリスは背後を振り返る。
 最後尾にいた執事《グラウス》は小屋のほうに気を取られているのか、ルチナリスが見上げたことに気付いた様子はない。


 あの旅で赤いフード付きマントの彼女《義兄》を連れて去って行った狼《執事》は、現実世界ではその彼女《義兄》を猟師《紅竜》に奪われてしまった。
 狼《執事》はそれを追いかけて連れ戻そうとしているが、それで本当にいいのだろうか。彼女はもう、狼を覚えはいないと言うのに。

 司教《ティルファ》を踏みつけて冷淡に笑った義兄《あに》を思い出す。
 執事はあの義兄《あに》を知らないから、行けばどうにかなると思っている。
 義兄《あに》との絆を未《いま》だに信じている。
 執事が玉砕するだけならどうでもいい……とは言わないけれど、甘い考えは命にかかわる。
 

「あの、グラウス様」
「どうかしましたか?」

 ルチナリスの声に、紋章の刻まれた短剣を懐から取り出していた執事《グラウス》が不思議そうな顔を向ける。
 その剣は彼の母から義兄《あに》を連れ返して来いと託された、精霊を宿す鍵。

「あ、いえ……何も」

 言えない。
 ロンダヴェルグで義兄《あに》に会ったなんて。
 性格すら変わり果てて、挙句《あげく》、あたしを殺そうとしたって。

 言えないけれど。
 もし魔界に行ってそんな変わり果てた義兄《あに》を前にして……それでもこの男は連れ戻そうと思うのだろうか。



「……青藍様はお元気でしたか?」

 その問いかけにルチナリスは顔を上げた。
 短剣を手にしたまま、グラウスは黙ってこちらを見ている。

「……何故《なぜ》、それを……?」
「ミルに聞きました。司教を殺そうとした悪魔をあなたが庇《かば》ったと。長い、黒い髪をしていた、と」


 くく、と鳥が鳴く声が聞こえたような気がした。

 壊れた結晶と千切れた管《チューブ》。窓辺に並ぶ紅い目をした鳩の群れ。
 風に黒い髪が舞い上がる。
 あたしの目の前に現れたその人は。……その、ひと……は。

「あたし、青藍様がわからないんです。ずっと一緒にいたのに……あんな目で……それが闇に染まってしまったせいだって心ではわかっているのに、なのに……!」

 堰《せき》を切ったようにルチナリスの口から言葉が飛び出した。

 今、義兄《あに》が幸せなのか。それが知りたい。
 義兄《あに》に取りついている闇を払いたい。
 あの優しかった義兄《あに》に――あたしのことは覚えていないかもしれないけれどそれでも――会いたい。
 けれど。
 ロンダヴェルグの一件以降、ずっと疑問が浮かんでは消えて、潰しては現れて。

 勇者が言うように義兄《あに》はもう自分たちが来ることなど望んではいないのかもしれない。
 ノイシュタインでの義兄《あに》はあたしや城下町の人々用に作った偽りの顔でしかなくて、ロンダヴェルグでの姿が本当の義兄《あに》なのかもしれない。
 行ったところで義兄《あに》に殺されてしまうだけかもしれない。
 それでも、行くの?
 行く価値はあるの?
 命を賭ける必要は、あるの?

「青藍様を連れ戻すって、本当にそれでいいんでしょうか。青藍様はそんなこと望んでないかもしれない。全然覚えてないどころか、あんな、あたしまで殺そうと……す、」

 そう訴え続けるルチナリスの頭にぽふ、と手が乗せられた。
 撫でるわけでもなくただ、其処《そこ》に。


「10年前、魔王としての青藍様を見た時に、あまりの変わりように驚きました。私にとってのあの人はずっと姫でしたから」

 執事が微笑《ほほえ》んでいる。

「でも、あの魔王も確かに青藍様でした。気性の荒いところばかりが目立ちますが、ふとした時に生来のあの人が顔を出す。私は魔王の時の青藍様もお慕いしています。どれだけ変わってもあの人の本質は変わらない。どれだけ闇に染まってしまっても、その闇も含めて私の青藍様です」



『――その人の本質を見るようになさい』


 昔、神父が言った言葉を思い出す。
 その言葉を義兄《あに》にも言った。外見ではなくその人そのものを。どんなに悪い仲間がいてもその人も悪いとは限らない、と。
 あの時、あたしは義兄《あに》を信じようと思った。今でも義兄《あに》を疑う度《たび》に信じようと思い直す。
 町長の家を出る時に。
 執事の実家を訪れた後で。
 ロンダヴェルグで束の間の平和に浸っている間。
 変わり果てた義兄《あに》に再会してから。
 グラストニアでの食事中。
 劇場主の家から逃げ出して。

 その間、繰り返し、繰り返し。自分でも嫌になるくらい「これでいいのか」と逡巡し続ける。
 ミルはそうして悩んで結果を出すのがいいと言ったけれど、出した後ですぐその結果をくしゃくしゃに握り込んで練り直して、それがいいはずがない。
 

「あの人は司教にとどめを刺すことなく立ち去った。それはあなたが止めたからだと私は思っています。
 どれだけ変わってしまったように見えても、全てを忘れているように思っても、あの人の中には青藍様がいる。押し付けられた幼子を放り出すことなく10年も面倒を見てしまうような……そういう人ですあの人は」

 頭に乗せられた手がゆっくりと動く。
 宥《なだ》める時の義兄《あに》の手に、とてもよく似ている。

「しかしあなたを危険な目に合わせては青藍様に顔向けできません。いくら大地の加護を受けたとは言え、どの程度の魔力が発揮できるのかもわかりませんし、何よりそれはまだ”聖女の力”ではない。魔族を浄化することができるとは私は思っていません。
 ロンダヴェルグも安全とは言えなくなってしまいましたが、司教が生きているのならいずれ結界も復活します。カリンたちにはロンダヴェルグへメイシア様をお送りした後、1度この森の入口にまで戻って来てもらうように頼みました。もし行きたくないのなら此処《ここ》に残って下さい。明日か明後日には彼女らと合流できるでしょう」


 ああ。
 執事は全てわかっていたのか。あたしの葛藤も。義兄《あに》の現状も。
 それでも、行くのか。




 執事にとってはどれだけ変わっても義兄《あに》。
 義兄《あに》が体調を崩していくのをずっと傍《そば》で見ているしかなくて、そして最後には自分を忘れてしまった|義兄《あに》を目の当たりにして、きっと「あなたは誰?」的なことを言われただろうのに、それでも執事は義兄《あに》を追う。
 忘れてしまったのなら、また新たに思い出を作って行けばいいと言う。

「どうしてそこまで……」

 何故《なぜ》そこまで達観したものの考え方ができるのだろう。
 今から会おうとしているのは義兄《あに》の形をした別人でしかないのに。自分のことなど欠片《かけら》も覚えていないのに。

「アドレイが言いました。青藍様が魔界に行くことを少しでもあの人のためにならないと思うのなら連れ戻してくれ、と。私が知らないあの兄弟の会話を何年も聞いていた彼女ですらそう言い残すのですから、青藍様を紅竜様の傍《そば》に置いておきたくない、というのは私のエゴと狭い料簡《りょうけん》のせいばかりではないのでしょう。
 それにあの闇とやらも気になります。青藍様が私の中にあった闇を吸い取ってしまったこともそうですが……海の魔女が使って来たあの黒い蔓と同じものを紅竜様が使っていたところからして、彼も闇に呑まれています。そんなところに大事な人を置いてはおけません」
「だけどな。紅竜が本当に闇に呑まれてんなら、やはり当主据えておくわけにゃいかねぇ。青藍をもう1度人間界に出すつもりはねぇからな」

 話を聞いていたのであろう師匠《アンリ》が仏頂面のまま口を挟んで来る。その師匠《アンリ》を執事《グラウス》は一瞥《いちべつ》した。

「そう仰いますが、闇に呑まれているのは青藍様も同じです。あなたがたには紅竜様をあげますからそれでいいじゃないですか」
「軽く言うな。どちらにせよ青藍は本家から出さねぇって俺はお館様から、」


 あげるあげないの問題ではない。と言うか、喧嘩しないで譲り合いましょうねお兄ちゃんなんだから、みたいなことを言わないでほしいのだが。
 このふたりは最初から一触即発状態だったし魔界に行く目的も違うから、何かにつけて張り合うのはわからなくもないけれど……それなりに功績は残しているだろうのに欲しがってもらえない紅竜様という人が敵ながら気の毒になってくる。
 そしてそんな言い争いをどう思ったのか、

「此処《ここ》で言い争っていてもどうしようもないんじゃないのか? とりあえず魔界に行って真相を確かめないことには」

 と、ミルも呆れたように呟いた。
 取りなしているのだろうが、それよりも魔界行きを進めたがっているように聞こえるのはあたしの穿《うが》った見方によるものだろうか。


「あとルチナリスのことだが、カリンと合流しろと言うがこの森は2日ほどひとりでいても安全なのか? 魔界の入口はそれなのだろう?」

 彼女がさらに怪訝《けげん》な顔で指し示したのは目の前の崩れかけた小屋。
 そう。自分たちが此処《ここ》から魔界入りするように、魔界側からも出て来るとすれば此処《ここ》からだ。
 執事は此処《ここ》で待っていればいいと言うが、あたしがひとりで待っている間、魔族が誰ひとりとして出てこない確率は0ではない。
 この場所と森の入口は徒歩で3時間程度。もし入口にいたとしてもカリンと合流する前に捕まってしまうことは間違いないだろう。


「思うにルチナリスがそこまでウダウダと考え続けるのは自分に自信がないからではないか? 力がないから足手まといになる。皆の邪魔になる。運よく義兄《あに》に会えたところで元に戻す方法などわからない。だったら人間界に残ったほうがいいのではないか、と、そう思うのだろう?」
「うっ」

 今になってまた魔界行きを渋りだしたあたしには流石《さすが》に愛想が尽きたのだろうか。少し前に「いろいろと考えて結論を出すのは嫌いじゃない」と言ってくれた人からそう言われると、ダメージが倍になるようだ。
 ええそうよ。才能のある人たちにはわからないでしょうけれど、あたしは……! と逆ギレのように言ったところで悲しいだけなので言わないが。


「でもよ、あの人形から大地の力は貰ったんだろ? だったら何かできるだろう?」
「何かって何を」
「大地の力だから……枯れ木に花を咲かせるとか」


 何だか雲行きが怪しくなってきた。
 師匠《アンリ》の言葉に執事《グラウス》とミルの視線があたしに向く。

「そうですね。敵地に入る前に自分の力を確認しておくのは悪いことではありません」
「そうだな。天使の涙もあることだし、最初でも多少はそれらしいものが出せるかもしれない」

 ああ!
 この目は「何かやってみせろ」と言っている目だ。「できるんですか?」と「お前ならやれるはずだ」と、視線に込められた意味合いは全く違うけれど、とにかく痛いことに変わりはない。

「え? だ、だって此処《ここ》で!?」
「今、町中で魔法など使ったら魔女扱いされて火あぶりになりますよ?」
「ロンダヴェルグが襲われたばかりだしな。今は誰も彼もが悪魔ではないかと目を光らせている。まるで一昔前に戻ったみたいだ」

「ほら、そこのクルクル巻いてる草。それ、シダだろう?」

 そして妥協案のように指し示されたのは1本の杉の根元から伸びているゼンマイのような草。似たような山菜を見たことがあるが、これが食べられるかどうかは知らない。「食べてみろ」ではなく「成長させてみろ」だからいいようなものの。

「え、ええっと」
「小《ち》っせえが葉の原形はできてっから花咲かせるより楽だぞ」
「いや、えーと……」

 花を咲かせるより楽、って逆にできなかった時のプレッシャーになるんですけれどぉぉぉぉぉおお!!
 言いたい。言いたいけれど三者三様の期待に満ちた目が、とても辞退などできない状況を作り上げている。

 どうしたらいいと言うのだ。
 何度も言いたくはないが生まれてこの方16年、魔法なんてものは使ったこともない。ロンダヴェルグで暗記した呪文群の中には、花を咲かせる呪文もシダを成長させる呪文もなかった。いや、もしかしたらあったのかもしれないけれど、炎とか氷とか、そういう攻撃魔法ばかりが目に付いて――。


『――作ればいいじゃない、呪文。だってその理屈ならどんな言葉でもいいんでしょ? 集中できれば』


 勇者の声がよみがえる。
 そうだ。元々聖女の力だって呪文なんてなかった。必要なのは呪文じゃない。集中。
 ルチナリスはシダに向かって両手を差し出し、睨みつける。心の中で……あれ? 「咲け」じゃないわよね。なんて言えばいいのだろう。




 その状態で何分ほど経《た》っただろうか。

「……何も起きねぇな」

 森の奥深くで1本のシダを囲む4人。なんてシュールな光景だろう。

「まぁ……成長させるのは大地というよりも回復や治癒《ちゆ》の系統なのかもしれません」

 いつも小言の雨を降らせるばかりで嫌味な男だと思っていた執事《グラウス》が、気の毒そうな顔でフォローしてくるから余計に辛《つら》い。

「ほら、もっと純粋に土の魔法ならどうにかなるって!」

 花を咲かせろだのシダをどうにかしろだのと言った責任を感じたのか、師匠《アンリ》までもがそんなことを言ってくるけれど……。

「ゴーレムとか、土の壁をボコッと出すやつとかどうだ!?」


 嗚呼《ああ》!!
 できることならもうおしまいにしてさっさと魔界に行ってしまいたい!

 ルチナリスは取り囲む3人を窺《うかが》う。
 駄目だ。このままでは何かしらの成果を出すまで動きそうにない。
 あたしが悩んだばっかりに! あああああ、馬鹿馬鹿! 過去のあたしーー!!!!




「まぁ、道を繋《つな》げるまでは練習していて下さい」
「え? ちょ、ま、」

 それからさらに10分。
 全く成果の出せないあたし《ルチナリス》をただ眺めているのにも飽きたのか、執事《グラウス》が再び懐から短剣を取り出した。何時《いつ》まで待っても埒《らち》が明かないから先に魔界への道を開くことにしたのだろう……が見限られたようで焦る。

 どうしよう。まだ何も力を出していないのに。
 どうしよう。まだ迷っているのに。
 どうしよう。もし先に道のほうが開いてしまったら。

 だがそうして気ばかり焦る中で、魔界への道を開く儀式が気になるのも確かなことで。

 スノウ=ベルのようにあの短剣そのものが変化するのだろうか。
 それともアドレイのように宿っている器《短剣》は残るのだろうか。
 どうでもいいことだが気になる。それは多分に成果が出せない自分に自分が1番飽きてきているからで、そうやって他ごとに気を取られているから余計に成果が出ないという悪循環の一端にもなっているのだが。

 ルチナリスはシダに手をかざしつつ、チラチラと執事《グラウス》を|窺《うかが》い見る。



「――そろそろ起きて下さい」

 執事《グラウス》がそう呼びかけると短剣の輪郭が光った。
 その光は徐々に強くなり、短剣の形を覆い隠していく。光の玉のようになり、ぐにゃりと形を変え。

 そして光が消えた時、そこには掌《てのひら》サイズの精霊がだらしなく寝こけていた。
 大きな帽子とベストにブーツ。民族衣装っぽいのがいかにも精霊感満載ではあるけれど、何故《なぜ》皆こんなにも大きな帽子を被《かぶ》っているのだろう。あの中にアンテナでも仕込んでいるのか?
 ルチナリスは初めて見る「トト」を食い入るように見つめる。手も口も頭の中までおろそかになってしまっているが仕方ない。
 ライン精霊と言うからてっきり少女型だと思っていたが、男の子だったとは。そう言えば昔スノウ=ベルがライン精霊にもいろいろ――妖艶なマダム仕様から郷愁を誘う田舎のお母様仕様まで――あると言っていたけれど。


「起きて下さい、トト。仕事です」

 そうしている間にも、|執事《グラウス》は溜息交じりに指先でトトを突《つつ》いている。くすぐったいのか体を丸めて笑っているが、起きる様子は全くない。

「やっぱり起きませんねぇ」
「やっぱり?」
「実家にいる頃からなかなか目覚めなくて、通信手段としては役に立たなかったそうなんです」


 まさか、そのせいで返却することになったのではないのだろうか。
 隔《へだ》ての森を通る鍵は精霊、もしくは精霊の力を封じた紋章、ということだから、寝ていようが起きていようがそんなに問題はないと思うのだが、粗悪品を掴《つか》まされた気にならなくもない。


「眠ってたって道は通れるだろう? ”精霊の力”があればいいんだし」
「理屈はそうなんですが。どうも精霊そのものを鍵にする時は、精霊が起きてしっかりと目的地を思い描いていなければ、とんでもないところに繋《つな》がってしまうらしいんです。夢で見ていた場所、とか」
「夢……は見てそうだなこいつ」

 寝ながら苦悶の表情を浮かべているわけではないので、もし変なところに飛ばされたとしても命の危険はなさそうだが、余分な時間がかかることは間違いない。
 執事《グラウス》としてはダイレクトに本家に行きたいところだろう。

「壊れてんじゃねーのか? こういうのは斜め45度で叩くと直るって言うぞ?」

 師匠《アンリ》が、おもむろにトトの襟首を摘み上げる。

まさか本当に斜め45度で叩くつもりですか!?
 あなたの腕力で叩きつけたらひとたまりもないじゃありませんか!
 いやー人殺し―じゃなかった精霊殺しー!

 シダに手をかざしたまま心の中で叫ぶあたしの目の前に、彼《アンリ》は寝こけている精霊をぶら下げた。

「嬢ちゃん《ルチナリス》、こいつ起こせ」

 あ、叩くわけじゃないのか。って、もしかして叩き役《汚れ役》をあたしに押し付けただけ!?
 あたしは今、シダを成長させるので精一杯なんです。そしてそれを言い出したのはあなたなんです。ねぇそうよね? まさか忘れたとか言わないわよね!? あー忙しい忙しい!
 今まで馬鹿面でことの成り行きを見守っていたことも忘れて、ルチナリスは慌ててシダに向き合う。だが、時既《すで》に遅し。

「昔っから寝てる奴《やつ》を目覚めさせるのは聖なる乙女の仕事だ。蛾《が》の幼虫に呼びかけてた美人双子姉妹とか聞いたことあるだろ?」
「ないわよ!」

 何だそれは。
 と言うか斜め45度はどうなったのよ! 聖女なら何でもできるとか思ってやしないでしょうね!? と言うかいくら聖女だって蛾《が》の幼虫に呼びかけやしないし、それはどういうシチュエーションよ!
 言いたい。
 言いたい。が。

「ああ、エリックから聞いたことがある。確か蛾《が》の名前を歌にして呼んだらしい」

 ミルさんまで知っている情報なんですか!?
 そしてまたしても奴《勇者》の迷言を引き合いに出してくるんですか!?

「そうだろ? ほら! 歌え!」

 行方不明なのにあたしに迷惑かけてくんじゃねぇ!
 此処《ここ》にいない勇者に向かって怨みつらみを投げつけたいが、そうしたところで何が変わるわけでもない。師匠《アンリ》はトトをぶら下げたまま迫ってくるし、ミルは期待に満ちた目を向けるばかりだし。

 何故《なぜ》だ。
 何故《なぜ》あたしばかりがこんな理不尽な目に遭わねばならないのだ。
 ルチナリスは拳《こぶし》を握る。この場に勇者がいたらボコボコになるまで殴りたい。奴《勇者》にとってはとんだとばっちりだけれども。


「ト、トト。起きてちょうだい」
「歌わねぇと起きないんじゃねぇか? 聖なる乙女」
「そう言えばその双子姉妹は南の島の出身で、布を巻き付けただけのような服を来ていたのだと言ってもいたな。まずは見た目から入ってみたらどうだろう」


 冗談ではない。
 この寒空に身ぐるみ剥がされた挙句《あげく》変なコスプレをさせられて歌わされるなんて罰ゲーム以外の何だというのだ!


「トト、起きてぇ」


 だが起きない。
 揺すっても叩いても起きない。


「トトぉ~」


 何故《なぜ》あたしが。
 何故《なぜ》あたしばかりが。


「頑張れ聖女。もう一押しだ」


 もう一押しも何も、全く進展してないわよ!

 ブチッ。
 とルチナリスの中で何かが切れた。


「さ……っさと起きろぉぉぉぉぉおおおおおおお!!」

 怒りのままにルチナリスは師匠《アンリ》からトトを奪い取り、近くの茂みに投げつけた。




「な、何しやがんだ!この暴力女ー!!」

 執事《グラウス》の手の上で精霊が怒り狂っている。流石《さすが》の精霊も投げつけられれば起きるものであるらしい。

 魔界へ行くための唯一の鍵で、しかもなおかつ高級品。
 執事《グラウス》と師匠《アンリ》は慌てて茂みを探し、数十分後、地面に顔を半分めり込ませた精霊を発見した。脱力してへたりこんだふたりを前に、勢い余ってマズいことをしたと青くなったが後の祭り。
 ただミルだけが「やはり聖なる乙女の力は凄いな」などと感心していて、何となく大団円になってしまいそうな空気が周囲に漂い始めた頃。



「あーーーー人間見っけーーーー!」

 何処《どこ》からともなくそんな声がした。
 あたしでも執事でも師匠でもミルさんでもない、第三者ならぬ第五者の声が。


 誰だ? と見回したあたしの視界に映ったのは、小屋の煙突から顔を覗かせているガーゴイルらしき異形の姿。
 入口は扉だが出口は煙突なのだろうか。あたしたちも帰って来る時はあそこから出なければならないのだろうか。いやその前にガーゴイル? ガーゴイルなら味方……いや、ちょっと違う。奴はガーゴイルではない。鎧を着ていて、武装していて。それで――。


「やべえ! 鉢合わせだ!」

 師匠《アンリ》はそう叫ぶとあたしを抱え込んだ。執事《グラウス》はトトを掴《つか》んで懐に押し込み、ミルは師匠《アンリ》が背負ってきた荷物を掻き集め。
 そして。

 「え?」とも「何?」とも言う間もなく……あたしたちは小屋に飛び込んだ。いや、飛び込まされた。




 メフィストフェレス本家の酒蔵は地下にある。
 地中をくり抜いて作った巨大な穴、と言ったほうがいいかもしれない。
 厨房から酒蔵や穀物庫に繋《つな》がる廊下は傾斜がきつく、上っていたかと思えば何時《いつ》の間にか下っているという塩梅《あんばい》で、歩いているうちに其処《そこ》が何階に相当するのかわからなくなってくる。
 土肌が剥《む》き出しになっているのだから地面を掘った穴なのだろう、地面を掘るということは地下なのだろう、と、そんな先入観から地下だと推測したに過ぎないが、そう思うことが既《すで》にこの城の術中にはまっているのかもしれない。

 壁に沿って設《しつら》えた棚にずらりと並ぶ酒瓶の首には、銘柄と年代が書かれたラベルがぶら下がっている。いちいち瓶を取り出して確認しなくてもいいのは助かるが、あまりの量に気が遠くなりそうだ。出入り口近いところにある棚から始めて、もうかなり進んだはずなのだが、酒瓶の壁の果ては見えない。
 柘榴《ざくろ》は手元のリストと照らし合わせながらひとつひとつ見て進む。
 これは明日の夕食に出す分だから、見つけ出すのが遅くなったところで精神的な影響は少ない。今日の残業が延びるだけのことだ。
 だが遅くなればこの酒を持って来るように指示した先輩執事にも迷惑がかかる。「ヴァンパイアのところの執事は酒ひとつ見つけるのにすら時間がかかる」と、まるで彼《か》の家の執事全ての出来が悪いように言われるわけにもいかない。なるべく早く見つけ出さなければ。
 それに。

 部屋の上部に小さく開けられた穴を見上げる。
 空気穴のつもりなのだろう。雨が直接入って来ないように細工してあるらしいその穴から外の景色を見ることはできないが、外の風は入って来る。
 少し湿気を帯びた風。此処《ここ》に来る途中に窓から見えた空は重い雲が垂れ込めていたけれど、とうとう降って来たのだろう。

 雨は夜を連れて来る。
 今日もアイリスのところに顔を出すのは無理なようだ。



 先日、犀《さい》から執事の業務をするように言われた。
 この城で執事の仕事を見て学ぶという名目でやって来たものの、仕事を与えられるわけでもなく放置され続けて1週間。半《なか》ば客人のように、と言えば聞こえはいいが立ち位置からして居心地が悪かったのも確かで。だから「彼について学びなさい」と先輩執事をひとり紹介された時は本気で有難く思ったものだ。


 その先輩もこの城に来てまだ3年ほどであるらしい。他の執事やメイドたちも10年続く者はほとんどおらず、古いのは犀《さい》と、当主の衣装を手掛けている仕立て屋くらいなのだそうだ。
 メフィストフェレスの城は使用人が長くもたない。小さな粗相《そそう》で文字どおり首が飛ぶ。という噂は本当だったのか、と考えさせられてしまう。

 そして勤続年数が短いが故《ゆえ》にこの家にまだそれほどの思い入れがないのだろう、彼らはお喋りで噂好きだ。人前ではそうでもないが他に聞き耳を立てている者がいないとわかるや否や、いろいろなことを話してくれる。
 ひとつ間違えればこの家のことを探っている、と自分《柘榴》に実害が及ぶ恐れはあるのだが、それ以上にアイリスが嫁ぐ家だ。自分が此処《ここ》を出る時までにグレーな部分は限りなく白くしておきたい。


 雑談に近いので仕事の愚痴を聞かされることのほうが多いのだが、得た情報も多くある。
 紅竜の婚儀の前後あたりで犀《さい》が家令になるかもしれないということ。
 ずっと不在だったこの家の家令は先代の当主と共に引っ込んで今や半引退状態なので、犀《さい》は執事長ながらほぼ家令扱いだとということ。
 前当主は離れにいると言われているが、実際には辺境の別宅にいるのではないかと言うこと。第一夫人、第三夫人もそちらにいるし、前当主自身、もう5年以上姿を見せていないのでこの城にはいないのではないかと思われていること。
 その離れに紅竜が入り浸っているということ。
 最近人間界から戻って来た青藍は、どうも離れにいるらしいということ。
 そしてアイリスが噛んだ鳩は未《いま》だ行方がわからないこと。
 

 酒瓶を取り出しながら、柘榴《ざくろ》は考え続ける。
 アイリスの前に顔を見せない紅竜が離れに入り浸っているというのは、やはり青藍絡みなのだろうか。弟には頻繁に会っているということなのだろうか。
 たったふたりきりの兄弟だし、婚礼の儀の準備など当主の仕事以外で手を取られることも多いだろうから、青藍が業務の一部を肩代わりをしている部分もあるのかもしれない。魔王役として10年人間界にいた間、仮初《かりそ》めとはいえその地の領主をしていたのだから、全くの初心者とも言い難《がた》い。

 しかし。
 アイリスに会う時間はないのに?

 いくら家同士の繋《つな》がりを重んじた結果の婚姻だとしても、蔑《ないがし》ろに扱っていれば彼《か》の家を軽んじていると言われてもおかしくない。
 世話役に犀《さい》をつけていると言ったところで本人が会いにも来ないのでは、噂から燃え広がった煙を消すことはできない。

 彼《か》の家からの使用人を自分《柘榴》以外全員排除したのは、そのような噂が流れ出ることを防ぐためだったのだろうか。
 かくいう自分《柘榴》もアイリスの日々の様子を知らせるためにこまめに手紙を送っているが、投函前に内容を確認されている可能性もないとは言えない。見る者が見れば日々のメニューからでもその家の財力を推《お》し量《はか》ることは可能だし、そこから内通の疑いがある、と勘繰《かんぐ》られることに繋《つな》がらないとも限らない。だから本当にどうでもいいことしか書けない。
 自分はともかく、アイリスが疑われるようなことだけはあってはならないのだ。


 こんな時、伯父ならどうするだろう。
 柘榴《ざくろ》は遥か昔に失踪した伯父を思い浮かべる。
 自分が本格的に執事を目指すより以前に失踪してしまった伯父は「一族に泥を塗った恥ずべき者」でしかなかった。だが、アイリスやルチナリスと共に歩んだ旅路で再会して以来、その生き様《ざま》は何かにつけて柘榴《ざくろ》の中に浮かび上がってくる。

 伯父はアイリスの姉・キャメリアを連れ、姿を消した。キャメリアは紅竜の許嫁《いいなずけ》だった。
 自分たちが悪く言われるだけでなく、主《あるじ》でもあるヴァンパイア一族にも迷惑がかかることはわかっていたはずだ。それでも連れて行ったのは、それがキャメリアのために最善だと思ったからだろう。
 |巷《ちまた》では駆け落ちしたのだろう、などと面白おかしく言われているが……


『――真実を追いかけておいで、柘榴《ざくろ》』


 ……伯父は、色恋で動くような人ではない。


 キャメリアのため。
 体調を崩していた彼女を静養させるためなら失踪する必要はなかった。
 紅竜と共にいれば最新の医術にもかかれる。衣食住の苦労をすることもない。昔からキャメリアのことを知っている紅竜はキャメリアの体調もわかっているはずだから無理を強《し》いることもないだろう。
 それでも、紅竜といることはよくないと思ったから引き離したのか?
 何故《なぜ》。


 ランタンの灯りが揺れる。
 吹き込む風はさらに湿気を帯びてきたようだ。空耳だとは思うが、雨音が聞こえる気がする。


 そして今、キャメリアのいた場所にアイリスが立とうとしている。
 自分はどうすればいいのだろう。伯父のようにはなりたくない、とずっとそう思って生きて来たけれど、祖父のような執事になることが最良だと思って今まできたけれど、本当にそれでいいのだろうか。執事としてそれは正解なのだろうか。
 今でも伯父がしたことは間違っていると思っている。
 アイリスが傾倒している「執事さん」も、執事としてはどうかと思う。
 犀《さい》の完璧故《ゆえ》の突き放した考えや所作《しょさ》も、人としてそれでいいのか、と考えさせられる箇所はある。

 ならば、自分は?


 柘榴《ざくろ》は引き抜いた酒瓶を抱え直すとランタンを手に取り、踵《きびす》を返した。



 
「あーあ、どうせなら執事さんが婿養子に来てくれればよかったのに」

 アイリスの突拍子もない呟きに、柘榴《ざくろ》は読んでいた本から顔を上げた。

 今日は休みを貰ったので久しぶりにアイリスに会いに来ている。
 自分がいない間、不自由しているかと思いきやそうでもなかったというのが不満だが、それだけ犀《さい》の配慮が行き届いている結果なのだろう。暫《しばら》く会えずじまいだったとは言え恋人同士でも何でもないので再会に溢れ出る感情があるわけもなく、お互いの近況を伝え合ったら話すこともなくなった……と言うわけで、同じ部屋の中でそれぞれ自分のことをしていた矢先のこと。

「ね、知ってる? うちとメフィストフェレスの間で交わされた決めごと」

 アイリスは長椅子《ソファ》の上でクッションを抱えたまま仰向けに寝転がっている。その体勢のまま柘榴《ざくろ》を見るさまは今まで通りのお転婆《てんば》な少女ではあるのだが。


 犀《さい》から何か言われたのだろうか。朝からずっとこの調子だ。
 ずっと塞《ふさ》ぎ込んで何やら考えているかと思えば、口を開けば「執事さん」。その「執事さん」には会ったこともないが、何時《いつ》までも聞かされるのは面白くない。

 紅竜には未《いま》だに放置されているらしい。だから夫を持つ自覚が足りないに違いない。
 結婚前に情緒不安定になるマリッジブルーという精神状態は世間一般に周知されつつあるが、それでも嫁入り前の娘が他の男のことばかり口にするのはどうだろう。それも結婚相手よりもその男のほうがよかった、だなんて紅竜の耳に入りでもしたらこの縁談自体が白紙に戻りかねないし、アイリス自身、噂されている「紅竜の機嫌を損ねると人知れず処分される」対象にされるおそれもある。
 家同士の付き合いが消えてから紅竜と個人的に会うことなどなかっただろうから、アイリスの中の紅竜像は昔の「優しかった義兄《あに》」から変わっていない。だから自分だけは何を言っても大丈夫だと、そう思っているに違いない。

「……お嬢様、あまりそのようなことを口にするのは、」
「最初の子はメフィストフェレスに、2番目の子はうちに。もう跡継ぎの話まで取り交わされてるのよ?」

 だが、アイリスの立場に立ってみれば愚痴りたくもなる気持ちもわからなくはない。柘榴《ざくろ》は諫《いさ》める台詞《セリフ》を途中で呑み込む。
 マリッジブルーが懸念される不安定な時期だが、同時に結婚生活への夢を見るのもこの時期。そんな時にやれ跡継ぎがどうのと言われれば気持ちも萎《な》えるというものだ。


「ですが貴族様としては家を残すのが大事なんですから、そう言われるのはしょうがないと割り切るしかないですよ」

 そしてヴァンパイアの家のことを思えば、彼らがアイリスが産むであろう子に期待するのもわかってしまう。
 彼《か》の家には直系の男子がいない。キャメリアと紅竜が幼少の頃から「いずれ番《つがい》になるだろう」と言われていたせいもあって、彼《か》の家でも「キャメリアは嫁に出す」「家を継ぐのはアイリス」という空気だった。
 キャメリアを失った今、アイリスまで出してしまえばあの家を継ぐ者がいなくなる。分家に男性がいないわけではないが、家長であるアイリスの祖母《大奥様》のお眼鏡には適《かな》っていないらしい。
 だから孫《アイリスの子》をひとり貰って継がせる、なんて話に発展したのだろう。2番目を、と言うあたりにメフィストフェレスへの遠慮が見られる。


「そう言うけどね。それじゃ私って何? 子供を産む機械なわけ? って思うじゃない?」
「それもお役目です」

 今更何を言い出すのか、とも思うが、それがマリッジブルーなのだろう。
 柘榴《ざくろ》はまたしても伯父を思い出す。
 あの世界でキャメリアは今のアイリスと同じことを口にしていた。そんな彼女を伯父は諌《いさ》めるでもなく、ただ聞いていた。下手に否定も肯定しないほうがいいことだってあるのかもしれない。


「だって執事さんって人狼族でしょ? 狼って1度に5、6匹の子供を産むのよ? ちょうどいいじゃない。跡取り大量で」


 産むのは「執事さん」じゃないんだから。
 と心の中だけでツッコミながら、柘榴《ざくろ》はウキウキと喋り続けるアイリスを一瞥《いちべつ》し、再び本に目を落とす。

「それに貴族の位も持ってるし」
「貴族と言っても下級だって聞いてますよ? それにウサギだって4羽くらいは産みます」
「何? 柘榴《ざくろ》が産んでくれるの?」

 最後のは「執事さん」ばかりのアイリスへの当てつけの意味もあったのだが、彼女はやけに目を輝かせると身を乗り出してきた。

「……はい?」

 まさか子供を産むためだけに自分《柘榴》とあれやこれやをしようとか思ったりしたのではないだろうな? そう思うと羞恥で頭に血が上りそうだ。
 子供を何人も産めと強要され、きっと男子でなければまたいろいろと言われるであろう苦痛を思えば、1度で、しかもかなりの確率で男も女も手に入るなんて楽……なんて思ったに違いない。きっとその前段階《夜の営み》は頭の片隅にもない。けれど。

「あの、」
「いいわねそれ! ほら、この間、性別が入れ替わっちゃったことがあったじゃない? あんな風に柘榴《ざくろ》が女の子になっちゃえばいいのよ」
「はあ!?」
「ダグ伯父様とかハインツ大兄様とか、適当にその辺見繕って子供産んでよ、柘榴《ざくろ》!」
「嫌です!!」

 ちょっと、いや、かなり違った。
 続けて投げつけられた台詞《セリフ》に、同情も何もかもが吹き飛んだ。


 性別が入れ替わった、とは、数か月前に発生した「1000年に1度現れると言われている怪現象」のことだ。何故《なぜ》そんなことが起きるのかは未《いま》だに解明されてはいない。先祖返りするのだという説もあるが、獣や魚ならともかく性別が入れ替わるのは違うだろう。
 それでもその数ヵ月前の惨事をいたくお気に召した方々もいたようで、以降、性転換薬なるものが非合法に出回っているらしい、という話も耳にした。寿命の長い魔族のこと、ふざけた余興でもなければ退屈なのかもしれない。

 しかし自分に降りかかってくるなら話は別だ。

「嫌ですよ。そんなの無理に決まってます。それにダグ様もハインツ様も未《いま》だにお子が出来ないのは、」
「……“子種がないからだ。”」

 アイリスは冷やかに呟くと、反動をつけるようにして身を起こした。投げ出されていた金髪がリボンと絡まってしまっているのを見て、柘榴《ざくろ》は反論しようとした口を噤む。

 長椅子《ソファ》に寝転んでいただけで此処《ここ》まで絡まることは少ない。傍目《はため》にはいつもどおりに見えるけれども、髪に気をつかうことができないくらい精神的に病んでいるのかもしれない。

 数ヵ月前までは子供だと思っていたのにいきなり結婚だの子供を産めだのと言われれば悩む。いくら家のためと口では言っても納得しかねることだってある。
 それでもアイリスはこの婚姻を文句も言わずに受け入れようとしているのだ。家のために。本音と建て前の板挟みになってしまっているのだ。
 だったら。自分《柘榴》に当たることで多少の憂《う》さが晴れるのなら、言わせておくのも執事の努《つと》め。せめて髪に気を配る余裕ができるくらいには。


「でもそれって近親婚を繰り返してきた結果だとも思わない? 古《いにしえ》の血だか貴《とうと》き血だか知らないけれど、たまには新しい血を入れなきゃ。ほら、近親婚を繰り返すと奇形が生まれやすいなんて噂も聞くでしょ? それと一緒よ」
「だから今回、お嬢様は紅竜様と、」
「紅竜様だって古《いにしえ》の血であることには変わりないわ。魔界貴族の大半は詰んでいるのよ」

 アイリスは柘榴《ざくろ》の鼻先に人差し指を突きつけた。

「そこで柘榴《ざくろ》! あなたが、」
「無理です。そんな、僕は男ですよ? なのに女体化して男性に嫁げとか子供を産めとか」


 心では寛容にしたいと思うのに、否定ばかりが口をつく。
 

「……嫁いだ先で愛情を深めていけばいいんじゃない? そう言ったわよねぇ」


 大事な主人として、いや幼馴染みとして、悩みがあるなら聞きたい。
 でも! 無茶は困る!


「私が紅竜様の子を産んだとして、せいぜい1回にひとりよ? ヴァンパイアの跡取りとメフィストフェレスの跡取りと、最低でもふたりは男を産まなゃいけないって、いいえ、今回みたいに子種云々のことも考えたら各家に男女ひとりずつは必要だとか言いだされかねないじゃない? 揃うまで何人産めって話よ。
 だったら柘榴《ざくろ》が1度にに4人産んでくれた方がずっと効率的じゃないの」
「効率の問題じゃありません!」


 このままでは食事に怪しい薬を盛られかねない。
 柘榴《ざくろ》は扉に目を向ける。いつもなら扉の向こう側で聞き耳を立てているのではと思うほどタイミングよく現れる犀《さい》は、きょうに限って姿を見せない。


 アイリスが言う話は決して彼女の創作ではない。しかもヴァンパイアだけの問題ではなく、魔界貴族全体で噂されていることだ。
 純血に拘《こだわ》り続けて、血族の中だけで婚姻を繰り返してきたせいではないか、と。

 このままでは血が、家が絶えてしまう。
 メフィストフェレスの前当主が人間の娘を娶《めと》ったのも、子を産ませるため。現に彼は娘との間に男子をもうけている。大概にしてそのように産まれた子供は血が薄いせいか魔力が弱く、別の意味で魔族が消滅するのではないかという心配もあったのだが……たとえまぐれ当たりであったとしても桁外れに高い魔力を持って生まれて来る子供がいるという前例ができたせいで、混血が産まれることへのハードルはかなり下がっている。


「ほら、馬鹿なこと言ってないで。お嬢様はまだお若いんですから心配しなくても1ダースくらい産めますって」
「あーあ、やっぱり執事さんがよかったなぁ」
「執事さんだって僕と同じこと言いますよ!」

 結局、上手《うま》い回避も思いつかないまま、柘榴《ざくろ》は無理やりに話を切り上げた。
 そんな柘榴《ざくろ》にアイリスは、ただ、光のない目を向けた。