22-3 紅の鎮魂歌~Requiem~




 その頃、ルチナリスは暖炉の隠し通路を進んでいた。
 身を屈めなければ通れないほどの狭さで、しかも灯りらしいものが何もない。先を歩く勇者《エリック》が手にしている灯りが唯一だが、その灯りも勇者《エリック》の影に隠れてしまって、後方を歩くルチナリスは恩恵を受けることができずにいる。
 煉瓦《れんが》敷の小さな凹凸に足を取られ、何度も転びそうになる度《たび》に平坦だった道が上り坂に、上り坂だった道が下りに変わる。


 この通路の入口――暖炉のあった部屋は、以前、ゲートを越えて進んだ先の世界で勇者《エリック》と共に迷い込んだ部屋にそっくりだった。あの時は同じように入ったものの、元の森に飛ばされただけだった。
 ミルは先に行っているらしいが、この先には何があると言うのだろう。
 あの森のオリジナルに飛ばされるのならそれでもいい。確かあの森はアイリスの家から歩いて数分、もしかすると敷地内かもしれない場所だった。一応は魔界貴族の屋敷だから人間が入り込むのは危険かもしれないが、アイリスと柘榴《ざくろ》が育った家なら話せばわかってくれる気がするし、少なくとも黒い蔓に覆われた此処《ここ》よりは安全だ。


『ルチナリスさんは椿とキャメリアが同じ花を指すって知ってる?』


 椿というのはゲートを越えた先の世界で|柘榴《ざくろ》の伯父、千日紅と共にいたウサギの名前。キャメリアというのは千日紅と共に失踪したアイリスの姉の名で、尚且《なおか》つ犀《さい》がミルに向かって呼んだ名前だ。

 ゲートの先のあの世界は現実を模《も》した別世界。
 椿がウサギ姿だったことも義兄《あに》が女の子になっていたり、執事《グラウス》の頭から獣耳が生えていたことから考えれば特別な変化とは言えない。
 椿とキャメリアが同じ花の名だとは知らなかったが、ミルとキャメリアが同一人物だとする犀《さい》の説に比べれば「それが何か?」と言う程度の情報。むしろ「千日紅と一緒にいた椿」と「千日紅と一緒にいたキャメリア」に何の因果関係もないはずがない、という感想が出て来る始末だ。鬼の首を取ったかのように言うことでも何でもない。

 それとも椿とキャメリアが同一人物であることが重要な手がかりになるのだろうか。だから義兄《あに》を探すわけでも人間界に戻るわけでもなく、こんなところまで連れて来たのだろうか。
 もしそうならそのあたりの謎も有耶無耶《うやむや》のままにせず、はっきりきっぱり解明してから帰りたい。去れば2度と地面を踏むことは叶わないであろう魔界のこと、わからないまま放置して、死ぬ間際に「やっぱり気になって死にきれない」なんてことになるのは嫌だ。
 だ、けれど。


「勇者様、まだ?」

 どのくらい歩いているだろう。地下水路から侵入して厨房、廊下、離れへの連絡通路、と延々歩いたけれど、それよりも長く歩いている。
 外が見えないから、何時《いつ》まで経《た》っても同じ視界だから、そう思うだけだろうか。進んでいるつもりで、本当はその場で足踏《あしぶ》みしているだけでは? なんて不安が擦り寄って来る。


 自分《ルチナリス》が此処《ここ》に来たのは|義兄《あに》に会うため。あわよくば連れ帰るためだった。
 運よくと言うか、2度、ニアミスのように再会したが、1度目のロンダヴェルグでは攻撃され、2度目の渡り廊下では眼中に入れてもくれない義兄《あに》に、今更何を言ったところで一緒に人間界に帰るという選択をしてくれるとは思えない。
 だから他ごとが気になる、と言うのは我ながら現金だとは思うけれども……このままでは義兄《あに》のことも、椿のことも、ミルに追いつくことすらも、何もかも中途半端なまま終わってしまいそうだ。



「こっちだよ」

 だが、その心配は唐突に終わった。
 勇者《エリック》の声に顔を上げれば、果てがないように思えた通路が行き止まりになっている。彼は行き止まりに鎮座している扉に手をかけ、もう片手で脇にある釦《ボタン》を手慣れた様子で押す。
 そして。


 扉の先に広がる光景は、ルチナリスの予想とは違っていた。
 瓦礫《がれき》で足の踏み場もない部屋。巨大地震でも起きたのか、大砲でも撃ち込まれたのか、と疑いたくなるほど、日常生活で破損する域を越えている。そんな場所だからだろうか、人の気配はない。先に行ったはずのミルの姿も見えない。ただ、黒い蔓に覆われている。
 誰もいないければ黒い蔓が蔓延《はびこ》っているのも仕方がない。廃屋の庭がすぐに荒れるのは、踏まれたり駆除されることなく好き放題に伸びることができるからだし……とは思うけれども、蔓延《はびこ》っているものがものだけに、はいそうですか仕方ないわね、と納得する気にはなれない。


「勇者様、これは……?」

 呼び止める声も聞こえていないのか、勇者《エリック》は蔓を踏みつけて奥へ進んでいく。
 こんなところに置いていかれても困るのでルチナリスも後を追う。

 蔓で覆われて床が見えないから必然的に勇者《エリック》同様、踏んで進むしかないのだが、靴底で蔓が潰れる感触には堪《た》えられそうにない。
 この蔓がアイリスのように手足が変化したものであるのなら、踏まれたことに気付かないはずがない。潰れれば痛いだろうし、痛ければ反撃を考える。もしそうなら無闇に踏み潰すのは得策ではない。

「勇者様ってば」

 それでも進まなければいけないのか? いつもすぐに立ち止まって考え込んでしまう自分《ルチナリス》に、立ち止まる暇を与えないようにしているのか?
 そのほうがいいのかもしれない。自分《ルチナリス》が立ち止まってしまえば、彼らは盾になって守ろうとする。アイリスをひとりで押さえ込もうとしたグラウスのように。ミルのように。
 ミルは勝手に付いて来たのだからどんな結末になろうと気にすることはないと言ったが、それは無事に帰ることができて初めて言える話だ。彼らの命を危険に晒《さら》して立ち止まる権利などあたしにはない。
 
 あたしの、せい。何もかも。
 頭の後ろで刺すような痛みが走る。天使の涙が自分の弱い心を責めているかのように。


 足が蔓を踏みしめるごとに、じわり、じわり、と闇に侵されていく。ただの瓦礫《がれき》だらけの部屋なのに、底なしの泥沼へ分け入っていくような感触が靴底から伝わってくる。
 進む先は蔓がさらに濃い。正面にある蔓の塊なんて、まるで巨大な鳥籠のようだ。

 そんなほうには行きたくない。
 でもひとりで残されたくもない。
 良案など全く思いつかないまま、ルチナリスは現実逃避のように正面の蔓を避《さ》け、横を――窓から見える空を見上げた。
 紅い月が浮かんでいる。
 その前を白い鳩が飛んでいる。
 彼らは自由に羽ばたいているようでいて、そのくせ視界からは一向に出て行かない。窓枠で切り取られた四角の中を延々と飛び回っている。


 脳裏にロンダヴェルグの光景がよみがえった。
 鳩に突かれた少女の掌《てのひら》には、赤黒い膿《うみ》ができていた。司教《ティルファ》を襲った義兄《あに》の背後には白い鳩がとまっていた。
 紅い目で。
 あの月のような紅い――。




 ふいに鳩がこちらを向いた。その目に、ルチナリスは悲鳴を上げた。

「ひ……っ!」

 掠《かす》れて裏返った声に、だが勇者《エリック》は立ち止まることもなく黙々と進んでいく。ルチナリスの声などまるで聞こえていないように思える。

「鳩! 鳩が、」

 そんな勇者《エリック》にルチナリスは訴え続ける。
 こっちを見ている。さっきからずっと、こちらの様子を窺《うかが》っている。
 誰もいないんじゃない。敵はずっと自分たちを監視している。飛びかかる機会を待っている。




勇者《エリック》はルチナリスの指さす先に目を向け、それから嘲笑を浮かべた。

「どうってことないよ。窓には硝子《ガラス》戸が入っているじゃないか。鳩が突き破って来られると思うかい?」
「そ……れは、そうなんだけど」

 白い色をした生き物はアルビノと言って、生まれつき色素が薄い。目の色素も薄いために普通は黒や茶であるはずの目が紅くなるのがその特徴のひとつとして挙げられる。
 ロンダヴェルグを襲った鳩と同じ羽色だからこれも攻撃してくるかもしれない、と思ってしまったけれど、本当はただの紅目に生まれただけで害はないのかもしれない。魔界の鳩は皆、あんな色なのかもしれない。
 窓を突き破らんと体当たりを繰り返してくるのなら警戒するべきなのだろうが、今はまだ飛んでいるだけ。たまたま窓の近くに寄って来ただけ。そう思えばいいんだわ。
 ルチナリスは息をひとつ吐くと、鳩から目を背《そむ》ける。背《そむ》けて、

「それで、何処《どこ》まで行くの?」

 再び質問を投げかけた。

「この先にミルさんがいるの? あたしたちがこうして喋っているのに来ないってことはもっともっと先なの?」


 窓の外側に気を取られてしまったが、内側にも疑問は山積している。
 目の前で執事《グラウス》と師匠《アンリ》が消え、呆然としているところに現れ、敵の手先であるガーゴイルたちを振り切って連れ出してくれたところまでは信用できた。正直、助かったと思った。その彼の口から死んだと思っていたミルが先に進んでいると言われて思わずついて来てしまったが……暖炉の隠し通路を通っているあたりから雲行きが《何を聞いても》怪しく《返事をくれなく》なった。
 そこへきて蔓が蔓延《はびこ》る部屋だ。
 この気持ちの悪い蔓をどうしても通らなければならないのなら仕方がないけれども普通は避けて通るだろう。間違っても踏みつけて進んだりはしない。少し前に思ったように、こちらの情報が蔓から伝わることがないとは言えないのだから。

「椿とキャメリアが同じ花の名前で、それが何なの?」

 本当に言葉通りの意味しかないのかもしれない。あの世界にいた椿というウサギは、キャメリアが変化した姿だと。しかしそれは千日紅《せんにちこう》の連れという時点で想像できなくもないことではあった。今になって思えば「私ひとり隠れているわけにはいかない」という椿の台詞《セリフ》は、千日紅に匿《かくま》われていたであろうキャメリアが言い出してもおかしくはない。


『ルチナリスさんたちが出会った”椿”というウサギ……。伯父上に似ているそうですが、私の一族にそのような名の者はいませんし』
『でも心当たりがないわけではない。でしょう?』

『千日紅《せんにちこう》はお姉様さえいればよかったのよ』


 思えば、あの時にアイリスと柘榴《ざくろ》は椿の正体に気付ていたのではないだろうか。
 そして、


『その椿さんの存在が、もしあの方が生きているという意味を示唆《しさ》しているのなら』
『それなら、消えたと言うのは生きていないという意味を示唆《しさ》するのかしら』


 ルチナリスは身震いした。
 聞こえ方によっては、あの時のアイリスはキャメリアが既《すで》にこの世にいない、と言っていたように聞こえる。ただのif《仮定》の話ではなく。
 失踪してから何十年も経《た》つから、もう死んだものと思い込もうとしていたのかもしれないけれど……犀《さい》が言うようにキャメリアがミルであるのなら、ミルが既《すで》に亡くなっていることを確定させるひとつと捉《とら》えることもできる。

『あたし見たの。真っ暗な闇の中で、ドレスを着た骸骨が立ってて、何か小動物の骨を抱えてて、』


 闇に堕《お》ちて昏睡状態になっている間に自分《ルチナリス》が見た夢も。
 後付けなら何とでも言える、というだけではなく。


「椿さんは言ったわ。”竹の花が咲く頃に戻って来る”って。あの意味も知ってるの?」
 
 竹の花は100年ほどで咲く。
 キャメリアが失踪してから100余年。ミルとして現れたことが「戻って来る」という意味だったのだろうか。それともこの先でミルが復活するという意味なのだろうか。だとすれば――。

「もしかしてミルさんが、」

 だが。
 勇者《エリック》鼻白むように嗤《わら》うと、身を返し、ルチナリスに向き合った。

「そう言えばさ。そのミルさんが言ってたんだけど、ルチナリスさんが紅竜様を救ってくれるって。後はルチナリスさんとルチナリスさんのお兄さんに任せるって。それはどういう意味かなぁ」
「え?」

 自分が紅竜を救う? ルチナリスは目を瞬かせた。
 ミルは本当にそんなことを言ったのだろうか。
 紅竜と言えば義兄《あに》の兄で、アイリスの婚約者で、かつてはキャメリアの許婚《いいなずけ》でもあって。今や魔界の頂点に立っていて……そしてきっと闇に呑まれている。
 そんな彼の何を救うのだと言えば、やはり闇に染まっているという部分だろう。名ばかりの聖女候補で何の力を出すこともできないままだが、司教《ティルファ》は自分《ルチナリス》にこそ可能性があると言っていた。
 犀《さい》に言わせると司教《ティルファ》が長く生きるための依《よ》り代《しろ》に選ばれただけだそうだが、もしかすると本当に聖女になり得る兆《きざ》しを見出していたのかもしれない。
 聖女であれば闇を祓《はら》える。それは紅竜を救うことになる。
 個人的には闇は誰の心の中にもあるものだから、と気長に付き合っていくほうがいいのではないかと思っているが、染まることなく強大になり過ぎた闇と向き合うのは難しい。だったら扱えるくらいに闇成分を減らす必要もあるだろう。
 だが闇に染まりきった者から闇を抜くのは生半可なことではない。現にメグ《勇者の妹》は記憶を失った。
 もし紅竜から闇を祓《はら》えば、彼の記憶も消えるおそれがある。
 当主としてひとを率いていくのに重要な部分が抜けるかもしれないから、そこは義兄《あに》に任せると、そういう意味なのだろうか。義兄《あに》とて領主として生きていた10年の記憶がないから任せるには不安が残るが、ミルはそこまでは知らない。

 そしてミルがそこまで自分《ルチナリス》に期待しているということは、もしかして……最近は諦めてしまって試すこともなくなったけれど、力が出せるようになっているのかもしれない。
 聖女候補としてロンダヴェルグにいた頃は精霊の加護が付いていなかったから何も力が使えなかっただけ、ということなら、大地《メイシア》の加護を受けている今なら力が出せる。きっと。
 


 それに。

 ルチナリスは勇者《エリック》を見据えた。
 後頭部で天使の涙がチリチリと鳴っている。警告音のようでもあり、使え、と言っているようでもある。


「……勇者様はいつもミルさんのことは”イチゴちゃん”って呼んでいたわ」


 ミルさん、と呼んだこの男は、いったい誰だ?
 ルチナリスは後退《あとずさ》る。目だけを巡らせ、脱出経路を測《はか》る。


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 窓の外には紅《あか》い月。
 そして紅《あか》い目をした鳩。
 ミルの姿はなく、味方だと思っていた勇者《エリック》は偽物かもしれない。


『――その男は危険よ! 顔が悪いわ!』


 思えばガーゴイルたちはこの勇者《エリック》のことをそう言っていた。あの時は自分《ルチナリス》を信用させるために勇者《エリック》のほうが危険だと訴えているだけだと思ったが、本当に敵は勇者《エリック》のほうだったのかもしれない。
 彼らは紅竜《敵》陣営ではあったけれど、着替えも貸してくれたし、柘榴《ざくろ》の手当てもしてくれた。犀《さい》が現れるまでは味方だった。
 他人の目がある場所では敵として振る舞わなければいけないけれど、誰もいないところでは手を貸してくれる敵(後に寝返って味方になる伏線)の存在は、古今東西あらゆるヒーローもので見かけるお約束。人間を頭から丸齧《かじ》りしそうな外見も10年見続けて見慣れているはずなのに……あたしは選択を誤ったのかもしれない。

 「あいる《I'll》びー《be》ばっく《back》」と叫んでいたが、聖剣で切られて粉々になって、そう簡単に戻って来られるはずがない。ご都合主義がまかり通るのは選ばれし勇者だけで、典型的なモブ女にそんな奇跡は起こらないものだ。だから彼らが助けに来てくれる、なんて希望は抱くだけ無駄なこと。
 そしてきっとミルが先に行ったという話も嘘だろう。そればかりか、渡り廊下から落ちた師匠《アンリ》や執事《グラウス》が現れる可能性も、義兄《あに》やアイリスが正気に戻って助けに来る可能性も、犀《さい》がきまぐれに手を貸してくれる可能性も、通りすがりの名前も知らない第三者の魔族が助けてくれる可能性も、どれもが1桁、もしくは小数点以下の確率でしかない。だからあたしが何とかしなければ。


 後頭部ではずっと天使の涙がチリチリと鳴っている。 
 あたしが聖女の力を出すには、近くに義兄《あに》がいる必要があるらしい。事例が少なすぎるが、その少ない事例はどれもその説に当てはまるから間違っているとは言えない。
 ただ、それはあたしがメイシアから加護を受ける前。今なら違う結果が出せそうな気が、いや、出せるはず! 何時《いつ》までも保護者同伴のお子様じゃないのよあたしは!!


「……それで? こんなところにまで連れて来て、あたしをどうするつもり?」

 内心はドキドキだが冷静さを装った顔でルチナリスは問いかける。これでも義兄《あに》の妹を務めて10年、勇者《エリック》なら騙せた実績もある。きっと何とかなる。

 殺すだけなら何処《どこ》ででもできる。むしろ師匠《アンリ》や執事《グラウス》が通るであろうあの場所で殺して死体を放置したほうが、彼らの士気を落せる。なのにわざわざこんな部屋――彼らが来るかどうかもわからない場所――に連れ込むのにはそれ相応の理由があるはずだ。
 義兄《あに》は既《すで》に紅竜の手の内にある。あたし《ルチナリス》のことなどすっかり忘れきっているから「彼に言うことを聞かせるための人質」にはならない。執事《グラウス》や師匠《アンリ》になら、紅竜が交渉を持ちかけることなどない。
 もっと範囲を広げると人間界を相手取ることになるが、「言うことを聞かなければ|この小娘《お前らの仲間》を~」とやるには、あたしの知名度は低すぎる。これで聖女だったのなら話は違っていたかもしれないが、あたしはまだ候補のひとり。中でも限りなく聖女からは遠い位置にいて、しかも自分から辞退してしまっている。

 だが彼ら《敵》は未だにあたしのことを聖女だと思っている節がある。犀《さい》もあたしのことを聖女と呼んだ。力が出せないことも知っていながら、それでも聖女、と。
 もし司教《ティルファ》の依《よ》り代《しろ》としての価値しかないと考えられていたとしても、それはそれで交渉の材料にはなる。少なくとも彼ら《敵》はそう見ている。


 部屋の中は瓦礫《がれき》が散乱している。走るどころか歩くのさえままならないが、それは相手も同じこと。
 ルチナリスは周囲を窺《うかが》う。
 家具や調度品には蔓が絡んでいて武器代わりにすることはできない。窓を叩き割ることも難しいし、叩き割ったところで鳩が突っ込んで来るだけだろう。だとすれば逃げ道は限られる。
 廊下に出るのであろう扉と、今しがた通って来た通路。そのふたつだ。
 扉には蔓が絡まっていない。今は自分たち以外には誰もいないが、普段から出入りがある証拠だ。きっと廊下にも(蔓だらけだろうけれども)通り抜ける隙間はある。
 秘密の抜け道のほうは灯りがないと真っ暗になってしまうが、蔓がない分、此処《ここ》よりは走りやすい。途中で曲がったりした覚えもないから壁沿いに伝って行けばいい。
 臨機応変に行けるところから脱出! それしかない!



「どう、と言われても連れて来たのは私ではないからな」

 勇者は口角をつり上げた。

「……どう言う意味よ」
「途中からすり替わらせてもらった。と言うよりも代わりに通路から出してやったと言ったほうがいいのかな。キャメリアがお前を何処《どこ》に連れて行こうとしたのかは知らんが」
「ミルさんが?」

 どういう意味だろう。説明してもらったが全く意味がわからない。
 それでは最初にガーゴイルたちを退《しりぞ》けて渡り廊下から連れ出した勇者《エリック》はミルさんだったと言うことなのだろうか。何故《なぜ》姿形が違っていたのかは疑問だが、彼女がもし死していたのなら別の姿を借りて現れることもあり得なくはない。
 むしろ師匠《アンリ》からハナハッカの効果を含めて吹き込まれた後だ。ミルの姿で出て来たほうが警戒されると思ったかもしれない。

 途中ですり替わったというのは秘密の抜け穴を通っている時のことだろう。何を問いかけても喋らなくなったあたりが怪しい。


「すり替わったって、それじゃミルさんは」
「いない」
「いない、って」
「魂の宝玉ごと呑み込ませてもらった。あの女、アイリスの体を借りてまで私を倒しに来た気概は認めるが、てんで話にならない。あれでロンダヴェルグ聖騎士団長と同列とは……彼《か》の地は眠れる獅子ではなく、眠りすぎて腐った獅子の骸《むくろ》だったのだろう。
 まあ、敬意を込めて、弱かったのは力と意識を二手に分けていたせい、ということにしておいてやるが」

 勇者の姿をした者はクスクスと楽しげに笑っている。
 顔だけ見れば楽しかった思い出を語っているようにしか見えない。が、「倒しに来」たと言うことは死闘があったに違いない。
 それで弱かったと、話にならないと……言うこと、は……。

 ルチナリスは瞠目《どうもく》する。
 もう、期待をしてはいけない。
 


「それよりも折角《せっかく》遠路遥々来て頂いたのだから、当家と魔族の威信をかけてもてなさねばな」

 言うなり勇者の足下から風が吹き上がった。
 知っている。この風は……海の魔女に捕まっていた時、義兄《あに》が起こした風に似ている。
 風の中で勇者の声がする。勇者の声に被《かぶ》って、もうひとり別の誰かの声もする。

「そう言えばお前たちは青藍を奪い返しに来たのだったか。
 だが、青藍の魔力は既《すで》我が手中にある。あれは私のために生き、私のために死ぬ者だ。誰にも渡すつもりはない」


 ああ。これは紅竜だ。義兄《あに》の兄という人だ。本人なのか、ミルが使っていた勇者《エリック》の形をしたものに意識だけ乗り移って喋っているのかはわからないが間違いない。
 義兄《あに》をどうしたのか。生きているのか。ミルのことと共に気になったが、もう質疑応答の時間は終わってしまったようだ。風の向こうにいる人影からは抑えようもない敵意だけを感じる。

 ミルが自分《ルチナリス》に何を期待していたのかはわからない。
 どうやって紅竜を救えと言いたかったのかも知らない。
 ただ自分《ルチナリス》は聖女の力で闇を祓《はら》えという意味だと思っていたが、どうやらそれは相手も同じように取っていたらしい。


 ――闇を祓《はら》うということは、紅竜から力を奪うこと。


 声が聞こえる。
 力を奪えば、師匠《アンリ》たちはこぞって彼を当主の椅子から引き摺り下ろそうとするだろう。


 ――それは、彼の存在意義を否定すること。


 ならば止めに来るのは当然だ。あたしを殺してでも。


 出せるかもしれない聖女の力を試してみる余裕などなかった。
 ルチナリスは踵《きびす》を返す。
 走り出す。
 横たわる蔓を飛び越え、踏みつけて走る。
 その蔓が次々に首を起こし、ルチナリスに向かって飛んでくる。蔓が肩や腕や足の横をすり抜ける度《たび》に痛みが走る。見覚えのない裂傷が増えていく。
 直接、頭部や心臓を狙わないのは弄《もてあそ》んでいるのかもしれない。檻の中に入れた小動物を外から棒で突いて逃げ惑う様《さま》を眺めるように、自分《ルチナリス》が逃げるのを楽しんでいる。

 でもいい。
 逃げることができれば。
 通路の入口は目の前。あそこに逃げ込んでしまえばどうにか――!

「無駄だ!」

 だが。
 そう思った途端、左足に鋭い痛みが走り、ルチナリスは転倒した。

「……っ」

 見れば、ふくらはぎを蔓が貫通している。ドクドクと全身が心臓になってしまったような音が響く中で、音に合わせて血が滲んでいく。

 逃げないと。
 そう思ったが、足を縫い留められてしまっている状態だ。それどころか蔓は足に巻きつき、ぐい、と後方に引っ張る。後方には勇者《紅竜》がいる。そこまで引き摺《ず》られようとしている。

「もう終わりかい? つまらないね」

 引っ張られたことで蔓が抜けかけたのだろう。ふくらはぎの傷から血が噴き出した。
 ヌルリとした感触がタイツを通して広がる。靴の中にまで沁み込んで、足の裏を滑らせる。

 逃げないと。
 でも。

「……無理……ぃ……」


 聖女様。
 青藍様。
 あたしを助けて。


 しかしいつもどおり、祈ったところで奇跡は起きない。


 誰かに頼るから駄目なのだろうか。
 自分の力でどうにかしなければ……でもその「自分の力」の出し方を知らない。


『集中できればいいんじゃない?』


 何時《いつ》か勇者《エリック》はそう言ったが、この状態では歌うのも踊るのも、チェスをするのも無理だ。

 救いを求めるように外を見る。
 紅《あか》い目の鳩が旋回している。

「青藍、様ぁ」

 ロンダヴェルグでは、あれと同じ色の鳩が義兄《あに》と共にいた。
 あの近くに義兄《あに》がいるのではないだろうか。
 あたしのことを見……ていたとしても、だか、彼はもう助けてはくれない。助ける役はあたしたちだから。
 だから。

「このままは、嫌、だ……っ!」

 ルチナリスは両手に力を入れる。
 上体を起こす。
 あたしは、こんなところでくたばってやらないんだから!



 その時。
 あたりを真っ白な光が包んだ。