21-14 還ることなく




 そんな折《おり》。

「……青藍様の匂いがします」

 グラウスは、ふ、と上を見上げた。
 高くそびえる屋根の下。足を踏み入れるのもやっと、と言いたげな小さいバルコニーが見える。そして案の定。其処《そこ》までの間に、足掛かりになりそうなものはない。

「彼処《あそこ》か?」

 かなり離れた距離があるにもかかわらず「匂いがする」なんて曖昧《あいまい》な言い分をアンリはあっさりと信じたらしい。自分《グラウス》が人狼族だから鼻が利くと思っているからか、否定しようにも確認できないから迎合しているだけか、もしくはあの部屋に青藍がいてもおかしくないという心当たりがあるのか。

「高いな。どうやって上るか、」

 そしてどうやらその場所は、階段を使うという定番の上り方ができる場所ではないようだ。

「あの高さなら自力で行けます。あなたはお館様を探しに行ってください。生きているかもしれないんでしょう?」

 グラウスはそう言い捨てると銀狼に姿を変えた。
 魔族だと聞いてはいても実際にそれらしいところを見たこともなかった勇者《エリック》が、目を丸くしてアンリの腕を揺さぶる。

「うわぁ……ねぇ! 見た!? 執事さんってやっぱり、」
「言っておくが俺は変身しねぇからな」
「変わんないの!? そんなにゴリ、」
「ラっぽいと言いそうになったのはこの口か!? ああ!?」

 そんな師弟漫才など無視したまま銀狼はひらりと跳躍し、次の瞬間にはバルコニーに消えた。
 そしてそのままウンともスンとも言わないまま10分が経過する。

「罠にはまったのかな?」
「あいつは狼っつうより猪だから十分あり得るわな」

 アンリはだるそうに話を切り上げると、腰の鞄から細いロープを取り出した。よく見れば両端に金属製の爪が取り付けられている。
 それを片手で回し、勢いをつけて放り投げると、期待を裏切ることなく、ガチャ、と爪がバルコニーの何処《どこ》かに引っかかったであろう音が聞こえた。

「うわあ、泥棒の必需品! その紐にぶら下がってシューっ! って移動したり、あ~ああ~って叫びながらぶら下がったりするんだよね!
 でも師匠、そんなに細い紐で大丈夫? 僕、見たことあるよ? 主人公を真似てデカいゴリラがぶら下がって、それでブチィッ! って切れるの。あれお約束だけど、」
「わかったから少し黙れ」

 アンリは振り向きもせず数度ロープを引っ張る。外れないことを確認すると、おもむろにエリックを振り返った。

「お前は嬢ちゃん《ルチナリス》を探して帰れ」
「何、急に」

 先に行け、ではなく帰れと言われたのが心外だったのか、エリックは今の今まで浮かべていた満面の笑みを消した。

「師匠、僕は勇者だよ? 困ってる人を助けるのが使命なんだから」
「人間を助けてやれ。お前は人間の勇者なんだから」

 腑に落ちないと言わんばかりの仏頂面から目を背け、アンリは銀狼が消えたバルコニーを見上げる。

「俺たちと違ってお前だけは此処《ここ》に理由なんざねぇだろ? この先は命がけだ」
「ルチナリスさんは理由があるよ」
「青藍に会いたいってだけなら会ったじゃねぇか。それでいいだろ!」

 アンリは吐き捨てた。
 青藍が魔界に連れて行かれた以降、ルチナリスは義兄《青藍》に会いたいという理由で魔界に同行している。だが、彼女は既《すで》に青藍と2度会った。1度目はロンダヴェルグで、2度目は渡り廊下で。
 会話が発生していないから会ったことにはならないと言う輩《やから》も(目の前に)いるだろうが、記憶がないのだから積もる話もないのが普通。
 会えたことには間違いない。元気だった、よかった。と……それでいいじゃないか。彼女の望みは命を賭けるほどのものではない。

「俺はな、この城は古巣だし、紅竜も犀《さい》もよく知ってる。それに犀《さい》はこっち側の奴《やつ》だと思ってたしな。だから来ればどうにかなると思ってたんだ。
 でもよ、アイリス嬢も他の奴《やつ》らも皆普通じゃねぇし、俺の部下だった連中はひとりもいない。お嬢《ミル》を盾にして、嬢ちゃん《ルチナリス》とザクロサンは行方不明で。
 この先に進めば犠牲者は絶対《ぜってぇ》増える。だから」
「だから?」

 冷ややかにエリックはアンリを見据える。
 



 バルコニーに降り立った銀狼《グラウス》は周囲を見回すと元の姿に戻った。
 此処《ここ》に辿り着くであろうことはわかっていたはずだ。来ることを見越して兵士を潜ませることも、弓や砲台を仕掛けておくこともできた。なのに何もない。
 だが、だからと言って安全が確約できたわけではない。部屋の中で待ち構えているとも考えられる。窓が開いているくせに引かれたカーテンのせいで屋内が視認できないのが、いかにもそれらしい。

 窓の向こうでカーテンがユラユラと揺れる。

 此処《ここ》に青藍がいるのだろうか。
 匂いがしたこと自体が錯覚だったかもしれない。
 いたとしても、嬉しそうに駆け寄ってくれ……ない代わりに悪魔の笑みを浮かべて炎の竜を打ち込んで来るかもしれない。

 ミルを失い、ルチナリスを失い。アイリスと柘榴《ざくろ》の消息も未《いま》だ掴めていない。闇を知っていた者は息絶え、此処《ここ》まで来たものの事態は悪いほうにばかり進んでいく。そんな時なのに、何故《なぜ》か心躍る感覚が抜けないのは……その理由は、嫌と言うほどわかっている。


 本来ならばアンリたちが上ってくるのを待ったほうがいいのだろう。だが、なかなか上って来ない。
 エリックはただの人間だから勿論《もちろん》だが、アンリも純血の魔族ではないから、自分《グラウス》と同じように獣化して駆け上がることはできない。先ほどバルコニーの端で何かが引っ掛かったような音が聞こえたが、ロープなどを伝って1歩1歩上って来るつもりだとしたら、あの重装備と体重から考えてもかなり待たなければいけないだろう。

 換気のためか、細く開いた窓の枠にそっと手をかける。
 中から暖気は漏れて来ない。と言うことは、この部屋には誰もいないのだろうか。

 いや。


「     」

 何か聞こえた。
 誰かに聞かれることを恐れているような小さな声で歌っている。引かれたカーテンの隙間から黒い何かが動いたのが見えた。あれは……!

「青藍様!」

 居ても立ってもいられず、グラウスは窓を開けた。

 その視界に真っ先に入って来たのは愛しい人の姿ではなく。
 部屋を覆い尽くさんばかりに茂っている植物だった。




 艶のある細い幹には等間隔に節が付き、そこから葉の付いた細い枝が伸びている。このあたりではついぞお目にかかれない種類の木だが、知らないわけではない。
 これは、竹だ。
 だが竹にしては黒い。青藍の髪と見間違えたのはこの色だったのだろうか。竹は幹の切り口が四角だったり丸かったりとさまざまなバリエーションがあるから、きっと幹が黒い品種なのだろうが、黒いと言うだけでどうにも闇の蔓を想像してしまう。今は真っ直ぐに立っているが、気を許したとたんにグニャリと曲がって襲い掛かって来るような薄気味悪さすら感じるのは、此処《ここ》が植物が生えるような場所ではないと言うこともあるだろう。
 竹というものは地下茎で伸びる。一般的には地表から50cmほどの深さで広がって行くが、深いところでは1mにもなる。土すらないこんな部屋の中で繁茂するはずがない。
 と言うことは、これは竹ではないのだろうか。
 青藍の匂いがしたと思ったのもいつもの錯覚だったのだろうか。

 窓から入り込む風が、ザワザワと葉擦れの音を立てる。


「青藍様、」

 未練たらしく呼びかけても、やはり返事は返ってこない。気配もない。
 だが繁茂していて奥が見えないからだろうか。いないとは言い切れない、との思いは頭の真ん中に座り込んだまま動こうとしない。
 もしかすると、この竹藪の中に隠れているのかもしれない。動けないのかもしれない。
 そんな思いに縋《すが》りながら、生い茂る竹を掻き分けて足を踏み入れる。
 やはりかすかに匂う。
 記憶にある、主《あるじ》だった人の匂いが。

「青藍様?」

 今度は姿ではなく、匂いで惑わそうとしているのかもしれない。
 実際、姿を見せるよりも匂いや書いた文字だけのほうが想像を掻き立てられる、とは昔からよく言われていることだし、何と言っても此処《ここ》は彼の実家。服も私物もノイシュタインの比ではなくある。それに青藍本人を出せば奪い取られる恐れもあるが、物ならそんな心配もいらない。
 そんなことを考えつつも歩を進めると……さらにその奥で光が見えた。
 
 目を凝らす。
 光っているのは、とある1本の竹の節と節の間。東洋の物語の一節に、竹から姫君が生まれ出たという寓話があるが、それに似ている。



『――行こう』




 数ヵ月前、月下美人が香るベランダで青藍を連れて行こうとしていた少女の台詞《セリフ》がグラウスの耳の奥で響いた。
 連れて行こうとしていた。
 私の月を。私の、「姫」を。


 光り続ける竹は手招きをするように明滅を繰り返している。
 おいで。と青藍が呼んでいるような気すらする。


『おいで』
『おいで、グラウス』


 ああ。彼はいつもそうやって私を呼んでいた。
 私よりもずっと年若いくせに、まるで子供を呼ぶみたいに。


 
 光る竹に手が届きそうだと思った矢先、爪先が何かが引っかかった。柔らかく、そして硬い感触に、踏み込みかけた足が止まる。

 グラウスは視線を足下《あしもと》に落とした。
 足の先に、黒い新芽を芽吹かせた白い腕が見えた。


 何だ?

 グラウスは屈《かが》むと、その白い腕を覗き込む。
 変死体だろうか。これまで多くの失踪者を出して来た城だけに不思議に思わないのもどうかと思うが、だからといって手に取る気にはなれない。
 腕は肘《ひじ》から下だけだ。上腕も、その先に|繋《つな》がる体もない。
 長さは自分《グラウス》の腕と左程変わらないが、肉付きが薄く、女性の腕のようにも見える。女性に縁などないにもかかわらず、軽く曲がったまま固まっている指も、その爪も、そのどれもが見たことがあるような気がするのは何故《なぜ》だろう。
 数少ない女性の知り合いのものだろうか。ルチナリスもアイリスもミルも消息は不明だが……。縁起でもないことを考えそうになって、グラウスは腕から目を逸《そ》らした。


 だが、その逸《そ》らした先にも、ある。
 竹の間に挟まっているそれは……今度は足のようだ。

 此処《ここ》の竹は、死体を土代わりにして生えている、とでも言うのか?
 手と、足と。頭部や胴体も探せば出て来るかもしれないが、悪い想像が真実になりそうで実行には移せない。少なくとも見回せる範囲にそれとわかるものが見えないのは幸いと言っていいだろうか。
 しかし何故《なぜ》。
 迷い込んで出られなくなったという線は考えにくい。先が見えないほど茂ってはいるが、此処《ここ》は城の中の、とある部屋。どれだけ広くとも迷うほどではない。
 では?
 この竹が意思を持って出られないように仕組んでいるのだろうか。進む先、進む先に枝葉を広げて塞《ふさ》いでしまえば意図的に誘導することは可能だ。

 そんなことを考えると、急に周囲の竹が自分を取り込もうと様子を窺《うかが》っているような気がして、グラウスは思わず身構えた。
 呼んでいるように見えた竹は未《いま》だに光り続けている。チラチラと炎が揺れるように。
 そしてその枝に引っかかるようにして、それはあった。




「……何だこの部屋は」

 細いロープを駆使してやっとの思いで上って来たアンリは、その部屋の様相に絶句するしかなかった。

 何で部屋の中に竹があるのだろう。それも、黒い竹が。
 向こう側が見えないほどに茂っている竹藪は、アイリスのドレスからはみ出していた黒い蔓の束を見るようだ。まさかとは思うが、これも誰かの変わり果てた姿だったりするのだろうか。

「いるのか? ポチ」

 アンリは予測も付かない場所から飛んでくるであろう蔓を警戒しつつ、先にこの部屋に入ったはずのグラウスに呼びかける。だが返事は返ってこない。ザワザワと葉擦れの音がするだけだ。
 まさかとは思うが殺《や》られちまったか?
 それとも奴《やつ》自身が闇|堕《お》ちしてしまったとか?
 ひとり勝手に突っ走って行ってしまったのだから各個撃破されたとしても自業自得でしかないが、それでも貴重な戦力に間違いはないのだから生きていてくれるほうがいい。それも「味方のまま」。


 鬱蒼とした竹藪は足を踏み入れるのも一苦労。縦にも横にも広いアンリではあちこちが引っ掛かって進むこともままならない。縦に長いグラウスでもきっとそうだろうと結論付け、アンリはぐるりと周囲を見て回る。
 扉で繋《つな》がった隣室まで見てみたが、しかし、グラウスはおろか「匂いがする」と言われた青藍の姿もない。

「ポチの鼻も案外利《き》かねぇな」

 中にいることを想定して笑い飛ばすように言っても、反論は返ってこない。
 青藍はいたのだろうか。彼を追いかけて先に進んでしまっているのだろうか。
 それとも。

 入るのは一苦労だが、この中にいる、というのが最も有力だろう。
 アンリは竹藪に目を向ける。

 その時だった。
 奥で何かが光った。その下にうずくまるようにして誰かがいるのが見えた。

「……ポチ?」

 光ったのはほんの一瞬。
 光が消えた後はただ鬱蒼《うっそう》と茂る竹藪があるばかり。目を凝らしても人がいるようには見えないし、耳を澄ましても何も聞こえない。
 探していたからそう見えただけかもしれない。幽霊の正体が枯れ尾花であるように。
 行ったところでみすみす敵の罠にはまるだけかもしれないが、もし彼が負傷していて動けないのだとしたら……見過ごして死なれた日には夢見が悪いどころではない。

「いるのか? ポチ」

 アンリは藪を掻き分け、足を踏み入れる。





 その人影はやはりグラウスだった。両手で顔を押さえたままうずくまっている。顔面を負傷したのかとも思ったが、その前に、彼の足下に散らばっている白いものが目に付いた。
 目に付いて、脳に情報が伝わって、それと認識するまでに数分。タイムラグの後《のち》、アンリは足の踏み場もないほどの狭さにもかかわらず、文字通り飛び退《の》いた。

「ポチ、お前」
「……様」
「あ?」

 彼は何かを手にしている。
 蒼《あお》い、光の加減で空色のようにも見える細いリボン。あれは――。

「せ……ぃ藍、様……」

 嗚咽が響く。

「……まさか、」

 アンリはもう1度転がったままの白いものを見下ろす。
 白い腕。
 白い足。
 まさか。まさか、これは。

 微《かす》かに歌っているような声が聞こえる。
 ずっと昔、西の塔から聞こえて来た歌。幼い青藍が意味もわからぬままに暗唱していた歌に。

「青藍……?」

 でも違う。
 歌声ではない。聞こえるのはただ、葉が掠《かす》れる音。
 そして、その歌のような音を切欠《きっかけ》に、周囲の竹から一斉《いっせい》に煙のようなものが現れた。
 あれは、花か? 竹の?


「犀《さい》が言ってた”花が咲いた”って、まさか」

 花が揺れる。
 パラリ、と光の粒が零《こぼ》れ落ちて。そして、消えて行った。