19-4 精霊の国




 話は1週間ほど前に遡《さかのぼ》る。


「……雑な仕様だな」

 目の前に広がる牧歌的な光景を前に、アンリは渋面を浮かべていた。
 彼が立っているのは村の入口らしき場所。両側に門柱のように太い木があり、「エルフガーデン」と書かれた小さな板切れが打ち付けてある。
 丸い扉が木の幹やら岩肌やらに点在しているが、それが家なのだろうか。腰丈ほどの低木が家の間を縫うようにあちらこちらに生えている。高い木が壁のように集落の周囲を取り囲んでいる。

 余程《よほど》の間違いがなければ此処《ここ》はエルフガーデンなのだろう。なのだろうが……。顔の皺を深くするアンリの横で、

「そんな人相の悪い顔で突っ立っていないで下さい」

 と、これまたお世辞にも愛らしいとは言えない男が冷ややかな目を向ける。



 エルフガーデンは精霊の国と呼ばれている。
 魔界でも人間界でもない、しかしどちらかと言えば魔界寄りと言われている場所で、当然のことながら人間界にはない。
 さらには魔界貴族が隔《へだ》ての森を通る鍵として精霊(の力を封じた何か)を携帯することを定めたせいで、精霊の価値が上がり、密猟が増え。彼らは自衛のため、他種族が易々《やすやす》と立ち入ることができないよう、通り道を閉じてしまった。
 今では彼《か》の地に入ることが許されているのは紅茶取引の商人くらい。その彼らも、身分を偽って入り込もうとする輩《やから》が増えたせいで往々《おうおう》にして門前払いを食らう有様だと聞いている。
 自分の家に配属されていたとは言え、面識もない、そして1度はエルフガーデンに帰してしまった精霊を連れに行くなんて上手《うま》くいくのだろうか。まずその前に辿り着けないのではないだろうか。
 そう、思っていたのに。


「雑な仕様だ」

 アンリはもう1度同じ台詞《セリフ》を口にする。
 気分としては1度どころか10回でも100回でも言いたい。それだけ言ってもやはり納得はできない。

「着いたんだからいいじゃありませんか」
「だけどよ」

 あれだけ辿り着けないと言われていた精霊の国に、こともあろうに母から託されたと言う短剣に向かって「エルフガーデンに行きたいんです」と唱えただけで瞬間移動のように移動してしまっただなんて。人生勝ち組だの、運がいいだのという程度を軽く越えている。
 第一。その短剣の|中身《精霊》は不在だったんじゃないのか? 中身もないのにエルフガーデンに連れて行ってくれるとか、どんなチートだよ!

「何でもトトを返す時に、また借りることがあるかもしれないからと、エルフガーデンまでは行けるような仕様にしておいたそうですよ。良かったですね、私の先祖に先見の明があって」

 こんなに簡単に入《い》れるなら密猟者がどうとか言うな!
 何で|入《はい》れるんだ? こいつ《ポチ》の先祖は武勲で爵位や精霊を貰えるくらいできた奴《やつ》だったかもしれないけれど、子孫《ポチ》は違うだろうが! 口先八寸でいいように丸め込まれてトトとやらを巻き上げられる未来しか見えない(魔界に行きたい自分としては結果としてはそれでいいのだけれども)んですけれど!?
 長年取引をしている商売相手ですら入れないってぇのに、知人の子孫(顔も知らねぇ)が簡単に入れるってどうなんだよ!? 
 アンリの頭の中では不平不満がタラタラと流れる。

 俺は長丁場になると踏んでいたのに。
 もしかしたら武力行使もあり得るかもしれないとまで覚悟していたのに。
 何処《どこ》にあるかもわからないエルフガーデンに行くのだ。携行食や武器も持って、世界地図を広げてありそうな場所に目星まで付けて。
 なのに――!
 

「男ふたりの旅道中など誰も興味がないと言うことなのでしょう。いいじゃありませんか」
「どういう意味だ」
「忖度《そんたく》です。これは全て忖度《そんたく》のせいです」
「は?」

 意味不明な理由で終わらせようとするグラウスを追いかけ、アンリも村内に足を踏み入れる。




「それにしても静かだな」

 看板には「エルフガーデン」とあったから「村」と呼ぶよりは「国」と呼ぶべきなのだろう。
 視界を遮る高木や山林がなく、遠方まで見渡せてしまうせいで、実際よりも狭く見えるだけかもしれないが、これでも人間でいうところの村、もしくは小さい町程度の大きさはあるに違いない。精霊の大半は掌《てのひら》サイズだから、これでも十分、国の大きさとして成り立っているのだろう。

 しかし精霊らしき生き物は何処《どこ》にもいない。そのあたりを飛び回っていれば目に入るし気配も感じるだろうのに、まるで人間狩りに遭《あ》った後の廃村のように人気《ひとけ》がない。
 得体の知れない魔族がふたりも入り込んだから警戒して身をひそめているのだろうか。
 あれだけあっさりと自分たちを入れておいて今更何を、と矛盾を追求したくなるが、通説では「密猟を懸念して閉じこもっている」のだから、当然の反応とも言える。

「あなたの人相が悪いから」
「俺のせいだって言うのか!?」
「他にどんな理由があると言うんです」

 それを全部俺の顔のせいにするな。
 入れないはずのエルフガーデンにあっさり入れたせいで、警戒されているけれど自分には全く非《ひ》などない、という顔をしている男《グラウス》にアンリは溜息を吐《は》く。
 確かに我ながら厳《いか》つい顔だとは思う。片目は潰れているし、腕や足にも古傷は山ほどある。ずっと戦いの場に身を置いてきたのだから、城の中でお上品に紅茶を淹れている男に比べれば近付きがたい雰囲気を醸し出しているであろうことも否めない。

 だが。

「まぁ、青藍は俺のことを慕ってるしな」
「せ、青藍様は! あの頃は、私がいなかったんですから仕方ないじゃありませんか!」
「お前がいたって俺を選ぶだろうな。男は顔じゃないってわかる奴《やつ》にはわかるんだよなぁ」
 
 慌てたように食って掛かって来る男に心の中で勝ったと呟き、アンリは1歩足を踏み出す。
 その時だった。


「それ以上は立ち入らないでもらおうか」

 声がした。
 声のしたほうを見れば、そこにあった光景が歪んでいる。丸い扉も低木も、ぐにゃりと――いや、扉や低木が歪んでいるわけではない。歪んでいるのはそれらの前にある空気。大気。そして風。
 透明な「何か」が其処《そこ》に存在している。

 アンリとグラウスは咄嗟《とっさ》に飛び退き、警戒の姿勢を取った。自分たちは戦いに来たわけではないが、相手はそうは思ってはいないだろう。そんな声色だった。

「密猟者かい?」

 その間にも透明な「何か」はゆっくりと形を作り、半透明の女性の姿になる。
 造形だけならソロネに似ているような気がするが、長い髪も、足下までの長いドレスも同じように半透明で、どう考えても人間ではない。そして精霊と呼ぶにはサイズが大きい。

 これは……。
 アンリは息を呑んだ。

 本家で犀《さい》を見てきたから精霊のことは少しはわかっている。
 彼らは身の丈で力が変わるのだ。犀《さい》が半貴石の……水晶の精霊であるからこそ人と同じ大きさをとり、前当主の片腕として戦うほどの力を持っていたように。
 そして目の前の半透明の女は。
 自分《アンリ》の記憶に間違いがなければ。


「ほらごらんなさい。あなたの人相が悪いから」
「だから! 何でも俺の顔のせいにするんじゃねえ!」

 隣で平然と呟く男《グラウス》を怒鳴りつけ、アンリは半透明の女に向き直った。

「お前、いや、あなたは四大精霊のひとり、ジルフェ、だ……です、ね?」




「四大精霊?」

 グラウスがほとんど息だけのような小声で呟く。

 ほとんどの魔族にとって精霊と言えば掌《てのひら》サイズでしかないから、半透明の人間サイズを前にして首を傾げるのももっともなこと。
 生まれ落ちた時点でそれぞれ精霊の加護を受け、魔法属性が決まるというのに知らないというのはあまりにぞんざいな扱いだとは思うが、当の精霊のほうが明かしてこなかったのだから仕方がない。
 お伽話《とぎばなし》では王族の子が産まれた時などに精霊がこぞって馳せ参じ、「機織りが上手くなる」だの「明るい子になる」だのという祈りを与える図が描かれることが多いが、それが加護だ。今でもたまに人間界ではそうして精霊が赤子の前に姿を現すこともあるらしい。

 その四大精霊のひとり、風のジルフェが何故《なぜ》こんなところに。


「こんなところに、という言い方はなかろう。此処《ここ》は精霊の国エルフガーデン。むしろ魔族がいることのほうが奇怪よ」
「いや、そうなん……ですが」

 犀《さい》からのまた聞きでは、四大精霊は世界の四方にそれぞれ居を構えているはずだった。
 サージェルド《炎》が座すのはカツァールン王国。
 ウォーティス《水》が座すのは海の都テラル・ポーマ。
 メイシア《大地》が座すのは聖都ロンダヴェルグ。
 ジルフェ《風》が座すのはウィンデルダ山脈。
 そして小さな精霊たちが住む此処《ここ》、エルフガーデンは、場所を特定されないよう、四大精霊たちとはまた違う場所にある。瞬間移動で来てしまったが故《ゆえ》に此処《ここ》が世界の何処《どこ》に位置しているのかは今でもわからずじまいだが、生えている草木の傾向から見ても険しい山の上《ウィンデルダ山脈》ではない。


「なに、お前たちが来るというので待っていただけのことだ。ウィンデルダで待っていたところでお前たちは来ないだろう?」


 それはそうだ。
 自分たちの目的はトト。「エルフガーデンにいる」ひとりの精霊。四大精霊様などに用はないのだから、例え居場所がわかっていようとも山登りなどする《ウィンデルダに行く》はずがない。


「それで? ふぅん、ふたりともウォ―ティスの加護を受けているのか。あいつは加護を配り歩くのが趣味だからな。お陰で何処《どこ》を見ても水属性だらけだ。まぁ私などは面倒ごと《加護を授ける仕事》がひとつ減ってせいせいしているくらいだが」

 ジルフェはひらりとドレスの裾をひらめかせると、ふたりの目と鼻の先に近寄り、吟味するように眺め回す。
 グラウスがどうするのだ? と言いたげな目で訴えて来るが、アンリとてジルフェの真意がわからない今、此処《ここ》で騒ぎを起こすわけにもいかない。

「それで、」

 それでもこのままでは埒《らち》が明かない、とアンリが口を開きかけた時。

「で、だ。お前たちがトトを預けるのに値するか否《いな》か、見定めさせてもらう。エルフガーデンに立ち入るのはそれからだ」
「は?」

 唐突な宣言に、アンリとグラウスは顔を見合わせた。


 四大精霊は、いわば精霊の長。末端に位置するであろうトトとの間には貴石、半貴石の精霊をはじめ、多くの精霊が階級のようにいる。その全てを飛び越えて1番上が出てきたのだから、中途半端な立場の者から次々に「見定める」と言われることに比べれば時間が短縮できた、と喜ぶべきなのだろう。
 ジルフェが納得する結果を提示できれば、他の精霊は――他の四大精霊も含めて――文句など言うまい。

 が。

「では試練を受ける、ということでいいのだな?」
「試練!?」

 思わず、声が裏返った。
 見定めるというから、トトに危害を加えないかどうか、その人間性でも問われるのかと思ったが、まさかまさかの苦難系。

 ”試練とは、決意のほどを試すこと。またはその苦難。”

 そんなナレーションがアンリの脳内で瞬いた。
 巨大な魔法生物と戦えとでも言うつもりだろうか。それとも、空想上にしか存在しない宝玉を持ってこいとか? 大抵は挑戦者の力量を越えた無理難題が多かったりもするのが「試練」のイメージ。
 場合によってはとてつもない時間を取られてしまう。婚礼の儀に間に合わなくなる。
 それでも当初の「何処《どこ》にあるかもわからないエルフガーデンを探しながら行く」ことに比べれば、段違いに短いのだろうけれど。でも。

「それもいいな。期限が付いているとなると死に物狂いで達成しようとするからな。男ふたりの地味旅道中なんぞに興味のない者たちも、そういう華々しいドラマは見たいだろうし」

 ジルフェは楽しそうに口角をつり上げる。
 悪意を感じる。見た目が何処《どこ》となくソロネに似ているから余計にそう思うのだろうか、面白がっているように見える。
 そして。
 男ふたりの地味旅に興味がない、って何だ。また忖度《そんたく》なのか!? 得体の知れない小難しい単語のせいで端折《はしょ》られたり苦労させられたりするなんて理不尽だ。


「何の苦労もなく此処《ここ》まで来たんだから、±《プラスマイナス》0《ゼロ》じゃないか。何も問題ない」
「いや、時間が短縮できればそのほうがいいんだよ。俺らは早く着いても遅く着いても駄目だなんて縛りのある長距離輸送の運転手じゃねぇんだから!」

 思わずアンリは声を荒げた。
 運よくエルフガーデンへの往路は0秒で済んだ。しかし復路もそうだという保証はない。それにロンダヴェルグまで戻れたとしても、其処《そこ》から本家に行くには距離がある。辿り着いても正門から入ることなどできないのだから忍び込む手間も増える。中に入った後も青藍の居場所は掴めていない。
 余裕なくギリギリで動けばそれだけミスが出る。ルチナリスまで連れて行くとすれば、心理的余裕もなくなる。
 それを。

「俺たちは芸人《エンターティナー》じゃねえ! 誰だかも知らない連中の興味のためとかふざけたことを抜かしてねぇで! とっととトトを出しやがれ!」

 言ってしまってから、「言ってしまった」と親父ギャグじみた後悔がとんでもない勢いで圧《の》し掛かる。
 穏便に済ませるつもりだったのに。
 まだ試練の内容すら明らかになっていない今、ジルフェの機嫌を損ねたら嫌がらせでしかない難問を吹っ掛けて来るに決まっているのに。
 口と脳が直結しているのが脳筋たる所以《ゆえん》だとグラウスに馬鹿にされるかもしれないと思ったが……当のグラウスは馬鹿にする気力すら失ってしまったのか、アンリ以上に渋い顔でこめかみを押さえている。

 終わった。
 こうなったらこいつ《ジルフェ》を倒して、その辺の扉を片っ端から開けて、とにかくひとり精霊を捕まえる強硬手段に出るしかない。隔《へだ》ての森を通るには精霊の力が必要だが、トトでなければいけないという理由はないのだし――。
 そんな危険思想がアンリの頭の中をよぎる。

 だが。

「何だ普通に喋れるじゃないか」

 ジルフェは別段、気に障《さわ》ったらしい様子もない。
 それどころか、

「しかしこれでお前が口の悪いオッサンだってことだけは証明できたな。とっととトトを、ってすげぇ親父ギャグ」

 などと言う。


 いや! だから俺は別に親父ギャグを披露したわけじゃねえから! っつうか、親父ギャグのつもりなんかこれっぽっちもないから!
 そう言いたいが、言ったところで弁解しているようにしか聞こえないだろう。
 隣から聞こえる「……恥ずかしい人ですね」という呟きからしても。


「”あなた”だの”です”だのと言うから背中を芋虫がはいずり回っているようで気持ち悪いったらなかったぞ。犀《さい》の口調でも伝染《うつ》ったのかと」
「犀《さい》? 犀《さい》の知り合いなのか?」

 敬語を使っただけでこの言われようなのだから、馴れない敬語を使うのは止めた。それよりも。
 アンリはジルフェに詰め寄る。
 大きく精霊と括《くく》れば同じなのだから知り合いでも不思議ではない。と思うのは浅はかだろう。アンリとて魔族の全員と知り合いではない。人間の間では「人類皆兄弟」だの「友達100人」だのという言葉があるらしいが、そんな彼らですらお互いが知己《ちき》同士だなんて話は聞かない。

「我が同胞《はらから》だ。知らないわけもない。だが……」

 ジルフェは微笑む。春風の温かさではなく、凍てついた北風が気まぐれに吹くのを止めたような、旅人が服を脱いだ途端に吹き荒れそうな、そんな笑みで。

「様子がおかしい。犀《さい》だけでなく、あの家にいる他の同胞《はらから》も、全て」
「それは、もしかしてスノウ=ベルも?」

 今の今までジルフェの相手をアンリに任せて黙り込んでいたグラウスが突然、会話に割り込んで来た。




『――スノウ=ベルをお願いします』

 ノイシュタイン城が閉鎖されたあの夜。アドレイは確かにそう言った。
 閉鎖されれば自分が城と共に眠りにつくこともわかっているのだから、その間、ひとりで残される妹が心配なのはわかる。わかるが、今まで何十回も何百回も閉鎖と別れを繰り返してきた彼女が、今になって「たった10年顔を突き合わせてただけ」のグラウスに頼むだろうか。

 魔王役がいない間、スノウ=ベルは魔界にいる。
 任命式に「魔王役専属のライン精霊」として貸与される彼女だ。自由はないかもしれないが安全は確保されているだろう。
 遅かれ早かれ1ヵ月もすれば新たな魔王役が就任する。城は解放され、アドレイたちも目を覚まし。そして魔王役と共にスノウ=ベルは帰って来る。
 途切れていた日常は再び繋《つな》がっていく。アドレイが心配することなど何処《どこ》にもない。

 なのに、わざわざ頼んだ。
 それはスノウ=ベルが戻るであろう魔界――次の魔王役が決まるまでは前任者の家《メフィストフェレス》預かりとなる――は危険だとアドレイ自身が知っていたからではないのか?
 本家に置いておけばスノウ=ベルも闇に染まる。
 いや、もしかしたら既《すで》にその傾向は出ていたのかもしれない。スノウ=ベルは青藍に付いて何度も魔界に戻っている。アドレイ《双子の姉》がその変化に気が付かないわけがない。


 ジルフェは口を挟んできたグラウスに、つい、と目を向けた。向けて、「ああ」と勝手に納得したような顔をしたのはどういう意味だろう。
 しかしジルフェはそのことについては何も言わず、代わりに探るような問いを口にした。

「……もしそれでスノウ=ベルもおかしいとしたらどうする?」


 スノウ=ベルの身にも危険が迫っているのだとしたら?
 それは救出しなければいけないのだろう。自分はアドレイに託されたのだし、

「お前はそれだけの力があるのか? そうやって手を広げていったところで、全てを守れるか? 全てを失うだけではないのか?」

 グラウスの考えを遮ってジルフェは畳みかけて来る。

「お前は何故《なぜ》精霊の力を欲する? 何が目的だ? 己が為すことは何だ? 闇から知己《ちき》を救い出すことか? 滅することか? 世界平和か?」
「私は、」


 アドレイにスノウ=ベルを頼むと言われた。
 煩《うるさ》い小娘としか思ったことはなかったが、それでも仲間だ。スノウ=ベルもアドレイもガーゴイルも、ルチナリスや青藍と同じ、自分の家族だ。
 だが。


 守りたい者は、追い求めてきたのは……いつも、たったひとり。


「……青藍様を取り戻しに行くためです」



『ううん。あたしはロンダヴェルグに行ってみる』


 足手まといになりたくないからと言う理由でルチナリスはロンダヴェルグに行くことを選んだ。
 自分もそうだ。
 スノウ=ベルも心配だが、目的は青藍。下手に手を広げて青藍に会えずに終われば、ルチナリスを、そして力を貸してくれるアンリたちをも裏切ることになる。


『青藍様を助けてあげて下さいまし。本家に戻ることがあの方のためにならないと本当に思っているなら』


 アドレイはそう言った。
 本家に戻ることは青藍のためにはならない。自分は今でもそう思っている。彼女《アドレイ》もきっと、そう思っている。
 だから彼女は自分を外に放り出したのだ。城と共に眠らせないために。青藍を追わせるために。


「だが青藍はお前のことなど何ひとつ知らない。それでもそれは青藍のためになるのか?
 お前がしようとしていることは、生まれた時から飼われ続けてきた鳥を籠から引っ張り出して空に放つことだ。餌の捕り方も身の守り方も知らない鳥を放ったところで1日ともつまい」


 そんなことはない。青藍は領主として、魔王として、上手くやっていた。
 グラウスはそう心の中で反論する。
 しかし、反論しながらも思う。
 青藍の背後に本家があったのも事実。ノイシュタインとその近郊がずっと悪魔の被害もなくやってこられたのは、其処《そこ》での狩りの権利が暫定的にメフィストフェレスにあって他家が手を出すことができなかったからだ。本家も狩ることができたのに手を出さずにいてくれたからだ。
 そして海の魔女の賠償金やゼス《隣町》の海水浴場計画のように、本家の資本をもってことを収めた件も多い。青藍のポケットマネーだとしても、元を正せば本家の金だ。


『取り戻して、どうする。ノイシュタインには戻れないんだろう? 本家の手を逃れながら行くところなど何処《どこ》にもないぞ』


 アンリにも言われた。
 青藍を連れ出して以降の逃避行は言われるまでもなく辛《つら》いものになるだろう。
 紅竜の執拗《しつよう》さは、身をもって知っている。
 それでも。

「ならば私が新たな鳥籠になります。この身をもって守ります。雨露も寒さも飢えからも、命が果てようとも、私が」
「それは紅竜と何処《どこ》が違う? むしろ紅竜の庇護下にいたほうが青藍にとっては幸いではないのか? 粗末な木の巣箱と黄金の籠。どちらが、などと選ぶまでもない」
「わ・た・し・が! 青藍様が必要なんです。もし黄金の籠を選ぶのであれば、」

 それでも私にはあの人が必要だ。
 それが、彼のためにならないことだとしても。


「……奪い取る、か?」

 相変わらずジルフェの表情は読めない。ずっと貼りついている酷笑はこうして話をしている間も、ほんの僅《わず》かの変化すら見せない。

「そのために精霊を利用すると」
「トトに関しては、そうなります」

 魔界に行くために精霊を利用する。そのために此処《ここ》へ来た。トトに関しては、と言ったが、彼《彼女》に拘《こだわ》るわけではない。他の誰でも構わない。
 当の精霊からすれば失礼な考え方だろう。道具としてしか見ていないと公言しているようなものだ。精霊の長がそれを聞いて好ましく感じるはずもない。
 しかしその場凌《しの》ぎに耳障《ざわ》りのいい言葉を吐いたところですぐに嘘だとバレてしまうだろう。何もかも、深層意識さえも見通しているような、そんな目をしている。

「スノウ=ベルは?」
「アドレイは”余裕があったら”と言いました。余力があれば救い出します。それだけしか言えません」

 もし自分《グラウス》がスノウ=ベルを見捨てても、アドレイは恨んだりはしないだろう。恨みはしないが泣くだろう。
 自分もきっと、一生罪悪感に塗《まみ》れ、背負っていくことになる。けれど、それだけだ。


 風が騒《ざわ》めく。
 姿は見えないが、精霊たちもこのやりとりに聞き耳を立てているのだろうか。


「……お前が想いのたけをぶつけて玉砕する光景はさぞ面白かろう」

 ジルフェの髪がゾロリと揺れる。メデューサの髪が鎌首を持ち上げるように、いや、……黒い蔓のように。

「魔族に加担したばかりに今頃どうにかなっている犀《さい》の姿も面白いだろうと思っていたが、楽しみが増えたな」


 「こいつ、性格悪すぎないか?」とアンリが耳打ちしてくる。
 完全に同意見だ。グラウスも掌《てのひら》が汗ばんでくるのを感じる。
 この問答が試練なのだろうか。
 何時《いつ》までこうしていなければいけないのだろうか。
 犀《さい》の様子がおかしいと言って来たからてっきり彼を救ってくれ、などと頼まれるのかと思ったし、それならば、と交換条件を突きつけることも可能かと思った。しかし違う。
 知り合いではあるが親しくはないのかもしれない。だとすれば早急に策を練らなければならない。

 そんな困惑をどう感じたのか、ジルフェは続ける。

「魔族は享楽主義だと聞いていたが、ふたりとも随分と人間じみた考えをするのだな。人間の血が混じっているからか? 人間に混じって生きてきたからか?
 だが精霊は違う。犀《さい》がどうなろうと、スノウ=ベルがどうなろうと、当人が選んだ道なら結果も受け入れるしかなかろう。私も他の精霊たちも関与はしない。アドレイは実の姉だから多少は情があるのだろうが……何にせよ自滅したところでそれは自己責任だ。 
 だが、当人の意思が介入しないのなら話は別。力づくでどうにかするつもりなら、私は守る術《すべ》を持たぬ彼らの盾となろう」

 
 トトが駄目なら他の精霊を捕まえるまで、という考えが見透かされていたのだろうか?
 グラウスは、ぐ、と喉を詰まらせた。アンリも同じことを考えていたのだろうか、唇を噛みしめている。

 
 風が吹く。
 大きなうねりは目の前の酷笑よりもずっと、ジルフェの心を表しているようだ。
 体が持って行かれそうなほど叩きつけられるのはジルフェの怒りによるものか? 選択を誤ったのか? 試練に失敗したのか? そんな焦りさえも浮かんできた頃。


「……いいだろう」

 何がいいと言うのか。
 そう問う暇《いとま》もなく、グラウスとアンリの周囲は闇に閉ざされた。




 気が付くと薄暗い建物の中にいた。
 石でできた壁と柱。暗褐色の絨毯《じゅうたん》。等間隔に付けられた燭台の灯は消えている。
 薄暗いのは明かりがついていないから、というだけではない。当たりを漂う空気《大気》自体が黒い靄《もや》と化しているのか、全体が暗く沈んでいる。1メートルと離れていない距離にいるアンリですら1枚膜を挟んでいるように見える。
 冷えた空気が肌を刺す。ジルフェの風のように、自分たちを歓迎してない――むしろ敵意を感じる。


「此処《ここ》は?」

 物珍しげに見回すアンリの横で、グラウスは目を見張った。
 目の前に広がっているのは数ヵ月前まで住処《すみか》であった場所。騒がしい人外と不器用な小娘と小さな精霊と、そして忠誠を誓ったあの人がいた場所だ。
 この廊下を真っ直ぐに行けば執務室がある。あの人がいる。入って来た自分に振り返って、笑みを浮かべて――。


「どうしたんだ急に!」

 呼び止められて肩を掴まれて、それでやっとグラウスは足を止めた。
 無意識に走り出し、とある部屋にまで辿《たど》り着いていたらしい。

「……何でもありません。行きましょう」

 怪訝《けげん》そうに部屋の中を覗き込もうとするアンリを追い立てるようにしてグラウスは廊下に出、後ろ手に扉を閉める。


 いるはずがない。
 あの人は魔界に帰ってしまったのだ。かさぶたを剥《は》がすように塞《ふさ》がりかけていた記憶をこじ開けて、馬鹿じゃないのか自分は。
 期せずして掘り起こしてしまった悪夢に吐き気がする。これもジルフェの仕業なのだろうか。
 だったら何のために。 


「で、此処《ここ》は?」
「……ノイシュタイン城、のようです」 

 何処《どこ》を見渡しても見覚えがある。
 だが何故《なぜ》、此処《ここ》にいるのだろう。この城は閉鎖されていて入れないはずなのに。
 その前に、自分たちは今の今までエルフガーデンにいた。エルフガーデンとこの城は次元を違《たが》えた同じ場所にあるとでも言うのだろうか。それとも。
 グラウスは手の中にあるドアノブを確かめるように指で撫でる。握り過ぎて体温が移ってしまった金属は空気の冷たさに反して温もりすら感じる。

「幻ではないようですが」
「ってことは俺らはエルフガーデンを追い出されたってことか!?」

 ゴールの1歩手前でスタート地点に戻されてしまったのだろうか。
 エルフガーデンへはまた短剣に祈れば一瞬で行けるかもしれないが、向かったところでまたジルフェが待ち構えていて此処《ここ》に飛ばされるだけかもしれない。

「もしかするとこれが試練なのかもしれません。が、」

 とは言え此処《ここ》で何を|為《な》せばいいのか。隠してある何かを見つければいいのか、脱出すればいいだけなのか。ジルフェの意図がわからない。
 10年暮らした場所だ。内部構造は全て頭の中に入っている。扉以外にも、下に植栽があったり、壁伝いに行くことも考慮すれば比較的安全に外に出られる窓がいくつかあることもわかっている。
 わかってはいるが……外に出るだけが目的ではないだろう。この中で何かを為す必要がある。ジルフェはきっとそれを見ている。

「何をしろと言うのか……」

 途方に暮れたいが顔には出さないよう努《つと》める。
 なんせジルフェは「絶望する様《さま》が見たい」などと抜かした奴《やつ》だ。困り果てた顔などを見せれば手を叩いて喜ぶに違いない。

「そう言やあ、此処《ここ》には精霊がいるんじゃないのか?」

 アンリはそう言いながらも窓を叩いてみたり、さらには手近な部屋を開け、廊下から中を眺め回している。
 部屋の中に足を踏み入れようとしないのは、先ほどグラウスが有無を言わさず部屋から追い出したせいで、何かある、と過剰に警戒しているからなのだろう。家探しするほど念入りに見れば何か出てくるかもしれないが、今のところは取り立ててめぼしいものもないようだ。

「トトって奴《やつ》でなくともそいつを連れて行けばいい。知り合いなんだろ?」
「アドレイを?」

 考えもしなかったが、此処《ここ》が本当のノイシュタイン城であるのなら何処《どこ》かにはいるはずだ。
 もしいるのなら連れ出すことは可能かもしれない。彼女はガーゴイルたちとは違って城の外に出ることはできないという制約はなかったはずだし、魔界にいるであろう妹《スノウ=ベル》の身も案じている。彼女の望みを叶える代わりに、と言えばこちらの頼みも聞いてくれるに違いない。
 それに。
 もし眠ったままだとしても、彼女の身さえあれば隔《へだ》ての森を通ることは可能だ。

 何故《なぜ》それを考え付かなかったのだろう。
 いるとすれば配膳室だろうか。彼女は其処《そこ》にある柱時計を寝床にしている。
 閉鎖されるギリギリまで彼女はガーゴイルと共に正門にいたが、多分其処《そこ》にはいない。光が消えた後、ガーゴイルたちが朽ち果てた石像と化して正面玄関へと続く台座に並んでいたことからしても。
 そして配膳室はすぐ隣にある。


 グラウスは息をひとつ吐き、その扉を開けた。
 が、案の定と言うか予想通りと言うか、誰もいない。念のために柱時計の蓋《ふた》まで開けてみたが、蜂蜜色の髪をした精霊の姿はない。


「いねぇのか」
「ええ。やはりそう簡単にはいかないようです」

 現実はそう甘くはなかった。
 アドレイがいないということは此処《ここ》は本当のノイシュタイン城ではないのか。それとも閉鎖されているから自分が知り得ない状態になっているだけなのか。考えたところで正解は出てこない。
 ただわかったのはアドレイをトトの代わりにすることはできない、ということだけだ。

「ちっくしょう! いったいどうしろって、」

 アンリは力任せに壁を殴りつける。
 激しい音がすると思ったのに、その拳《こぶし》自体が黒い靄《もや》に包まれて勢いを軽減させられてしまったかのように、何の音もしない。

「もしかして城の外に出ることすら出来ねぇんじゃねぇか?」
「そんなことは、」
「でも窓は開かなかったぞ」

 先ほどアンリが叩いていた窓は開かずの窓ではなかったはずだ。開かないと言うのは錆びついているだけではないかと思ったのだが……。
 グラウスは眉をひそめた。鍵がない。硝子《ガラス》は窓枠に塗り固められている。

 この分では本当に外に出ることすらできないかもしれない。
 今から扉をこじ開けに行ってもいいのだが、万が一、何もしないで外に出ることが試練の失敗《ゲームオーバー》と取られるかもしれないと思えば、後回しにしたほうが得策だ。数分後に爆発するとか毒が撒かれるなどのペナルティが設定されているわけでもない。
 そう考えてしまったせいでジルフェが「それじゃあ」とばかりに追加してくることだけが懸念《けねん》されたが……息を殺してあたりを探ってみたが、何も変化はないようだ。


「では手分けして探してみましょう。きっと何か違っているものがあるはずです」
「手分けして、ったって、俺は何が違ってるかなんてわからねぇだろうが」
「そのあたりは野生の勘でどうにかして下さい」
「どうにかできねーよ!」

 城内の経路に全く詳しくないアンリが慌てて呼び止めるが、おかまいなしにグラウスは踵《きびす》を返した。




 グラウスはひとりで見知った廊下を進む。
 アンリには「何か違っているものがあるはずだ」と言ったものの、何をすればジルフェが満足するのか、試練が達成されるのか、とんと見当がつかない。つかないが、彼《彼女》が期待しているであろう、自分たちが弱り果てて右往左往する様《さま》(さらに言えば、泣いて謝って来る様《さま》)を見せるのは不快だし見せるつもりは毛頭ない。
 だが、そんなことも何時《いつ》まで言っていられるか。
 何日も此処《ここ》に閉じ込められれば心境も変わる。なんせ自分たちには時間がない。本家に侵入する日にちは延期できるが、その間にも青藍の記憶は消え続ける。紅竜や犀《さい》が青藍をどう扱っているかも心配だ。

 どうしたらいい。
 手っ取り早いのは何処《どこ》かでジルフェが見ているであろうことを予測して、

「申し訳ありませんでしたジルフェ様! 私の性根が腐っておりました。どうかどうか、此処《ここ》から出してくださいませ」

 と床に頭をこすりつけて泣き叫ぶことだろうが、それだけはしたくない。
 つまり、全くもって思考は空回るばかりで良案など出て来ない。

 その時だった。


『――あたしは、アドレイに自由になってほしくて』


 ふいに声が聞こえた。

「……スノウ=ベル?」

 その声は確かにスノウ=ベルのものだ。会話の内容からしてアドレイもいると思われる。
 だが、見回しても精霊姉妹の姿は何処《どこ》にもない。

 いるはずがない。
 スノウ=ベルが宿っている懐中時計は青藍と共に犀《さい》が持って行ってしまった。此処《ここ》にあるはずがないのだ。
 ならば、今の声は。


『城の中だけでも特に不自由はしていないわ』

 次いで聞こえたのはアドレイの声。

『ごめんなさいね。私が此処《ここ》にいることを決めたばかりに』
『あたしは好きで魔王専属になることを選んだの。だってそうすれば此処《ここ》に――アドレイと一緒にいられるもの』

 何の話だろう。
 自分《グラウス》がこの城に配属されるよりもずっと前からアドレイは此処《ここ》にいた。ガーゴイルたちから「城の守り神」などと呼ばれるほど昔から。
 魔王が倒されればこの城と共に眠りにつき。
 新たな魔王が配属されれば目を覚まし。
 アドレイ自身がまるで気にしていなかったから気にも留めなかったが、その生き方は隷属と言っていい。いくら魔族の庇護下にいるためとは言え……スノウ=ベルが「自由になってほしい」と願ったのもよくよく考えればわからないことではない。


『知っているのよ。青藍様がラピスの町からなかなか帰って来なかった理由《わけ》』
『あなたからの通信が途絶えた理由《わけ》』


「え?」

 ラピスの町というのは魔王の領地のひとつ。採石が盛んな山合いの町だ。
 其処《そこ》で架けていた橋が完成するからと青藍はひとりで出かけて行き、帰ると言った時間から大幅に遅れて戻ってきた。彼が言うには馬車に不都合があったらしいのだが……他の理由があったのだろうか。
 確かに通信は繋がらなかった。
 雨のようなノイズが聞こえるばかりだった。
 それでも無事に帰ってきたのだからそれでいいと思っていたのだが。


『あなたが私のためにそうしたことを』


「アドレイ! スノウ=ベル! いるんですか?」

 呼びかけても返事はない。
 これもジルフェの心理攻撃なのだろうか。それとも。
 

『あなたには辛《つら》い道を選ばせてしまったわ』 
『なのに私は、あなたと永遠に此処《ここ》にいることを望んでしまう。あなたはそれを叶えようとしてしまう』


 それともこれは、アドレイの残留思念……?

 彼女らがどういう経緯で今の職に就いたのかは知らない。
 が、彼女らは双子だ。お互いを呼ぶ――赤の他人と比べてより遠隔地での通信が可能――という意味で選ばれたのだとばかり思っていたが、人間界で双子が忌み嫌われるように精霊界でもそうだったのかもしれない。忌まれて過酷な職を押し付けられた姉を追って、妹がその片割れに立候補した、とも考えられる。


『――永遠に』


 自分も同じだ。
 城に縛りつけられるのなら、此処《ここ》も本家も青藍にとっての鳥籠であることに変わりない。でも私は此処《ここ》での生活が永遠に続くことを望んでいた。



「まさかこれを聞かせるために送り込んだわけではないでしょうね」



『――スノウ=ベルをお願いします』


 アドレイがそう言った裏にどれだけの物語があったかは知りようもない。
 ラピスの町からの帰路に何があったかもわからない。
 彼女らが双子だから云々《うんぬん》という理由も1から10まで憶測だ。憶測で彼女らを不幸に仕立てて同情するのは失礼でしかない。
 が。

「……ええ」

 手を広げ過ぎて当初の目的が果たせなければ本末転倒だと思ったし、ジルフェにもそう言ったが、その時になればきっと私はスノウ=ベルを助けることを選んでしまうのかもしれない。
 アドレイの思いは、きっと私が1番理解できるであろうはずだから。




 そして数十分後。

「馬鹿野郎! 道に迷うかと思ったじゃねぇか!」

 満身創痍《まんしんそうい》で現れたアンリは、何ごとかと目を瞬《またた》かせるグラウスにひとしきり文句を垂れ流し始めた。
 どうやら次元の綻《ほころ》びに落ちたらしい。
 これは本物のノイシュタイン城には標準装備されていた代物で、青藍はルチナリスが誤って入り込まないように、とガーゴイルに見張らせていた。最近では町長に付いて来た勇者が落ち、ケルベロスに追いかけられた、とも聞いた。

 だがしかし。

 (一応は)ただの人間のはずのあの勇者モドキでさえ無傷で帰って来たのだ。これで帰って来られないようでは戦力的に期待できない。全く、|小汚《こきたな》いボロ雑巾みたいになって、この程度でこれでは本家元陸戦部隊長の肩書きが泣くだろうに。
 頭のてっぺんから足の先まで眺め回し、グラウスはそんな非情な評価を下す。
 
「……いや、汚いのは最初からでした」
「何が汚いってぇ!?」

 ひとりごちた言葉を拾われて食って掛かられたがスルーして、グラウスはアンリが手にしているものに目を向ける。
 古びた陶製の、筆の線が残る雑な塗りで顔と服が描かれた人形。虚《うつ》ろな目とぶ厚い唇はいったいどんな層に需要があるのだろうと考えてしまうそれは、海の魔女事件の時にルチナリスが魂を封じられていたものだ。




 青藍がルチナリスに似ていると言ったせいで愛着が沸いたのか、もともと彼女の好みなのか、捨てて帰ったら呪われそうで仕方なしに持ち帰ったのかは不明だが、あの事件以降、ルチナリスの部屋に飾られていた。ガーゴイルたちが何時《いつ》も見られている気がする、と怯《おび》えていたのを覚えている。

 アドレイもガーゴイルもいないのにその人形はあるのか。と言うか、アンリは何故《なぜ》こんなものを持ってきたのだろう。
 まさか今後のクエストで必要になるのか? 
 以前、祖母から預かった肩掛け《ストール》をルチナリスに押し付けようと思って「ラスボスの部屋を開ける鍵になるかもしれない」と出まかせを言ったが……だとしたら、あれ《ストール》も探して来たほうが良かったのだろうか。幼女の腹巻代わりに使って以降、何処《どこ》へやったか定かではないのだが。


「何ですかそれは」

 とりあえず聞く。
 多分に初見であろうアンリよりも自分《グラウス》のほうがこの人形については詳しいだろうけれど、そういう意味ではない。

「あー!? お前が何か違ってるもんを探せって言うから、1番胡散《うさん》臭い奴《やつ》を持って来たってぇのに何だよその物言いは!」
「ああ、そうでしたね」

 持って来るとすれば有益なものだろうに。
 期待していたわけではなかったが、例えて言えば試練についての手がかりや精霊そのものだろう? その人形をどうするつもりだ? 呪いの媒体にでもするのか? とんでもなく効果がありそうだけれども……って、それよりも。 

「……ルチナリスの部屋に入りましたね?」
「あ、やっぱあれ嬢ちゃんの部屋なのか。って、何だその変質者を見るみたいな目は! 俺はな! 別に嬢ちゃんの部屋だって知ってて入ったわけじゃなくて! 片っ端から開けていったらたまたま嬢ちゃんの部屋だったと言うか、」

 冷ややかな視線を浴びせかけられ、アンリは地団駄を踏みながら否定する。

「それよりお前はどうだったんだ! 何処《どこ》行っていやがった!」
「ああ」

 グラウスはポケットから折り畳んだ紙を取り出した。

「預金票です」
「はあ!?」
「着の身着のままで放り出されたので所持金が財布に入っている分だけでして。この先、金はいくらでも要りますし、次の魔王が来てしまったら此処《ここ》にはおいそれと入れませんし。ルチナリスの給金も子供のうちから大金を持たせるわけにはいきませんから預けておいたのですが、あってよかった」


 預金票とはその言葉の通り、預けた金額を書き留めたものだ。
 |主《おも》に教会や冒険者組合などでは、金を預かり、また金を貸す業務も行っている。
 武器や防具を揃えることのできない冒険者や、商売道具の買い替えなどで金が必要な人々に金を貸し、利子を付けて返してもらう。また、使う予定のない人々から金を預かり、こちらも一定期間後に利子を付けて返す。
 踏み倒されるおそれがあるので借りるほうはなかなか認可が下りないが、預けるほうは案外あっさりと預かってくれる。全財産をそのまま、または宝石などに変えて持ち歩く必要がないので、特に旅人などから重宝されている制度だ。
 魔族のくせに教会や冒険者組合の世話になるのか、と後ろ指を指されるかもしれないが、利用できるものは利用するのが魔族というものだ。蝋燭《ろうそく》も馬車も、人間の文明から拝借している。

 問題はこれもジルフェが生み出した幻なのかというところだが、消えてしまったならその時。どうせ本物のノイシュタイン城には残っているのだから、また回収しに行けばいい。面倒だが。


「これを取り戻せるとは、ジルフェに感謝しなければいけませんね」
「お前なあ」
「その人形よりはずっと有益です」
「有益かもしれねぇが……どうするんだ? 結局何をすればいいのかわからねえ」
「帰りましょう」
「は!?」
「此処《ここ》にはアドレイもトトもいませんし。何度も言いますが預金票が手に入れば私だって此処《ここ》に用などないのです。
 いやぁ、わざわざ取りに戻してくれるなんて、ジルフェは結構良い人なんですね。今流行《はや》りのツンデレという奴《やつ》ですか? こうでもしないと助力できないなんてかわいらしい、っと、そんなことを言っている場合ではありませんでした」

 唖然《あぜん》とするアンリを尻目にグラウスは短剣を取り出す。
 そして。

「エルフガーデンに行きたいのですが」
「そんな何度も上手くいくわきゃねぇだろぉぉぉおおお!」

 アンリの絶叫は、暗転した世界に掻き消えた。




「ほら、戻って来られたじゃないですか」
「だぁぁぁぁかぁぁぁぁぁらぁぁぁぁぁぁあああ!!!!」

 グラウスとアンリはまたしてもエルフガーデンの入口にいた。
 門柱のような巨木にエルフガーデンと書かれた小さな看板。あちらこちらに点在する丸い扉。そして腰に手を当て、呆れたように口元を歪めている半透明の精霊がひとり。

「……そうか。お前はエルシリアの子孫か。失念していた」

 ジルフェはグラウスの手の中の短剣を見下ろして溜息を吐く。
 そして片手を差し出した。

「トトを預ける。連れて行け」

 上を向けて広げられた掌《てのひら》から光が浮かぶ。それはふわふわと漂いながらゆっくりと近付いて来て……そして短剣の中に吸い込まれるようにして消えた。
 僅《わず》かに重みが増した気がする。

「もう試練は終わりですか?」
「ああ。これほどつまらない結果になるとはな!」

 苦虫を噛み潰したような顔をしている。先ほど、どうせ聞いているだろうと思ってわざと褒めちぎってみたが、言葉の芋虫は無事、ジルフェの背中を這い回ってくれたようだ。

 それにしても……この重みは本当にトトなのだろうか。
 グラウスは短剣に目を落とし、それから再度ジルフェを見る。

 試練が自分《グラウス》にとって益《えき》にしかならなかったと知れば、興《きょう》ざめするだろうとは考えていた。そうすればあの試練は止めてしまうであろうことも。
 代わりに別の試練に放り込まれるおそれもないわけではなかったが、エルフガーデンになら何度でも戻って来られるし、それはそれで嫌味になると……そのあたりは山をかけてみただけではあるけれど。


 彼女《ジルフェ》は何故《なぜ》急にトトを預ける気になったのだろう。
 自分たちを構うことに飽きただけだろうか。
 ノイシュタイン城に飛ばされる前、ジルフェは精霊がどんな迎えようがそのことについて他の精霊も自分も関与しないと言った。当人の意思が介入しないのなら阻止するという意思も見せた。
 なのにトトを寄越した。
 自分たちがノイシュタイン城に行っている間にトトの意思が確認できたのか?
 それとも。

「大した理由はない。空間に閉じ込めても顔色も変えない奴《やつ》など見ていても面白くなかっただけのことだ。そっちの筋肉ゴリラの阿鼻叫喚が見られただけで良しとしよう」


 エルシリアというのは祖母の名だ。
 祖母とジルフェが知り合いだったという話は聞いていない。
 そしてもうひとつ。

 先ほど聞こえたアドレイとスノウ=ベルらしきふたりの会話をグラウスは思い返す。気にならないと言えば嘘になるが、あれについて問うたところでジルフェは答えてはくれないだろう。
 
「……何故《なぜ》」
「トトが手に入ったのだからそれでよかろう。さっさと出て行け」

 表立った問いと、裏に込めた問いと。そのふたつの問いには答えず、それどころかもうそれ以上話すことはない、とばかりにジルフェは目を逸《そ》らした。追い払うように手を振る。
 その姿が透けていく。空気に溶けていく。
 次いで、丸い扉が、塀のような木々が、小さな看板が。
 
 そして。



「……どうしろって言うんだ!?」

 気が付くとグラウスとアンリは、切り立った岩肌の上にいた。
 遥か下に蒼いリボンのような細い筋が見える。川だろう。其処《そこ》まで行けば風光明媚な景色が楽しめるだろうし、人里に行く道もあるかもしれない。でも行くための術《すべ》がない。
 翼でもあれば飛んで下りることができるだろう。だが生憎《あいにく》とふたりとも翼は持たない。

 多分、此処《ここ》はウィンデルダ山脈。
 最後の最後に嫌がらせをされたのだろうか。人間界に戻してくれただけ有難《ありがた》いと言うべきなのだろうか。

 その時だった。

「めっずらしーい! こんなところに何の用?」

 上空から女の声が降って来た。




 空から、声。しかも女。まさかとは思うがジルフェの再来……にしては声が違うような気がしないわけでもないのだが。
 そんな警戒に見上げるのが遅くなったグラウスとアンリを黒い影が覆《おお》う。覆《おお》ったと思いきや、その影はあっさりと通り過ぎ、次《つ》いで横風が襲い掛かった。
 切り立った崖の上だ。立てる場所は少ない。咄嗟《とっさ》に腰を落として吹き飛ばされる結末だけはやり過ごし、ふたりはやっと空を見上げた。

 四つ足の生き物が空にいる。
 頭部には角が生え、首筋から背、そして尾にかけて峰のようなでっぱりが続いている。鱗だろうか、表皮は硬そうな鎧状のもので覆われ、背には蝙蝠《こうもり》に似た――魔族の翼を思わせる――羽根がある。

 ドラゴンだ。
 そしてその背に、人らしきシルエットが見える。

「お兄さんたち山登りにでも来たの? 下りられなくなっちゃった?」

 声の主はそのシルエットのようだ。
 声をかけるためだろう、上空をグルグルと旋回しているせいで横風がおさまらない。バランスを崩して転落するのも時間の問題かもしれない。

「あの! 何処《どこ》かに止まって頂けませんか! 風が!」
「風? ああ」

 グラウスの声に、シルエットはその背から飛び降りた。
 どんな魔法を使っているのか、ドラゴンもシルエットが飛び降りた途端に消え失せる。

「で? お兄さんたちは何してるの?」

 目の前に立っているのは、大きめのキャスケット帽の中に髪をしまい込み、目にはゴーグル、小さなポケットがやたらとついた上着にショートパンツといったいで立ちの女。
 仕事なのか趣味のドラゴンライドなのかは不明だが、知恵とプライドが高く世間一般に飼い慣らすことができないと言われているドラゴンを易々《やすやす》と乗りこなしていたこの女は何者だろう。そして先ほどのドラゴンは何処《どこ》へ消え失せたのだろう。
 同じ疑問を持ったのか、アンリも周囲を見回している。だが、自分たちのいるこの岩場には、どう見ても巨大爬虫類が隠れられる場所はない。


「……私たちは……道に迷ったとでも言いましょうか」

 エルフガーデンから飛ばされたと言ったところで信じてはもらえないだろう。
 それどころかエルフガーデンに行けるということを証明しろなどと言われるほうが厄介だ。証明することは容易だが、そんなことをした日にはせっかく預かったトトもその顔を拝む前に取り上げられるに違いない。
 
「何それぇ。道に迷ったからってこんなところまで上る?」

 曖昧な誤魔化しを追求することもなく、女はひとしきりケラケラと笑う。
 笑って、それからいきなり検分するような鋭い目を向けた。グラウスとアンリを見比べ、

「ふたり合わせて200kgってところかな。どう? 1万Gで麓の町まで行ってあげるけど」

 と言い放つ。


 行ってあげる、と言うのは連れて行ってやる、という意味にとってもいいのだろうか。
 グラウスは改めて女を見返す。
 男ふたりを背負って運ぶような怪力の持ち主には見えないから、十中八九、先ほどのドラゴンに乗せて下まで行ってくれる、という意味だろう。そのドラゴンは今や何処《どこ》にもいないのだが。

「ええと、」
「あたしはカリン。このあたりで配達業をしてるの。と言っても人間は滅多に運ばないんだけどね」
「それは……先ほどのドラゴンで、ですか?」
「そう。なに? あたしがお兄さんたちを担ぎ上げて運ぶとでも思った?」


 どうやら本当に先ほどのドラゴンは彼女が飼い慣らしているらしい。
 でも。


「そのドラゴンは何処《どこ》に行ったんだ? って? その前にお兄さんたちはお客さん? お客さんじゃないならこれ以上話すことはないけど」


 人慣れしているということは、人に対して警戒しないと言うことだ。以前、ノイシュタインを襲ったフロストドラゴンのように氷を吐いたりする技は持っているかもしれないが、それでも容易に捕らえることができるだろう。
 彼女はそれを警戒しているに違いない。ドラゴンは兵器として考えれば魔法使いや兵士を束にしたほどの戦力になるし、移動手段としても汽車より早く、また空路だから直線距離で行くことができる。鱗は素材としても高値で取引されている。

 自分たちとしても此処《ここ》でドラゴンを捕まえる気はさらさらない。
 それよりも気になるのは運ばれ方と料金。険しい崖だがアンリは突き落としたところで骨の数本を折る程度で済みそうだし、自分も獣化すれば下りられなくもない。いや、はっきり言おう。1万Gは高い。


「お客さんじゃないならー」
「ふたり合わせて200kgは重すぎだろう!? せいぜい120kgだ!」
「そうですね。6,000G、いやキリよく5,000Gでどうですか?」

 それまで黙っていたアンリが口を挟んで来たのに便乗して値切り交渉に持ち込む。
 ふたり合わせて120kgは少ないだろう、どう考えてもアンリはひとりで90kgくらいありそうだし、とは思ったけれど口には出さない。

「5000んんんんーー!?」
「実を言えば私たちはロンダヴェルグまで行きたいんです。其処《そこ》まで行って頂けるのなら2万G出します」

 さらに畳みかける。
 値切った後に高い金額で別案を持ちかけるのは交渉の常套句だ。

「2万……」

 女《カリン》は唸《うな》る。
 此処《ここ》がウィンデルダ山脈なら、ロンダヴェルグまで2万というのは結構いい値段。馬車や汽車を乗り継げば、日数は倍以上かかるが費用は半額で済んでしまう。


「――構わない」

 その時、また別の声がした。

「ウィンデルダ、」
「ウィン……デルダ?」

 カリンが山脈と同じ名で呼んだのは幼女といってもいいくらいの少女。カリンと揃いの服を着ている。
 地名を名付けられる子供はいないわけではないけれど、名前と衣装。そして現れた場所から言って……。

「その子はもしかして?」
「風がロンダヴェルグに向かって吹いてる。きっと何か起きてる」

 問いを否定しないあたり、彼女が先ほどのドラゴンなのだろう。
 自分《グラウス》のように他の生き物に変化《へんげ》できる少女なのか、少女に変化《へんげ》できるドラゴンなのか。もし前者であるのなら魔族である可能性も拭い切れないが、同族だから危害は加えないだろうという判断でもしてくれたのだろうか。愛想がないので何といえない。
 が、それよりも。

「何か、って」
「風が、違う。これは大地。大地が泣いてる」

 聞かれたことには答えるという概念が欠落しているだけなのだろうか。ウィンデルダは2度目の問いにも答えず、ただ、詩のように言葉を紡ぐ。


 大地が泣いている。
 大地の精霊はメイシア。彼女が座すと言われているのは聖都ロンダヴェルグ。其処《そこ》には今、ルチナリスがいる。
 ウィンデルダは彼《か》の地で何かが起きていると言う。