1-6 つないだ手




「いいですか青藍様。矢尻というのは肉に食い込むような形になっていまして、それを無理矢理抜くと、」

 義兄《あに》の執務室。
 左手をルチナリスに預けたまま、義兄《あに》は執事から小言を言われ続けている。

「だいたい毒でも塗ってあるのが普通のものを素手で受けたりして、もしこれが銀だったら浄化されてもおかしくないところなんですよ」
「だってさ」
「だってじゃありません!」

 言われ始めてから早や1時間。頬杖をついてうんざりした顔を隠しもしない義兄《あに》の態度が執事の舌をさらに滑らかにしているのかどうかは知らないが、よくもまぁネタが尽きないものだ。
 まわりには興味津々の眼差しで見守っているガーゴイルの群れ。その黒山のせいで、広々としているはずの執務室がとても狭く感じる。

 まさか自分たちを取って食う機会をうかがっているのではあるまい。
 しかし、どう見ても彼らは人間ではない。

 だが。

 白い壁と紫檀の机。その背後の壁を一面覆う巨大な書棚。どう見ても見覚えのあるいつもの義兄《あに》の執務室。
 そこに何故《なぜ》、化け物が当然のような顔でいるのだろう。

 そしてこの化け物たちに引き摺《ず》られて何処《どこ》かへ連れていかれた勇者一行も気になる。
 彼らはどうなったのだろう。食べられてしまったのだろうか。
 牙もあるし爪もある。どう見たって肉食系。これだけの数が腹を満たすには3人ばかりでは足りないかもしれないけれど……いや、小間物屋の女店主は朝も一組向かったと言っていた。彼らも同じように倒されて今頃は――! 


「あの、青藍様。この人? たちは……?」

 左手に包帯を巻きながら、ルチナリスはおそるおそる義兄《あに》に問う。

 義兄《あに》はきっと彼らの最期を知っている。それどころか指示していたかもしれない。だってさっきも片付けている彼らに修理費がどうとか言っていた。
 義兄《あに》は彼らの上に立つ人だから。
 魔王……だから?

「俺らはガーゴイルっす!」

 ルチナリスの心の中で猜疑《さいぎ》心がグルグルと渦巻いているとも知らず、化け物たちが胸を張る。

 ……いえ、それは知っています。本で見たことあります。その姿。
 ルチナリスは心の中でツッコミを入れる。
 相手は人間を襲うと言われている連中に酷似しているのだが、今のところ自分たちを取って食おうという気はなさそうだ。

 魔王様の前だから?
 さっきの勇者一行でお腹が膨れているから?
 それとも。

 義兄《あに》を窺《うかが》う。しかし頬杖をついたまま宙に向けられている視線がルチナリスに向くことはない。


「ここに来た勇者はまず俺らと戦うわけっすよ」
「俺らに負けるような雑魚は魔王様の前に立つ資格なんかないっす!!」

 そして聞いてもいないのに、懇切丁寧に教えてくれるのはありがたいと感謝すべきなのか。だるそうに頬杖をついたままの義兄《あに》とは逆に、彼らのアピールが痛い。顔も怖いんだから迫って来ないで欲しい。

「あたしの回りで喋ってた声ってこの人たちだったんですね」

 刺激してはいけない。彼らも、そして義兄《あに》も。
 ルチナリスはなるべく直視しないようにしながら、それでもガーゴイルに注意を向ける。
 動いているガーゴイルを見るのは当たり前だが初めてだ。危害を加えては来ないだろう、とは先ほどからの彼らの様子で察することができるけれど、それも何時《いつ》までもつことか。
 義兄《あに》が一言指示すれば、彼らはその友好的な仮面を脱ぎ捨てて襲い掛かって来るに違いない。

 なのに。
 あたしはどうして彼らに取り囲まれて、義兄《あに》に包帯を巻いているのだろう。

 油断はできない。
 今でも背後では口を開けているかもしれない。いくらこの10年で会話する仲になっていたとしても、あたしの味方だと言っていたとしても、そんなもの口先だけならどうとでも言える。
 声はすれども姿は見えず。空耳ではない声が何度も何度も話しかけてくる環境でよく普通に育ち、なおかつ返事までしていたものだと昔の自分に感心する。
 そして今、その声の主の全貌を目の当たりにして、姿が見えなくて本当によかったとも思う。この顔で話しかけられていたら絶対に会話どころではない。


「ずっと声だけで、誰なんだろうって思ってました」
「お前、小さい時にこいつら見て泣いたでしょうが」

 義兄《あに》の指摘に、そうだっただろうか、とルチナリスは記憶をひもとく。
 遠い昔に、おばけが出たと義兄《あに》に泣きついたことならあった気もする……って、何打ち解けてるのよあたしってば!
 ルチナリスは俯《うつむ》く。奥歯を噛み締める。
 駄目。
 今此処《ここ》で暴れたら、あたしも勇者たちのように食べられてしまう。
 あたしが彼ら《勇者一行》を導いたことも義兄《あに》たちは知っているかもしれない。知っていて、あたしがどう出るのか窺《うかが》っているのかもしれない。


「るぅチャンが怖がるから出てくんなって酷くねーすか?」
「文句があるなら、もっとましな顔に生まれ直して来るように」
「坊《ぼん》……酷《ひで》ぇ……」

 もう姿を隠す気もないのか、部屋中に溢れかえっているガーゴイル。それらが一斉にギャアギャア騒ぎ立てる声を聞いていると、まるで鳥の巣の中に放り込まれたみたいだ。

 黙って。
 静かにして。
 意識が騒ぎに引っ張られる。今まで味方だと思っていた人が、声が、あたしを騙して、ずっと、

「いい加減にしなさい」

 その声にルチナリスは震えあがった。
 しかしすぐにそれが自分に対して放たれた言葉ではないと気付く。
 やけに明るいガーゴイルたちとは対照的に苦虫を噛み潰したような顔をしている男は、いつもの執事の鑑《かがみ》からは想像もできないほど苛々《いらいら》しながら義兄《あに》を見下ろしている。
 今の声はガーゴイルたちを叱責していたのに。
 そんな時でさえ、執事は義兄《あに》だけを見ている。

 そんな視線にさらされているのはかなり居心地が悪いのだろう。義兄《あに》はと言えば顔を背《そむ》けたままで、それがやはり叱られている子供にしか見えない。


「グラウス様怒ってるっす」

 執務椅子に座り込んでさっきからクルクルと回っているガーゴイルが、背中の羽根をバタつかせる。

「坊《ぼん》が怪我なんかするからっすよー」
「……俺のせいかよ」

 能天気な声に、執事と目を合わせないようにしている義兄《あに》がぼやいた。

「手を握りあってる時はこれはもう来たかとドキドキしたってぇのに!!」
「ちょっ、いつ手を握り合った!!」

 動かないで下さい。包帯が巻けません。
 ぞろり、と緩んだ包帯にまで不器用さを嘲笑《わら》われているようで、少し気を抜いただけで自分もまたいつものようにこの「偽りの日常」に引っ張り込まれてしまう気がして。
 ルチナリスは大きく息を吐き出した。



「ルチナリスは不器用ですね」

 そんな声と共に、ルチナリスの手から包帯が消えた。見れば執事が上から包帯をつまみ上げている。もう片手は義兄《あに》の手首を掴《つか》んでいる。

 そうだ。この人も敵なのだろうか。
 この人はずっと人間のままだ。ホールにいた時でさえ、執事のままだった。
 でも、だからと言って味方だとは言えない。執務室の前であたしの肩を掴んだ彼に問い詰められた時、彼からは殺意しか感じなかった。ホールで止められた時だってそうだ。
 今も、

 1時間かかっても包帯ひとつ巻けないメイドに業を煮やしたのか。執事は身を竦《すく》ませた義兄《あに》の傍《そば》に片膝をつくと、そのまま手際よく包帯を巻き始める。たるみもなく、歪みもなく。芸術品かと思うような出来栄えが数分も経たないうちに出来上がる。

 あたしが時間稼ぎをしていると思って、だから包帯を取り上げたのかもしれない。
 敵、かもしれないのに……こんなとこまでやっぱり優秀……とルチナリスの胸の内に僻み混じりの感想が浮かんだ。それと同時に彼女の周囲からはおおおおおおお! と歓喜の声が上がった。
 化け物の目からしても感動する出来なのだろうか、とも思ったが。魔王様を取り囲んでいる彼ら《化け物たち》はルチナリスと同じ光景を見ていたわけではないらしい。

「やっぱり手を握、」
「握りあってない!!」
「坊《ぼん》ってば素直じゃないっすねー。俺らの目には背景に薔薇が見えるっすよ」
「お前らの目がおかしいだけだろうが!」
「おとなしくして下さい」

 ガーゴイルに殴りかかりそうになっている義兄《あに》と、その左手を捕まえて包帯を結んでいる執事。変な構図だけれども違和感は全くない。
 このふたり、化け物たちと馴染み過ぎ。


 これが目の錯覚だったらどんなによかったか。いや、こんなリアルな錯覚があってたまるか。
 ルチナリスは義兄《あに》に目を向ける。
 何処《どこ》も違っていない、いつもどおりの義兄《あに》だ。ちょっと天然でちょっと子供っぽくて、10年間あたしの隣にいたお兄ちゃんだ。
 しかし喧嘩の相手はどう見ても人外で。
 ただの人間なら普通は知りあう機会もないはずの、悪魔の姿をしたもので。


 同じ城の中に10年もいたんだもの、知り合う機会だってあるに決まっている。妙に馴れ馴れしいこの人外が、義兄《あに》たちに話しかけないはずがない。
 それにあたしたちを食べようとは思っていないみたいだし、害がないのなら馴染んだっておかしくはない。喧嘩腰になっても大丈夫なくらい、きっと無害なのよ。
 そう納得しようとする一方で、つい先ほどの玄関ホールでの光景は脳裏から去ってはくれないどころかますます鮮明に浮かび上がる。

 暗闇の中で身を翻《ひるが》した彼を。
 身動きがとれないほどに痛めつけられた勇者一行を冷たい目で見下ろしていた、あの紅い瞳の義兄《あに》の姿を。
 そこで確かに見た瞳の紅《あか》は、今は完全に蒼《あお》の中に消え失せているけれど。

 でも。


「青藍様」

 呼ばれた声に、義兄《あに》は包帯を巻かれた左手を右手で触れながらルチナリスを見た。

「……さっき、お姿が違う気がしました」

 執事が眉間に皺を寄せたまま、探るように横目で義兄《あに》を見た。




「坊《ぼん》はこう見えてもメフィストフェレス様のご子息なんすよ――!」

 あっさりとその沈黙を破ったのは、やはりガーゴイルたちだった。

「いいっすよねぇ。貴族様ん中でもあんな角と羽根持ってるのってそんなにいないんすよー」
「いかにも由緒正しい魔王様って感じでぇ」
「ねー、前の魔王様なんかビジュアルは牛だったもんなぁ」

 化け物たちは一斉にルチナリスを取り囲むと、目を輝かせて「魔王様」の自慢話を始めた。
 自慢?
 あれ? この化け物たち、今、なん、て? お兄ちゃんは……「人間」、なのよね?

 唯一の希望が、違うと思いたかったことが、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じる。


「お前たち。空気を読みなさい」
「あれ、喋っちゃいけないことだったっすか!?」
「いけないことですよ」

 義兄《あに》の傍《かたわ》らに跪《ひざまず》いていた執事はさも頭痛がするとばかりにこめかみを押さえていたが、やがて、すっ、と立ち上がった。
 立ち上がって、ルチナリスを見る。
 ただ見ているだけなのに、まるで義兄《あに》を隠しているかのようだと思うのはただの錯覚だろうか。

「だから言ったでしょう? いくら正体を隠したとしても、偽りの上の生活は何時《いつ》かは脆《もろ》く崩れ去ってしまうんです」

 そして発した言葉も……背に隠した人に向けられているようだった。





 メフィストフェレスって聞いたことがある。
 ルチナリスは記憶の蓋に手を伸ばす。
 ずっと昔、あたしが村に住んでいた時の朧《おぼろ》げな記憶の何処《どこ》かで。あの時、誰かがそんなことを言っていた。

 この世には悪魔と呼ばれる存在がいる。
 その中でも伝承に出てくる悪魔はその力も一際《ひときわ》強い。例えば――。




 思い出した。
 羽根の生えた化け物が茜色の空を埋め尽くした、あの日のことを。




 悪魔の城に悪魔は存在していた。
 ずっと、あたしの隣で。知られないように、ずっと……ずっと真実を隠したままで。





「騙してた、の……?」

 義兄《あに》は答えない。

「騙してたの!?」
「るぅチャンそれは違うっす!」

 義兄《あに》が答えるかわりにガーゴイルたちが割り込む。

「何が違うのよ、悪魔のくせに!」
「悪魔、悪魔って、坊《ぼん》はるぅチャンに何か悪いことしたっすか!?」

 悪いこと!?
 したじゃない。村を、人を襲って。パパもママも神父様も悪魔のせいでいなくなった。今では生きているのかどうかすらわからない。
 あたしに紐を付けて遠くまで引っ張って行ったのも悪魔じゃない。疲れて、足が痛くなって、子供心に死んでしまったほうがどんなに楽かと思ったわ。一緒に掴まった人たちがあの後どうなったのかも、あたしは知らない。
 それだけじゃない、何人もの勇者様たちも。今日あたしが連れてきた人たちも、

「坊《ぼん》がしたことっすか!?」

 ……坊《ぼん》?
 青藍様、が?

 違う。

 そうだ。あたしの隣にいた人は、領民から慕われている領主様だった。
 優しかった。抱きつかれて嫌がる素振りはしたけど、本当は大好きだった。
 ……だった……けど――!

「だけど、魔王じゃない! あたしの村を襲った悪魔の、悪魔の王様なんでしょ!!」

 直接手を下さなくたって手を汚すことは可能だわ。それが魔王なら尚更。
 指示ひとつで悪魔は人間を襲う。

 村を襲えって、あなたが指示したの?
 人間を狩れって、あなたが?
 そのあなたが、どうしてあたしを育ててくれたの? 食べるため!? 何も知らないで自分を慕って来る小娘はさぞ滑稽《こっけい》だったでしょうよ! あたしは、騙さ、


「魔王というのは役職名のひとつにすぎませんよ」

 執事が呟いた。

「勇者の相手をする者を魔王と呼びます。いかにも敵の親玉のような名称にしておけば勇者は必ずここにやってくる。……我々に特定の王はいません」

 何よそれ。そんなことで騙されやしない。
 魔王が本当にあの化物たちの王でも、そうでなくてもどっちでもいい。

 あなたたちは敵。
 あたしの。

 あたしの周りにいるのは悪魔だ。あたしは今、敵の真っただ中にいる。
 奴《やつ》らがちょっとその気になれば、あっという間にあたしの命は消えてしまう。
 でも。
 だからって怯《おび》えて命乞いなんかするもんですか。
 誰が、敵なんかに……!!

 ルチナリスは素早くあたりを見回し、開けたままになっていた救急箱から鋏《ハサミ》を掴《つか》み上げた。刃の部分が短い、細い鋏《ハサミ》。
 それを閉じたまま、両手で握りしめる。刃先を彼らに……執事と、その後ろにいる義兄《あに》に向けて。


 座り込んだまま凶器を手に睨みつけているルチナリスを執事は冷めた目で見下ろしている。
 子供のわがままにうんざりしているとでも言いたげだ。

「憶測だけで他人をなじるのはやめなさい。この人は、」
「……もういい」

 ずっと床のほうを見ていた義兄《あに》がぼそっと呟いた。

「隠してでも置いておくべきじゃなかったんだよ。……もうお終《しま》いにしよう、るぅ」




 お終《しま》い?
 ルチナリスはさらに力を込めて鋏《ハサミ》を握る。
 お終《しま》いって何? これからあたしをどうするつもり? 殺すの? 人間狩りで大勢の命を奪って来たあなたたちなら小娘ひとりくらい造作もないことよね? 
 でも。
 ただでなんか死んでやらない。


「……それでいいのですか?」

 ガーゴイルたちが騒いでいる。
 その中で執事は自分を見上げている小娘など視界から抹殺してしまったような顔で、義兄《あに》を見ている。何時《いつ》刺してくるかもわからないのに、その危険のほうなど気にも留めない。見てもいない。

「もともとるぅは預かっていただけだ。俺とは縁も所縁《ゆかり》もない」

 義兄《あに》は俯《うつむ》いたまま、巻かれた包帯を右手で撫でている。こちらもルチナリスのことなど見ていない。

「うすうすはるぅも感じ取ってるだろう。俺たちの時間とるぅの時間は違う。何時《いつ》かはボロが出る」


 毎日考えされられていた悩みも、あの時感じた違和感も。

 ルチナリスは義兄《あに》の左手に目を向けた。
 白い真新しい包帯の、あの下にあるのは……あれは、あたしを庇《かば》って負った怪我。人間のあたしを、人間じゃないあの人が庇《かば》った時のもの。


 義兄《あに》の見た目が何年たっても変わらないはずだ。
 この人たちはあたしとは違う。
 あたしだけじゃない。この城の外に、この世界に生きている人たちの誰もが義兄《あに》たちとは違う。
 彼らは人間よりずっと長い時を生きる種族。あたしたちたちが「悪魔」と呼んでいる人間の敵。あたしの、敵。敵なのよ。


「それで、いいのですか?」
「そうっすよー。坊《ぼん》、あんなにるぅチャンのことかわいがってたのにィ」
「無理やり押し付けられて手元に置いていただけだ。どうせいつかは外に出すつもりだったし、別に今いなくなったところで、」


 なに被害者みたいなことを言っているの?
 被害者はあたし。騙されて傷ついたのもあたし。


「私には本当の妹に接しているように見えましたよ」
「そう? 騙されただろ」
「青藍様」
「俺は騙してきたんだよ。るぅも、お前も」


 そうよ、騙して来たのよ。

 自嘲気味な義兄《あに》の声と、言葉を選びながら紡いでいるような執事の声だけがルチナリスの耳に届く。


「私は人間は嫌いですが……あなたが笑って下さるのなら小娘ひとりくらい手元に置くこともいいかと思っていました。それを、」


 あたしの村を襲ったのは悪魔だ。
 悪魔が来なければ、村の皆とも、育ててくれた神父様ともずっと一緒に平和なままでいられた。あたしは孤児だったから親も姉妹もいなかったけど、それが最良の幸せだと思っていた。
 ううん、きっとそれも幸せ。
 灯が落ち、子供たちがひとり、またひとりと親に連れられて行って、何時《いつ》も最後に残っても。
 大人にわがままを言って甘える友達を少しだけ羨ましいと思っても。

 あたしには神父様がいるんだって。
 それだけであたしには過ぎた幸せなんだって、そう思って。


 ――デモ 違ッタ。


 そんなあたしを妹だと言ってかわいがってくれたのは、他の誰でもなく、この人で。
 でも、この人は、「悪魔」で。


「押し付けられただけで10年も一緒にいられるものではないでしょうに」
「いたんだよ。不思議だろ?」

 険しい顔をしたままの執事に義兄《あに》は笑う。


 ――ドウシテ。
 どうして、そんな顔で笑っているのよ。騙していたくせに……!




「楽しかったよ、るぅ」

 そんな声がして、ルチナリスの目の前に影が差した。
 義兄《あに》が片膝をついてしゃがみこんでいる。少し躊躇《ためら》ったように手を上げた彼は、そのままその手をルチナリスの手に重ねた。

「お前が悪魔に奪われた人々に比べればとても足りるものではないが、少しは気が晴れるだろう?」

 あたしの手には鋏《ハサミ》が握られている。使った形跡はないが、古びていてお世辞にも切れ味がよさそうには見えない。
 義兄《あに》はその鋏《ハサミ》ごとあたしの手を掴むと――そのまま引っ張った。


「ひ……っ!」

 ルチナリスの喉から空気が漏れた。鋏《ハサミ》の先は義兄《あに》の胸に刺さっている。黒いベストに一際色濃い染みが広がっていく。

 パパを、ママを、神父様を悪魔に殺された恨みを、「悪魔」である義兄《あに》の身で晴らせと、そう言いたいのだろう。そうしたのだろう。

 でも。

 晴れない。
 それどころか後悔しか湧いてこない。

 あたしは悪魔を、魔王を刺したのに。
 恨みを晴らしたのに。

 違う。

「違う……」

 違う。
 だって少し前まであたしのお兄ちゃんで。
 あたしを庇《かば》って怪我をして。
 この10年、ずっとあたしの隣で、あたしの隣にいてくれて。なのに。


 ――敵。


「違う……っ!」

 ルチナリスは義兄《あに》の手を振り払うと、鋏《ハサミ》を投げ捨てた。

 違う。
 この人は魔族で、悪魔で、だけど違う。
 ミバ村を襲ったわけじゃない。パパやママを殺したわけじゃない。

 悪魔だけど、悪魔だってだけでその罪を負わなきゃいけないものなの?
 ここで義兄《あに》を刺して、それであたしの気は晴れるの? 仇《かたき》を討った、って思えるの!?

「あたしは、そんなことは望んでな……」


 ――矛盾シテル ン ジャナイ?


 心の中でもうひとりのあたしが囁《ささや》く。

 ――ツイ サッキノコト ヨ? アタシハ 何テ言ッタノ?
   悪魔ダ、ッテ。敵ダ、ッテ。ソウ言ッタンジャナイ。
   ソレナノニ 「殺スノハ望ンデナイ?」
   悪魔ガ ヒトリ 減ルノニ? 憎イ悪魔 ガ。悪魔ノ親玉 ガ。


 あたしは義兄《あに》を憎んでなんかいない。


 ――デモ、悪魔ダワ。


 悪魔だから、それが何? 人間だって悪いことをするじゃない。
 あたしがここで義兄《あに》を刺すのは、お金を盗んだ犯人とは違う通りすがりの人だけど、同じ人間だから弁償してもらっていいよね、っていう暴論と同じ。


 ――ソノ暴論ヲ サッキ アタシハ 自分デ言ッタ ノニ?


 そう、だけど!



「……るぅ」

 心の中でふたりのルチナリスが言い争っている中、義兄《あに》は義妹《いもうと》であった娘の頬に手を添えた。

「何にせよお別れだ」

 蒼い瞳にゆらりと紅い光が灯る。

「これからは人間として人間の中で生きなさい。いいね、”ルチナリス”」





 視界がぼやける。
 いや、ぼやけている。目の前の光景が、歪んで混ざって霞んでいく。
 ガーゴイルたちも、無言で立っている執事も、悲しそうな義兄《あに》の笑みも。白く。


 目が覚めたらみんないなくなってるのかな。
 あたしのそばに誰かいたことも、忘れちゃってるのか、な。
 あたし……。


『どうか、青藍様がもっと笑ってくれますように――』


 ふいに、耳の奥で幼い日の自分の声が聞こえた。

 あれは何。
 あたしが言ったの?


 その声は小さな鈴のように真っ白な中を跳ね回る。
 その跳ねた場所に光の輪が広がっていく。


 リィ……ン、リィ……ン……と。