ガラガラと揺れる馬車の音で目が覚めた。
ここはどこ?
揺れる振動に身を任せたまま、ルチナリスの脳裏に浮かんだのはその5文字。
目の前にあるのはネズミの毛皮みたいな毛足の短い生地でできたワイン色の長椅子。たぶん、椅子。
本で見た――確か、馬車や汽車の椅子がこんな感じだった。
視線を巡らせて次に目に入ったのは、飴色の天井と、金の枠で収められた窓。天井には花なのか鳥なのか曲線混じりの模様が描かれている。
窓に目をやれば、木のような影が瞬く間に現れては通り過ぎていく。
この不規則な振動と狭さから考えると、ここは馬車の中だろうか。
乗ったことはないけれ、ど……。
「え!?」
跳ね起きた。
体にかけられていたのであろう黒い上着がずるり、と落ちかけ、慌てて捕まえる。引っ張り上げると襟元を飾る金色の徽章《きしょう》が光を反射した。
これは少なくとも自分の服ではない。見たことがない。
そして。
今まで頭を預けていたのも、見たことのない人の「膝の上」。
何故《なぜ》!?
と言うか、この人誰!?
思わず身を引くと、硬いもので背中を打った。
柔肌に一撃を食らわせたのはどうやら扉の取っ手らしい。ぶつかった衝撃で開きでもしたら今頃は高速で回る車輪に切り刻まれているところなのだから、背中に痣《あざ》ができるくらいはラッキーだったと思うべきだろう。
けれどラッキーで痛みが和らぐわけじゃない。子供らしく大泣きして暴れまわりたいくらいだけれども、それはできない。
だって。
膝を貸してくれていたその人は、窓枠に頬杖をついたまま眠っている。
ルチナリスは涙目のままその人を見上げた。
睫毛が長くて、色も白くて、指も細い。後ろでひとつに結わえられている黒い髪は背に流すほど長く、触ってみたくなるほどさらさらしている。
服装からいって男の人、なんだろう。しかし村にいた男性陣とはまるで違う。
彼らは皆一様に日焼けして浅黒い肌をしていて、丸太のような腕をしていた。
養父でもあった神父は肉体労働系ではなかったけれど、それでもこの目の前の彼とは比べようもない。
「……誰?」
だが、問いかけたところで返事が返って来るはずもなく。
ここはどこ?
この人誰?
あたしどうしてこんなところにいるの?
事情を知っているであろう人を起こすわけにもいかず、ルチナリスはただひとり、必死に頭を巡らせる。
『かわいこちゃん、見~っけ』
そうだ。あたしは悪魔に捕まったんだ。
ルチナリスの脳裏に、あの光景が浮かんだ。
空を真っ黒に覆う異形の群れが。
火に呑まれていく村が。
駆けていく神父の後ろ姿が。
そして、自分の背後に立っていた化け物が。
あたしは悪魔に捕まった。ミバ村の人もそうじゃない人も、そんなたくさんの人たちと一緒に。
何日も歩いて、見たこともないお城に行った。
羽根が生えていたり目がひとつだったりする、そんな化け物に引っ張られて。
食べられるんだ、って誰かが言った。
もうおしまいだ、って声も聞いた。
怖いとかそんなことより、疲れて、足が痛くて、喉が渇いて、おなかが空いて。
『なにトロトロ歩いてんだよ、クソ餓鬼《ガキャ》ぁ!!』
記憶の中の場面が変わる。
化け物が叫ぶ。足を上げる。
もうどうでもよかった。
踏み潰されて死んだとしても、それでよかった。
これでもう苦しくないんだって、そう思……
……そこに、誰かが来た。
視界にふわりと見えた。黒い、長い髪が。
あれは。
ルチナリスは眠る人の肩に伝う髪に目を向ける。
この人。なの……?
そんなルチナリスの気配を感じたのだろうか、彼はわずかに目を開けた。
ゆるりと、引きつった顔をしている幼女に目を向ける。
まずい。
起きてしまった。
どうしよう。
さながら蛇に睨まれたカエルの如く……いや、睨まれてはいない。相手は寝ぼけたような目でぼーっとこちらを眺めているだけだ。
それなのに動けない。目を背けることもできない。
ガチガチに固まったまま、ルチナリスはただ同じように彼の目を見返した。
不思議な色をしている。
蒼《あお》い中に紫が混じっている。光の加減で桃色や紅にも見える。
なにもかも見透かされてしまいそうな、それでいて自分のことは何ひとつ見せようとはしない、そんな拒絶を感じる。
コレハ、ヒトノ目ジャナイ。
でもこの人はどうみても人間だわ。悪魔とは、あんな化け物とは違う。
視線を離すこともできないまま、ルチナリスは思う。
人間。
この人は、人間。
どうしてそんなことを必死で考えようとしているのかすらわからないままに、何度も何度も頭の中で繰り返す。
コノヒトハ。
この人は人間よ。
あたしを助けてくれたのよ。
コノヒトハ、ニンゲン。
考えれば考えるほど、嘘を信じ込もうとするような違和感に襲われる。
コノヒト、ハ……。
飲み込まれる。目に。
「あ、あの、ありがとう、ございました……っ!」
ルチナリスは叫んだ。
叫んだ途端に、パチン、と体の自由が戻った。
なに? 今の。
彼はそんなルチナリスをなおも無表情のまま見つめていたが、やがて面倒くさそうに目を逸らした。
記憶とつないで考えれば、この人があの悪魔たちから助けてくれた、と考えるべきだろう。
ルチナリスは膝の上で握ったままの自分の両手に目を落とす。戒めていた|枷《かせ》はない。
「あの、」
「俺は言われたから入っただけ」
しばらくして彼は窓に向けていた顔を戻し、ルチナリスを一瞥した。
双眸《そうぼう》は|蒼《あお》い。さっきの不安を煽り立てて来るような、不思議に入り混じった色ではない。
あれ?
さっきと目の色が違う。
「怪我は?」
「な、いと思います」
何だったのだろう。目の錯覚だろうか。寝起きで自分の目が変だったのだろうか。ほら、よく寝起きって視界がぼやけていたりするでしょ?
直視するとまた動けなくなりそうで、ルチナリスは視線をわずかにずらし、宙に向ける。視界の端に彼がいる。じっとこちらを見ている。
こんな蒼なら普通。
綺麗な蒼だけど、まだ、普通。
「そう」
こうやって聞いてくるのはさっきの「ありがとう」の効果なのだろうか。
しかし聞いてはいるけれど、ルチナリスが怪我してようがいまいがさして興味はない様子もうかがえる。
それを証拠に、彼はそれ以上聞いてこない。
ルチナリスも聞くことができない。
ガタガタと揺れながら馬車は進む。
窓の外の景色は先程までの木々から崖のような岩肌に変わっている。
道が細いのだろうか、迫り出した岩が時折、窓硝子《ガラス》に当たる。
随分長く乗っている気がするけれど、何処まで行くのだろう。
ルチナリスは切り立った岩肌を見上げる。
こんな荒々しい岩は見たことがない。この馬車は、きっとミバ村へは向かっていない。
本当に助かったのだろうか、という不安はずっとぐるぐると渦を巻き続けている。
彼が何も言わないのは、この先に待ち構えているものが悪夢だからではないのだろうか。
でも聞けない。
あの目で見られたらまた動けなくなりそうで怖い。
「……お前は俺の召使いって扱いで連れて行くことになった。不本意だろうが食われるよりはましだと思っとけ」
言いたげな気配を感じ取ってくれたのだろうか。彼はぽつりと呟いた。
召使い?
馴染みのないその単語にルチナリスは再び固まった。先ほどとは違う意味で。
うわ、この人いっぱい侍《はべ》らせていそう。爪の手入れをする召使いとか。
長椅子に寝そべって召使いに爪を磨かせているところなんか容易に想像できる。
背中に薔薇まで背負っちゃったりし……だ、駄目よルチナリス! いくらなんでも初対面の人にこんな想像したら!!
「……なに?」
彼は怪訝な顔をルチナリスに向ける。
「え、あの、えっと」
どうしよう。
薔薇の中で爪を切らせている光景を想像しました、とは言えない。
「名前は?」
「ル、ルチナリス、です」
「ふーん」
動揺したままこちこちになって答えるルチナリスとは逆に、彼はだるそうに呟く。
これもさっきの「ありがとう」の効果なのだろうか。しかしやっぱり興味を持っている様子はない。
でも。
食われるよりまし、ってことは、あたし、もう食べられないの、よ、ね? ルチナリスはおそるおそる彼を見上げる。
それで何でだかよくわからないけれど、この人の召使いになった、と……。
……………………なんで?
言っちゃなんだけど、あたし子供よ?
それでもいいの?
そういう趣味なの!?
駄目だ。子供の理解の範疇《はんちゅう》を超えている。
どうやら命は助かったらしい、ということだけは確かなようだけれども。
「あの、これからどこに行くんですか?」
そう。助かったのだ。あたしだけ。
あたし、ひとりだけ。
一緒に捕らわれた人々の顔がよぎった。
彼らはどうなったのだろう。生きているのだろうか。助け出されたのだろうか。
でももし違っていたのだとしても、彼らも助けてくれ、とは言えない。
いやだ。
あたし、自分だけ助かったっていうのに、ほっとしてる。
あたし、嫌な、子。
彼は煩《わずら》わしげに前髪をかきあげた。
指からするりと抜けた黒い髪がそのままさらさらと額に流れ、定位置に納まる。
さっきと全然変わっていない。と言うより今の仕草って、あたしの愚痴を拒否したような、そんな唐突な所作だった。
聞きたくない、って言われたみたいな……。
「ノイシュタイン」
「ノ、イシュタイン……?」
唐突に声が聞こえた。
顔を上げると、彼が黙って見下ろしている。
「ノイシュタイン」
それがこの馬車の行き先なのだろうか。
村が世界の全てだったルチナリスにとって、それは全く知らない名前。
「俺のことは青藍、と呼ぶといい」
「青藍、様?」
青藍様。ルチナリスは心の中で何回も復唱する。この名前は憶えておかなきゃいけない。大事な、あたしの新しいご主人様になる人の名前なんだから。
それにしても、自分の名前も大概《たいがい》だと思っていたが、さらにその上を行きそうな名前だ。この横文字ばかりのご時世にそれが本名? 源氏名とかじゃなくて?
わからない。
本当に全然わからないけれど、全然興味もなさそうなんだけれども、でも、今のあたしにはこの人しかいないのだ。
この人にいらない、と言われたら、あたしはまたあの悪魔たちのところに返されるかもしれない。変わった名前だけど、そんなところを指摘して機嫌を損ねるわけにはいかない。
ルチナリスは青藍と名乗った人を窺う。
「あの、」
発した声と同時に、突然、窓の外がひらけた。光が差し込む。馬車の中が明るくなる。
窓の外に現れたのは――
「海! 青藍様、海ですよぉ!!」
ルチナリスは思わず青藍の腕を掴んで揺さぶった。
「うわぁ! はじめて見ました! うわ、きれいっ!!」
『――あたしはきっと、一生海なんて見ることなどないのだろう』
これが海。
村にあった池とは全然違う。
ただ水が溜まっているだけ、ではなかった。こんなに広くて。こんなにきらきらしていて。
『おひっこし先はね、海の近くなんですって』
メグもこの海を見たのかな。どう思ったのかな。
海の近くの町なんて数えきれないほどあるから、ノイシュタインで会うことはないだろうけれど。
ああ、その前に。
ルチナリスは口を噤んだ。
メグは、無事なのだろうか。
「これからは毎日見られる」
新しい主になる人は頬杖をついたまま、そう言ってかすかに笑う。
その笑みにルチナリスも笑みを浮かべる。
そうだ、今は笑っていなくては。過去を思い出して暗くなっているわけにはいかない。いつも明るく元気よく。大人はそういう子供が好きなのよ。この人だってきっとそう。
大丈夫。
上辺だけで笑ってみせるのは得意分野だわ。
「……う、わぁ」
ルチナリスは上を見上げたまま口を開けた。
城。
到着して馬車を下ろされた彼女の目の前にそびえたっていたのは、石造りの古めかしい城だった。
鬱蒼《うっそう》と茂る木々も伸び放題の庭も、どう見たって長い間誰も住んでいませんでした、としか思えない半分廃墟のような城だが、城であることには間違いない。
それをまたとんでもなく高い鉄柵がぐるりと囲んでいる。泥棒よけにしたって高すぎる。
まるで牢屋の檻のよう。そうルチナリスは思う。
彼はどうやらこの城に越してきたらしい。
そして自分はこの城で召使いをするらしい。
それは察しがついたのだが、他の召使いはもう来ているのだろうか。
突っ立っていても誰かが出迎えに出て来る様子はない。
窓にも庭にも人影は見えない。
誰か来ているのならこんなに庭が酷い状態のはずがないから、これから来るということなのだろうか。
もし召使いなんだからこの城をひとりで掃除しろ、だなんて言い出したら……。
って。
「ま、待って下さい! 青藍様ぁ!」
あたりをきょろきょろと見回している子供など忘れてしまったかのように、さっさと歩いて行ってしまう彼をルチナリスは慌てて追いかける。
城への道の両端には異形の石像。
羽根の生えた化け物の姿は村を襲った悪魔に似ている。
それがずらりと従う中を歩いて行く後ろ姿はまるで……。