22-14 去り行く星々のための少歩舞曲~Menuett~



 白々と夜が明ける。
 禍々《まがまが》しかった紅《あか》い月は何時《いつ》しか姿を消し、生まれたばかりの頼りなさげな太陽が昇りつつある。
 馬のいななきが遠くで聞こえる。挙式に参列するために夜通し馬を走らせてきた招待客だろうか。それとも帰路につく者だろうか。


「新郎がいなくなってしまったのではどうしようもありませんものね」

 窓辺に佇《たたず》む銀髪の女性が、窓の外を眺めながら呟く。
 今日執り行われるはずだった婚礼の儀は新郎である紅竜の失踪により急遽《きょ》中止となった。招待した各家々にはライン精霊を使って中止の旨《むね》を伝えたものの、なにぶん魔界全土からやってくるため既《すで》に出立してしまった人々も少なくない。そんな彼らに断りを入れなければいけない。
 昨夜までに到着していた人々には先ほど伝えたところ。魔界貴族の中でも特に紅竜に従っていた人々だし、集まった人数が昨夜に比べて段違いに減っていることから勝手にいろいろと想像してくれたのだろう。彼《か》の人の機嫌を損ねてはいけない、と無理やり納得したようだ。
 その機嫌を窺《うかが》う相手はもういないと言うのに。

 だが、今此処《ここ》で紅竜が消えたことを公《おおやけ》にすることはない。
 王を失った国が後釜を狙う者によって内乱に陥《おちい》るように、と言うと多少具合が変わって来るが、隙《すき》に乗《じょう》じて私利私欲に走る者はどの世界にもいる。

 貴族どもが勝手に決めたことだと言うかもしれないが、人間界の狩場はそれぞれの家ごとに決められている。それを荒らされることも無駄に防御を固められることも避けたい。その地を管理する家ばかりが「運が悪かった」では済ませられない。明日は我が身になりかねない。

 精霊界や、今回高みの見物で終わった天界が混乱の隙に魔族の力を削ごうと策を講じて来ないとも言えない。
 それを防ぐには紅竜の存在はまだ必要だった。
 かつて彼《紅竜》が「稀代の大悪魔」と恐れられていた前当主の死を伏せていたように、闇の呪縛が解け、紅竜がいなくても外から、そして中から崩されることがないよう地盤を固めるまでは。

 その一連を采配したのが銀髪の彼女。
 若く見えるがヴァンパイア一族の長《おさ》であり、アイリスとキャメリアの祖母。そして今回の婚姻が成立すれば紅竜にとっても義理の祖母になる予定だった。
 メフィストフェレス側が紅竜どころか前当主とその夫人、さらには老齢の親族すら全滅している今、婚礼を取りやめる旨《むね》を招待客に伝える役目を担《にな》えるのは家令くらいだが、運悪くこの家の家令は不在。犀《さい》の家令職就任も婚儀が終わってからを予定していた。
 メフィストフェレス側の問題だからと我《が》を通したところで、上下関係を重んじる魔界貴族を相手に、犀《さい》や他の面々ではごねる者も出かねない。というわけで、他家ながら親族に値すると理由を付けて彼女に頼んだというわけだ。
 彼《か》の家は落ちぶれたと言われて久しいが、長く貴族たちをまとめる立場にいただけあって表立っては文句を言う者もいない。この時ばかりは彼女が生き残っていてくれてよかったと思わずにはいられない。


「それにしても、」

 彼女は結い上げた銀髪の首筋にほつれ落ちた分を指先で弄《もてあそ》びながら、遠い空を見上げる。
 長く不仲だったとは言え、何百年、何千年も前は盟友であり、また個人的にも旧知でもあった前当主が何時《いつ》の間にかこの世を去っていたことを悲しんでいるのかもしれない。

「本音を言えば、私どもはメフィストフェレスが失墜《しっつい》することを望んでおりました。過去の栄光に|縋《すが》り、時代に取り残されるのは時代が悪いからだ、紅竜のやり方は間違っていると……彼の努力に目を瞑《つぶ》り、運がいいだけだと嗤《わら》うことで権威《けんい》を保つ。そんな私どもが闇に呑まれたのはある意味当然かもしれません」




 何故《なぜ》ヴァンパイアの長《おさ》である彼女が此処《ここ》にいるかと言えば、話は数時間前まで遡《さかのぼ》る。

 彼女の元にこの城で起きていることを伝えに走ったのは柘榴《ざくろ》だった。
 アイリスに合流すると言ってルチナリスたちと別れた彼は、そのアイリスに指示されるままゲートを介してヴァンパイアの城に戻ったらしい。
 曰《いわ》く、自分《アイリス》の仕事が終わるのを待ってからでは遅いから、先に行って祖母《長》にこのことを伝えてくれ。闇の呪縛から解き放たれているはずだから、と。
 柘榴《ざくろ》にしてみれば何がなんだかわからないが、アイリスの指示は絶対。そしてアイリスにはアーデルハイム侯爵が付いているから(命の危険の前に貞操の危機をひしひしと感じるのだが、よもやこの状態でアイリスに迫《せま》りはしないだろう)、と、自分を無理やり納得させて走ったそうだ。


 そのアイリスの仕事、とは。
 犀《さい》からキャメリアに伝わっていたそれは、簡単に言えばメフィストフェレスの城ごと巨大な魔法陣で包むというものだった。


 封印が解かれて以降、闇は勢力を拡大し、今や城全体に広がってしまっている。
 次元の綻《ほころ》びを伝って精霊界、人間界にも飛び火している。
 そして彼《か》の地で負の感情を集め、さらに肥大化している。

 前当主と第二夫人の策は闇を消すためには最善かもしれないが、それは闇が一箇所に留まっていればの話。あちこちに広がりまくった今の闇では、下手をすると処置が終わる前に伸びた|蔓《手足》の|何処《どこ》かを通じて別世界に逃げられる可能性も高い。

 だから闇の大元《おおもと》を他の世界から、そして城の外から切り離す必要があった。
 供給が止まれば闇はこれ以上大きくなれない。紅竜と青藍が中に残るが、前当主と第二夫人の策が発動すれば青藍の魔力はそのまま闇にとっての毒となる。紅竜自身の魔力は大したものではないし、使用人や兵士の魔力は紅竜以上に|乏《とぼ》しい。作戦当日に城内にいるであろう来賓は……なるべく闇に食われないよう善処するつもりだが、もし食われれば運が悪かったと諦めてもらうしかない。

 切り離したところで、他の世界や魔界のあちこちには切れ端となった闇が多少は残るだろう。
 が、それはそれ。大元《おおもと》を片付けるよりはずっと楽に処理できるはずだし、向こうには光魔法の使い手も大勢いる。自分たちは、そこまで手は広げられない。


 そして描き方も一筋縄ではいかない。
 竜封じの呪符に代表されるように、封印効果を持つ魔法陣は術者の命(もしくはそれに代わるもの)で描く必要がある。青藍は自《みずか》らの血を使ったが、城全体を覆う魔法陣ともなると生き血は現実的ではない。

 犀《さい》が採った方法は精霊の力を使うことだった。
 隔《へだ》ての森を通る鍵としても使われる精霊の力なら、逆に精霊界や人間界と繋《つな》がった道を断つにも効果が高い。命を対価にする危険も最小限で済む。
 ただ、時間はかけられない。描き切る前に第三者がその線を横切れば失敗に終わる。何より、精霊は歩いても走っても、飛んでも遅い。
 運の良いことにこの城には精霊が大勢いた。
 ひとりひとりの距離を短く、そして魔法陣のあちこちに配置させた上で一斉に描き始めれば短時間で済む。エリックが見かけた竈《かまど》の精霊は、まさに魔法陣を描いている最中《さいちゅう》だったと言うわけだ。
 

 しかし犀《さい》も闇に蝕《むしば》まれていた。
 浄化を司る水晶の精霊とは言え、限界というものがある。魔法陣を描くための精霊たちは決して闇に堕とすわけにはいかなかったし、紅竜の傍《そば》にいる自身も闇堕《お》ちするわけにはいかない。
 なまじ作戦内容を知っているが故《ゆえ》に、自分自身が闇の手先となって邪魔をするかもしれない。


「ですから、」

 犀《さい》は少し離れたところで壁にもたれ掛かっている。
 直立不動の姿勢が保てないのは、アンリが言っていた「闇をなんとかした」時に生死を彷徨《さまよ》ったからであるらしい。
 はっきり言えば彼がもっとオープンにいろいろ教えてくれればしなくてもいい苦労もあったのだが、隣にいるジルフェが「文句を言ったらお前ら全員半殺し」とでも言いたげな顔をしているせいで何も言えない。エルフガーデンで「同胞《はらから》を守る」と言っていたアレだとしたら、下手なことを言おうものなら本気で殺《や》られかねない。


 闇に蝕《むしば》まれた者は記憶を失くす。
 その者の最も大切にしていた記憶を消してしまう。
 海の魔女や青藍を始め、各所で闇に呑まれた人の症状を集めて回るうちに出た結論はそれだった。
 海の魔女は領主に恋い焦がれていた気持ちが、青藍はノイシュタイン城にいた時の10年が消えた。キャメリアや紅竜もそれぞれ記憶が欠落している。

 そして自分《犀》にもその兆候が見え始めた。
 前当主から受けた命《めい》――闇を封じるためのこの策――を忘れそうになっている自分に代わって作戦を遂行してくれるもうひとり。できれば闇に蝕《むしば》まれていて既《すで》に記憶の欠落が始まっている者がいい。
 彼《彼女》にとってこの作戦は所詮《しょせん》他人ごと。こちらがどれだけ重大だと思っていても、2番目にしかなり得ない(消えることがない)のだから。


 紅竜より先に闇堕ちの兆候が見られたキャメリアに話を持ち掛けたのは博打だった。
 が、この城に自由に出入りでき、日頃はこの城におらず、また幼少期から何かと面倒をみてきただけあって多少の「お願い」を聞いてくれる彼女は都合がいい。アイリスは幼過ぎるし、まだ闇に蝕《むしば》まれた形跡がないのがネックになる。



 もし自分が闇堕ちしてしまったら、代わりに精霊たちを指示してほしい。
 それがきっと紅竜を救うことになるから。


 キャメリアが断れないであろう一言を添えた自分勝手な願いを、彼女は覚えていてくれた。
 それを遂行する前に彼女は消えてしまったが、記憶だけはアイリスへと受け継がれ……


「でもね。銃でぶっ放すのはやめてほしいわよ。生きた心地がしなかったわ」

 ぶすくれているのはスノウ=ベル。
 闇に蝕《むしば》まれている犀《さい》が完全に精霊たちを守ることができなかったために、数人が作戦開始以前に闇堕ちした。足りなくなった箇所の代打として起用されたのが彼女だ。エリックと共にいたガーゴイルが彼女の時計を持っていたのが仇《あだ》に、否、役に立った。
 しかし前述したように精霊は飛ぶのが遅く、また数人の代打なので距離が長い。そこでアーデルハイム侯爵の銃で撃ち出されるという、悪い冗談にしか聞こえない目に遭《あ》ったらしい。
 

 そんなことで、とにかく魔法陣は完成した。
 闇を遮断できたことで城外で闇の呪縛にかかっていた人々は正気を取り戻し、その中にはヴァンパイアの長《おさ》も含まれていたというわけだ。




 ルチナリスは懺悔《ざんげ》を口にするヴァンパイアの長《おさ》を見上げる。
 アイリスたちと行った夢の世界では、彼女は家のためならアイリスを処分すると言い放つような非情な面を見せていた。
 あの世界は自分たちの記憶が少しずつ反映された世界。物腰が上品な物わかりのいい女性に見える彼女《長》も、本当は非情なのかもしれない。紅竜を「運がいいだけ」と嗤《わら》った彼女こそが真実なのかもしれない。この人たちが紅竜を認めていれば、彼は救われていたのかもしれない。

 いや。

 彼らだけに非を問うことはできない。
 あたしも同じだったから。




「……すっかりこの家の当主きどりだな、あの婆さん」

 ヴァンパイアの長《おさ》がアイリスを連れて応対のために席を外した後、師匠《アンリ》は彼女が出て行った扉を睨みつけた。

「いっくら前《さき》の封印の時の生き残りだからって、アイリス嬢も余計なことを」
「余計なことなんですか?」

 いくら姻戚《いんせき》関係になる「予定」だったとしてもその予定は白紙に戻ったわけだし、だったら当主面《づら》して仕切るなと言いたいのかもしれない。けれど「来客に事情を話して頭を下げる」なんて厄介ごとを引き受けてくれるなんて、あたしなら喜んで譲る。
 この旅で何度も思ったけれど、師匠《アンリ》に限らず魔族の人々は「自分の家のことは自分たちでどうにかする」という発想に至ることが多い気がする。
 「紅竜が闇の封印を解いてしまったから、封じ直すのはメフィストフェレスで。他家には頼らない」と言う考えが、義兄《あに》を犠牲にするあの策に行きついたのではないだろうか。

「あー……この家にとっては、な」

 師匠《アンリ》曰《いわ》く、遥か昔、闇をあの部屋に封印した時に共闘した人々のひとりがヴァンパイアの長《おさ》なのだとか。
 当時の当主を始めとする大勢がそれで命を落としたというのは聞いていた。だがその場にいた全員が亡くなったわけではない。当時のことが語り継がれているということは、当然、語り継ぐ人がいるということで、それが今は亡き長老衆や彼女《長》だと言うわけだ。
 長老衆がジルガディカの戦いと呼んでいたそれは「存在しているはずがないと言われていた魔法属性」を相手にするという、当時の魔族にとっても前代未聞の戦いだった。だからこそ門外不出の禁術なども多く使われた。
 その時にどの術が使われたかを覚えているのは、今となっては彼女《長》ひとり。
 さらに今回は、前回に比べて人数が格段に少ない。どの術が闇に対して効果があるか、なんて確認している暇はない。第二夫人の策が失敗した時、もしくは完全に闇を消滅させることができなかった時に咄嗟《とっさ》に封印だけでもできるよう、彼女《長》を呼び寄せたのであるらしい。

 それを「アイリスはまだ若くて”自分の家のことは自分たちで”という考えに凝り固まっていなかったから、長《おさ》に救援を頼んだのだ」と考えるか、「アイリスにとっての”自分の家”はヴァンパイア一族のことだから、その長《おさ》に助けを求めるのは当然」と考えるか、そのあたりは第三者が判断することではないけれども。


「第一、前回だって何人が命を落としたと思ってんだ。いくら効く術がわかってるからってあの婆さんひとりじゃ荷が重すぎんだろ」 
「アイリス嬢もご存じでしょう。カーミラ様《ヴァンパイアの長》の後継ですし、開かれていないゲートを強制的に繋《つな》ぐのも禁術のひとつですからね。アーデルハイム侯爵は分家筋ですから教えてもらえていないかもしれませんが」
「に、したって」


 開かれていないゲートを繋いだというのは、ノイシュタイン城に乗り込んで来たアレのことだろうか。ルチナリスはアイリスと初めて会った時のことを思い出す。
 同じ年頃(と言っても人間と魔族では2桁、3桁の差があるけれど)の女の子だと思ったし、恋愛話など自分以上に食いついてきていたが……師匠《アンリ》は納得できないでいるようだが、何にせよそのために長《おさ》を呼び寄せたと言うことは、アイリス自身もその「命を落とすかもしれない禁術」を使う覚悟をしていたと言うこと。
 あたしと同じ年頃で。
 なのにあたしには、そこまでの覚悟はない。

 とにかく、文句どころか感謝しなければならないことだとは思う。それは師匠《アンリ》もわかっている。だから彼女《長》のいないところで愚痴っているのだろう。


「使える権威は使っておけば良いんですよ。長《おさ》が今回のことで気を良くして必要以上に口出ししてくるようになったのなら、この世からご退場いただけばいいだけのことです」

 窘《たしな》めるどころか師匠《アンリ》の愚痴を茶化すように、犀《さい》が薄く笑う。

 師匠《アンリ》が言っていた「これ以上闇が出て来られないようにする何か」はやはり彼《犀》がしたことらしい。遂行するにあたって彼は命を落としかけたと聞くが、それも「自分の家のことは自分で」の弊害だろう。
 応急処置を施《ほどこ》したガーゴイルと柘榴《ざくろ》曰《いわ》く「本当は横になって休むべき」重傷だそうだが、こうして起き上がっているのは職務に忠実《ワーカーホリック》すぎるからなのか、確実に歴史の1頁《ページ》になる事件は自分の目で見ておきたいからなのか。

「おま……婆さんに聞かれたら首が飛ぶぞ」
「その時は仇《かたき》を取って下さいね。陸戦部隊長殿」
「だからそれは過去だって、」


ヴァンパイア一族は落ちぶれたと言われて久しいが、長《おさ》自身の魔界貴族全体への影響力は「誰も文句が言えないから挨拶役に最適」などという理由で白羽の矢が立ってしまうほど、未《いま》だ衰えてはいない。だからこそ紅竜が消え、当主も代理人も不在、いるのは当主夫人(予定)のみとなったこの家に、「長い付き合いがある家だし、これも縁なのでしょう」と後見人さながらに出張って来られるのは|有難《ありがた》い反面、乗っ取られそうで心配だ、という師匠《アンリ》の考えもわからなくはない。
 長年にわたる関係悪化でこの家に悪い印象を持っているのではないか? この家を潰しにかかるのではないだろうか。潰さないまでも財産から何から搾り取られるのではないか? だったら……と物騒な考えに行きそうになるのもわからなくはないけれど、そうして目障《めざわ》りな者を片端から抹殺していったのが紅竜なわけで。彼に反発したおかげで闇の餌にされることもなく生き残った師匠《アンリ》たちが、彼を踏襲《とうしゅう》するのはどうよ? と、第三者のあたし《ルチナリス》でも思ったりするわけで。


「本当のことでしょう? 紅竜様は常々仰《おっしゃ》っていました。”大した力もないのに先達《せんだつ》が築いた権威にあぐらをかいて威張り散らしているゴミが多すぎる” と」
「ま……ぁ、魔族は実力主義って言うわりに逆行してるとは思うけどよ」
「居座る無能な権力者など引き摺り下ろしてしまえばいい。無論、この家も例外なく、な。
 |あの銀髪《グラウス》の生家は武勲を立てて爵位を手に入れたのだろう? 力こそが正義。いいじゃないか。兵たちの士気も上がる」

 師匠《アンリ》と犀《さい》の会話に横からジルフェが口を挟む。
 
 何故《なぜ》ジルフェが執事《グラウス》の家のことを知っているのだろう、と思わなくもなかったが、きっとトトを預ける時や返された時に会ったに違いない。「引き摺《ず》り下ろせ」と言ってしまうくらいだからジルフェも魔界貴族の例の上下関係を好意的に見ていないことが窺《うかが》える。
 だからこそ、実力でのし上がった執事《グラウス》の家のことが記憶に残っていたのかもしれない。


「そう言やぁ、お前、ポチのことをエルシリアの孫って言ってたな」
「四大精霊様に向かってとうとうお前呼ばわりか」
「敬語は気持ち悪いからやめろって言ったのもお前だったよなあ!?」
「知らん」

 ジルフェは遠く、窓の向こうに目を向けた。
 薄青の空に、水気の多い絵の具を刷毛でさっと塗ったような雲が広がっている。あの空は執事《グラウス》の生家で何度か見上げた。凍てついた冬の空だ。

「エルシリアは例の”武勲を立てて爵位を貰った”者のひとりだ。どんな時にも相手に敬意を示し、間違ってもお前呼ばわりはしない立派な戦士だった。我が同胞《はらから》を預けてもいいと思った魔族は今のところ彼女ひとりで……」

 ところどころに師匠《アンリ》への嫌味を交えながら、ジルフェは歌うように思い出を語り始める。
 昔の「良かった思い出」というものは大抵、実際よりも美化されるものだがら、それと比べると余計に今の魔界貴族に嫌気がさすのかもしれない。

 力がなければ引き摺《ず》り下ろされることが当然の世界なら「大した力もないのに先達《せんだつ》が築いた権威にあぐらをかいて威張り散らしているゴミ」問題など起きないのだが、人と言うものは1度手にした権力や恩恵は手放したくないと思うものだ。だから貴族たちはあの制約を作って引き摺《ず》り下ろされないようにしたのだ。
 現に武勲で爵位を得ることができたのは何百年も昔までで、今ではせいぜい武勲を上げた当人に褒賞が出る程度であるらしい。と、これは執事《グラウス》からの受け売りだが。


「…………何故《なぜ》彼女の血を引いていてあそこまで嫌味な孫ができるのかが不思議でならない」
「わかる。エルシリアってぇ人は知らんが、ポチ《グラウス》の製造過程が気になるのはわかる」


 まぁ、そのジルフェが絶賛する方の子孫ですら年に何度かは「もっと高い地位があれば」的なことを口走るくらいだから、あの貴族社会に接していれば誰もがその毒に侵《おか》されていくものなのかもしれない。



 師匠《アンリ》とジルフェの会話だけ聞いていれば、物騒ながらも何処《どこ》か和気あいあいとした、所謂《いわゆる》ラストバトルも終わって、あとはエンドに向けて程よく過去語りでも~、みたいな雰囲気さえ感じる。
 RPGで言えば、勇者一行が始まりの村に戻って来て人々から歓迎されているシーン。
 おネェさん’sに囲まれてキャアキャア言われながら「出発する時は誰も見送ってくれなかったのになぁ」と笑いあう勇者と旅の仲間(♂)、ふくれっ面でそれを見ている旅の仲間(♀)。その背後で今までの旅のダイジェストが次々に流れているという、あの少し気だるくて懐かしい雰囲気。それに近いものを感じる。


 闇は消えた。紅竜と共に。
 あたしは彼から首も絞められたし、攻撃もされた。嫌な思いも散々《さんざん》した。

 しかし彼も言うなれば闇の被害者のひとり。
 メグもアイリスも闇に呑まれて他人を攻撃したにも関わらず何だかんだと生き残っているのに、紅竜だけは消えた。口に出しては言わないけれど、皆、紅竜がいなくなることを望んでいたから消えても誰も悲しまない。
 でも。
 本当にそれでよかったのだろうか。


 ――欺瞞《ギマン》。


 心の中で、もうひとりのあたしが嗤《わら》っている。
 義兄《あに》を目覚めさせるよう、あたしを嵌《は》めた彼女が。


 轟音を立てていた光の柱は徐々《じょじょ》に小さく、細くなって、最後にプツン、と途切れるような光をひとつ発して消えた。柱を取り囲むように蠢《うごめ》いていた蔓《つる》も、それが合図のように一斉にボロボロと崩れだし、壁や天井を這い回ってた蔓も黒い粉と化して降り注ぎ。
 白々と朝日が差し込み始めた時には室内には蔓の「つ」の字もなかった。巨大な鳥籠と椅子のような形をした塊も消えていた。
 地の底から響くような誰かの声はそれ以来1度も耳にすることはなかった。

 城内のあちこちには消え損ねた蔓《つる》の破片や、蔓《つる》から出たであろう粘液が残っている。手の空いた人たちが総出で掃除をしている。
 厨房では今日の式に間に合うよう夜を徹して作っていた料理が突然要らなくなった、と聞かされて阿鼻叫喚地獄と化している。
 明け方に納品された大量の花は、断ると花屋が首をくくる羽目になるからと買い取り、花束《ブーケ》にして招待客に配っている。
 何故《なぜ》式が中止になったのか、と誰も問わないで黙々と手を動かす様《さま》はあまりにも統制が取れ過ぎていて、もしかしてまだ闇の呪縛が抜けていないのではないかと思うほどだが、この城ではこれが普通らしい。この時ばかりはノイシュタイン城のメイドでよかったと切《せつ》に思った。





 とてつもなく長い夜が明けた。闇の呪縛という夜が。


『オーロラの語源となった神は暁《あかつき》、つまり夜明けを司《つかさ》どっているそうです。あなたには明けない夜などないのでしょうね』 


 と言って微笑んだ執事《グラウス》を急に思い出す。
 だからと言って、この夜が明けたのは絶対にあたしの力ではない。義兄《あに》と執事《グラウス》とアイリスと犀《さい》と、あとは師匠《アンリ》や勇者様やミルさんの力であって、あたしは全くかわいげのないマスコットキャラクターでしかなかった。何の役にも立たないどころか捕まったり怪我したり、と足手まといにしかなっていない。
 あたしがオーロラに似ていると言ったあの言葉は9割9分社交辞令。
 全部終わったのに全然心が晴れなくて達成感もないのは……あたしだけが全力を出していないからだ。

 胸の中でグルリ、と何かが渦を巻く。
 わかる。これは闇だ。
 強大な闇は消えてしまったかもしれないけれど、小さな闇は誰もが抱えている。あたしの中にも残っている。


 封印が解けて出て来た分は消えたけれども、それで終わりではない。人々の中にまだ巣食っている。あたしの中にも妬《ねた》みや嫉《そね》みが変わらずに残っている。
 この感情が何時《いつ》か誰かの心の中で爆発することがあったら、誰かが強大な力として利用しようと思ったら。
 そうなったらまた義兄《あに》のように、誰かを犠牲にしてことをおさめるのだろうか。

 いや。違う。


『生きていれば迷うこともあります。淀《よど》むこともあります。でも、誰もがその淀《よど》みを振り払う力を持っているものです』


 以前、執事《グラウス》の祖母はそう言った。振り払い方がわからないだけなんだ、と。
 ミルは闇を認めて共存すればいいと言っていた。
 闇との向き合い方を間違えなければ、きっと大丈夫。大丈夫だけれども……何も成果を出していないあたしが偉そうに言うことではない。





「大変大変!」

 その時だった。
 突然ガーゴイルが叫びながら部屋に転がり込んで来たのは。
 喋っている者も黙っている者も、部屋にいた皆の視線がガーゴイルに注がれる中、彼女《ガーゴイル》は真っ直ぐにあたしに駆け寄ると両手を取った。

「るぅチャン、早く!」




 部屋から連れ出されていくあたし《ルチナリス》に皆の視線が集中した。腰を浮かせる者もいた。多分、皆思ったことは同じだし、だったらきっと後を追いかけて来るだろう。
 けれどその頃既《すで》にあたしは廊下を全力疾走するガーゴイルに引っ張られていたから、本当に付いて来ているかどうかは見えていない。
 足はほとんど地につかず、ふわふわと頼りなく宙を蹴る。まるで凧揚げの凧になった気分だ。

 何処《どこ》へ? なんて言わない。
 口を開いたら舌を噛《か》む。それに、皆と同様、あたしもわかっている。




 ガーゴイルに連れて行かれた部屋は案の定と言うか予想通りと言うか、数時間前までいた、あの魔法陣の部屋だった。
 この中で義兄《あに》と執事《グラウス》が眠っている。ルチナリスは唾《つば》を飲み込み、固く閉ざされた扉を見上げる。

 呼ばれて連れて来られたのだから、入ったって文句は言われない。むしろ入らないでいるほうが怒られる。けれどノブを回すのにも、いや、ノブを掴《つか》むところからとんでもない覚悟がいる。
 だって呼ばれたということは、
 1:義兄《あに》と執事《グラウス》、もしくはそのどちらかが目を覚ました。
 2:義兄《あに》と執事《グラウス》、もしくはそのどちらかが息を引き取った。
 の2択。
 後者ではないと思いたい。しかし隣のガーゴイルの顔はどうにも嬉しそうには見えない。



 あの後。
 魔法陣と共に紅竜は消えた。しかし同じように光の中にいた義兄《あに》と執事《グラウス》が無事だった、なんてミラクルが起きるはずもなく。「辛《かろ》うじて息がある」と言う言葉ですらかなり譲歩した言い方になってしまうほど、生きているのかすら疑わしい状態だった。
 爛《ただ》れた皮膚は治る気配すらなく、それが彼らの体力と魔力が極限にまで落ちていることを物語っている。義兄《あに》はもちろんのこと、義兄《あに》の頭を抱え込むようにして倒れていた執事《グラウス》も口が利《き》ける状態ではなく、中で何があったのかは未《いま》だわからずじまい。

 師匠《アンリ》や犀《さい》によると、たとえ命を賭《と》す術であろうとも真っ先に術者が死んでしまっては意味がないから、呪文というものは多かれ少なかれ発動する術者をその術から保護するように組まれているらしい。
 だから義兄《あに》を取られた紅竜は保護を失って消滅し、義兄《あに》を抱え込んでいた執事《グラウス》は生き残ることができたのだろう、と彼らは言う。
 しかしそれでもあの惨状。
 「お札を燃やして灰になってしまっても3分の2が確認できれば全額交換して貰えます」なんて意味不明で不謹慎なナレーションが頭の中を横切ったほど、下手に動かせばボロっ、と崩れてしまいそうなソレを義兄《あに》と執事《グラウス》だと認識するのが怖かった。この10年ずっと隣り合わせでいたのに全然実感が沸いていなかった「彼らが死ぬこと」が急に身近に迫《せま》ってきたことに鳥肌が立った。

 ぶつかったり、動いた時に立てた風でも取り返しのつかないことになるかもしれない。と思うのは大袈裟かもしれないけれど、万が一現実になった日には目も当てられない。だったらその切欠《きっかけ》になりそうなことは極力排除しよう。これから待つ時間はいくらでも持てるのだし――。
 そう判断したあたしたちは彼らをお医者様に任せ、足音を忍ばせてその場を後にしたのだ。彼らの自己回復力に期待しつつ。



 かつてフロストドラゴンがノイシュタインを襲ったことがある。
 倒れた義兄《あに》を心配するあたしに、執事《グラウス》は、「魔力が高いからすぐに良くなる」と言ってのけた。現に数時間後には戦闘力だけ平常運転で復活した。意識が朦朧《もうろう》としているままだったからかえって大変なことになったけれど。

 執事《グラウス》の言う「魔力が高いから」は、回復魔法が使えるから、という意味ではない。自己回復力――人間が怪我をした時の自然治癒《ちゆ》と同じもの――の活性度が個々の持つ魔力量によって上昇するから回復が早いというだけだ。
 手足を切っても蜥蜴《とかげ》のように生えて来る、なんて意味ではないから、もし義兄《あに》や執事《グラウス》の体を故意に崩してしまったら大変なことになる。


 もしあたしが回復魔法の使い手だったなら、義兄《あに》と執事《グラウス》に生死の境を彷徨《さまよ》わせずに済んだのかもしれない。
 聖女候補の娘たちは揃って回復魔法の使い手だった。「聖女の力は癒《いや》しの力」と謳《うた》われていたから、あえてその力を持つ娘が候補として見出されていたということもある。ロンダヴェルグが悪魔の襲撃に遭《あ》った後、怪我人を癒《いや》すジェシカを取り囲み、聖女と呼んで涙を流す人々の姿も目にしている。

 あの力が使えたら。
 ミバ村の神父が教えてくれた時にもっと真剣に習っていれば今頃は。今更ながらにそう悔《く》いた。
 ミルは「治癒魔法が使えるのは魔法使いの素質があるということで、聖女とは関係ない」と言っていたけれど、どの力も持っていないあたしには免罪符にも慰《なぐさ》めにもならない。



「るぅチャン」
「……わかってる」

 促《うなが》すガーゴイルにひとつ頷《うなず》き、ノブに手をかけ、一気に回す。
 だが、開けた途端に飛び出して来た閃光と轟音に、あたし《ルチナリス》の頭の中は真っ白になった。



 部屋の中央には、魔法陣の外周に沿った形で点々と緑と黒の石が並んでいる。白い縞模様の入ったその石は所謂《いわゆる》パワーストーンと呼ばれる石だろう。部屋を出る時にお医者様が並べていた。
 オカルトと言うか、何処《どこ》か儀式的なのは魔族らしいと言えばそうなのだけれとも、効果としては厄除けか、もしくは空気中の細菌を排除するためのものだと推測される。手術をする時に白衣を着、手指を消毒するのは傷口から細菌感染させないためだと聞いたことがあるけれど、きっとそれと同じだ。
 しかし。

「なに、これ……」

 その中は、数時間前に部屋を出る前とはまるで違う。
 また時間を遡《さかのぼ》ってしまったのだろうか。そう思うほど、魔法陣が生きていた時に似ている。
 扉を開けた時に目を刺した閃光は、石の結界に遮《さえぎ》られ、円の中に留《とど》まっている。横に広がれないからと上に向かって伸びる様《さま》は光の柱そのものだ。
 そしてその光の柱の傍《かたわ》らには、追い出されたのか医師が倒れ伏している。光の内側にどうしても入れずにいた、あたしたちのように。

 義兄《あに》と執事《グラウス》の姿はない。
 と言うことは、あの光の柱の中にいるのだろうが……本当に何が起きたと言うのだろう。意識が戻らないまま夢遊病のようにフロストドラゴンと戦っていた時のように、義兄《あに》は無意識のうちにあの魔法陣を再発動させてしまったのだろうか。

 だとしたら。

 義兄《あに》も執事《グラウス》も満身創痍《まんしんそうい》。何時《いつ》その身が崩れてもおかしくない。
 だからこそ2回目の魔法陣には耐えられない可能性が高い。光に触れた途端に蒸発するように消えた蔓《つる》の破片と同様、瞬殺されてしまう。


「青藍様! グラウス様!」

 ルチナリスは光に駆け寄った。
 おそるおそる手を伸ばしてみたが、やはり光の壁に遮《さえぎ》られる。無理に突っ込めば執事《グラウス》のように一瞬で皮が剥《は》がれるのは間違いない。


 おかしいと思ったのよ。
 「今まで誰も勝てなかった」にしては紅竜の消滅はあっけなさ過ぎた。
 第二夫人が闇を葬り去る策を完成させるのに要した数十年に比べれば、紅竜が闇に染まっていた期間など大した時間ではない。だからあっけない消滅に甘んじても仕方がないと捉える人はいるかもしれない。
 しかし志半《こころざしなか》ばで敵の凶弾に倒れる人はもっと生に対して未練があるものだ。なのにどうして大した抵抗もなく死を選んだのだろう。そう思っていた。


「ガーゴイルさ、」

 ルチナリスは背後を振り返る。しかし自分を此処《ここ》まで連れて来たガーゴイルは扉付近で仰向けにひっくり返っていた。




 此処《ここ》に来てもう何度思ったか知れないが、何が起こったと言うのだろう。
 ガーゴイルは石像のように固まったまま動かない。元が石像なんだから突然動かなくなったところで「元に戻った」だけなんだし、と思えば問題に取り上げることすら判断に迷うけれど、現実問題として揺すっても叩いても動かないわけで。
 まぁ今までの経験則からして業火の中からでも「日焼けで皮が剥《む》けたわぁん♡」程度のリアクションで戻って来たことだし、と無責任に自分を納得させ、ルチナリスは医師に駆け寄る。
 彼はガーゴイルに比べて装甲が段違いに弱い《素材が石ではない》。
 もしあの光が石の輪を越えて出て来たら命にかかわるのは明らかだ。引き摺《ず》ってでも光の柱の傍《そば》から遠ざけなければ。

 で、残るは義兄《あに》と執事だが……ルチナリスは光の柱を見上げた。
 無理やり手を突っ込んで表皮が吹っ飛ぶかどうかも心配だけれども、運よく中に入れたとして彼らを引っ張り出すことは可能なのだろうか。引っ張っれるほど回復してくれていればいいけれど、腕がもげた! なんて悲しい事態は勘弁してほしい。

 ああ、もし回復していなかったらどうしよう。
布か木の板の上に乗せれば直接体を引っ張らずに済むけれど、その布か板をどうやって彼らの下に入れるか。上の皿をひっくり返すことなくテーブルクロスをサッと引っ張る技の逆で、サッと入れる猛者《もさ》とかいないだろうか。犀《執事長》がこっそりひっそりそんな技持ちだったりしたら、今までの仕打ちを全部忘れて尊敬してあげるのに! って、違う! 脱線脱線!!
 ルチナリスは大きく頭《かぶり》を振り、ガーゴイルの向こうで沈黙を保っている扉に目を向ける。
 そう言えばどうして誰も来ないのだろう。あたしが引っ張られていったのは見ているのに。付いて来そうな勢いだったのに。


 もしかして。

 嫌な予感がしてルチナリスは扉のノブを掴んで回した。回るけれども、案の定、扉はびくともしない。叩いても蹴っても動かない。



 さてこれは閉じ込められたと言っていいのでしょうか。
 それとも古い城だけに、建付《たてつ》けが悪くて引っかかっているだけでしょうか。

 いや考えるまでもなく、十中八九罠だろう。これで「義兄《あに》たちとの感動の再会を演出しました」だとしたら、悪趣味が過ぎると首謀者をボコボコにしたって許してもらえるに違いない。
 第一、あたしたち3人を一部屋に閉じ込めたところで感動の再会は来ない。
 あたしが再会に感動する前に執事《グラウス》が飛び出してくるのは想像するまでもなく確定事項だし、だとすればあたしは永遠に続く執事のターン《イチャつく男ふたり》を見せつけられて終わるだけじゃないのか? いつもみたいに。

 そんな悲しい想像に手が止まる。頭を扉に押し付けてドンヨリ落ち込みのポーズ、って誰も見ていないから誰の心にも刺さらない。

 そんなひとりボケツッコミ中、微《かす》かに聞こえたのは向こう側にいる人の気配。
 師匠《アンリ》や勇者《エリック》が来たのかもしれない。閉ざされた扉を前に、入っていいものか逡巡《しゅんじゅん》しているようにも聞こえる。


「師匠! 勇者様!」

 両手を扉に何度も叩きつけ、ルチナリスは大声で叫んだ。
 彼らが空気を読んでしまったら、最悪の事態《義兄と執事の死》を考慮して入るのを遠慮するかもしれない。それはマズい。しかし「こちらからも開かないのだ、非常事態だ」ということが伝われば、彼らは何としてでもこの扉を開けようとしてくれるだろう。
 何よりこちらは丸腰だが向こうは武器も男手もある。これだけ広い城だ。探せば侵入時の必需品「バールのようなもの」だって見つかる。
 他力本願と言われようとも! あたしは魔族とは違って使えるものは使う主義!!

 ……あまり胸を張って言うことではないが。



 その時だった。

「煩《うるさ》いなぁ」

 と声がしたのは。





 声がしたのは背後。
 ルチナリスは振り返る。しかし其処《そこ》には光の柱が立っているだけで人影らしいものは何もない。

いや。

 柱の中で溢《あふ》れかえりそうなほどに暴れていた光が、先ほどよりも弱くなっている。
 声の主のせいだろうか。何にせよ光が収束してくれるなら、否《いな》、義兄《あに》と執事《グラウス》が無事でいるならそれに越したことはない。
 
 光が徐々《じょじょ》に弱まっていくにつれ、中が見えて来る。
倒れ伏した義兄《あに》と執事《グラウス》がいる。
手の施《ほどこ》しようがない瀕死状態で「変わりがなく見える」と言うのもアレだけれども、変化はないようだ。腰から下がなくなっていました、だの、首が飛んでいました、だのに比べれば、変わらないでいてくれるほうがずっといい。


 光はそんな彼らのずっと上――空中の1点に集まっていく。
 両手で包み込めるほど小さくなったかと思うと、ポン、とひとつ弾けた。その中に現れたのは大きな帽子を被《かぶ》った少年で、あたしにはとてつもなく見覚えがある。


「トト!?」

 そう言えばもうずっと見かけていなかった。それどころか他にいろいろありすぎて忘却の彼方に吹き飛ばしてしまっていた、とは本人を前にとても口に出しては言えないが。
 彼に最後に会ったのは何処《どこ》だったろう。ルチナリスは記憶をひもとく。地下水路の鉄格子を開けるところ……いやそれは巻き戻しすぎだ。

 必死に思い返してみれば、戻って来た勇者《エリック》がトトの宿る短剣を執事《グラウス》に返していたのが最後ではなかっただろうか。
 あの後執事《グラウス》は光の中に入ったわけで。
 その間、トトがどうなっていたかと言えば――

「あ」

 もしかしなくても、本人の意思とは全く関係なく心中させられそうになっていたのではないか?
 それはマズい。実にマズい。

 いくら執事《グラウス》の上着の内ポケットに入れられて直接光に触れずに済んだのが功《こう》を奏《そう》したのだとしても! 
 無傷に見えるとしても!
 今までの彼《トト》の暴れっぷりを想像すると「俺を殺す気か!」と動けない義兄《あに》と執事《グラウス》に蹴りかかりそうで……マズい! それはマズい!!


「トト! 違うの!」

 浮気がバレた女みたいな台詞《セリフ》を吐いてしまったけれど、決して殺すつもりなんてなかったのよ。ほら、執事《グラウス》は義兄《あに》を前にすると他を全部忘れる性質《たち》だから。だから勇者様から返してもらったことも内ポケットに入れたことも忘れちゃっただけなのよ。それに時間もなかったし! と……何故《なぜ》あたしが執事《グラウス》をフォローして弁解せねばならないのだと思いつつ、ルチナリスは頭に浮かんだことを片っ端から並べ立てた。
 心を込めて言えばわかってくれる。だって一緒に旅した仲間じゃない! なんてわざとらしい青春色に脳内が染まることにも堪《た》えながら。

 だがしかし。

「……お前がロンダヴェルグ司教の依《よ》り代《しろ》か」

 何処《どこ》をどう聞いてもトトらしからぬ低い声に、弁解を吐き出し続けていた口が止まった。

 依《よ》り代《しろ》?
 そう言えば|犀《さい》が|自分《ルチナリス》のことを司教の|依《よ》り|代《しろ》と言っていたけれども、あの|依《よ》り代《しろ》?
 あの話の真相は魔界であれこれ推測したところで判明しないから捨て置いていたけれど、それがどうして今になって?


『――彼自身、体も魂も限界を超えていましたからね。代わりが欲しかったのでしょう』


 あの場にトトはいなかった。犀《さい》の言葉を聞くことなどできなかったはずだ。
 しかしあの場にいたあたし《ルチナリス》もミルも勇者《エリック》も犀《さい》も、先ほどのトトの台詞《セリフ》を吐《は》くには違和感が残る。あの台詞《セリフ》は、あの場にいなかった者が吐《は》く台詞《セリフ》だ。

 では誰だ。
 台詞《セリフ》回しに違和感がないのはアーデルハイム侯爵か紅竜くらいだが……まさか紅竜は死んでいなかった! とか!? 魂ならトトに乗り移ることは可能だ、ってちょっと待って! いくら何でもそれは! 


 目を丸くしたかと思うと考え込んだり唸《うな》ったり、コロコロと表情を変えるルチナリスを見下ろして、トトは嗤《わら》う。

「この精霊の体は小さすぎていかん。が、そこのふたりでは何時《いつ》動けるようになるかわかったものではない。
 しかしお前なら。
 ロンダヴェルグ司教が見出しただけのことはある。卑屈で恨みがましくて、負の感情に凝り固まっておるわ。お前ならば我が|依《よ》り代に|相応《ふさわ》しい」
 
 
 ジブジブとぬかるみの底で泡立つような喋り方。
 この喋り方を、あたしは何処《どこ》かで聞いた。




 どうやらあたしを此処《ここ》に呼び、閉じ込めた張本人様のお出ましらしい。
 ルチナリスはゆっくりと息を吐き、真っ直ぐにトトを見上げる。トトに見えるがこれはトトではない。フロストドラゴンが義兄《あに》の体を乗っ取った時のような、いや、あの時と同じだ。

「あたしの体が欲しいってわけね。でもそれならあたしが来るまで待っていなくても他に誰かいたんじゃない?」

 何故《なぜ》あたしに白羽の矢を立てる気になったかはおいおい探るとして。これでも魔王様の妹歴10年、多少のことでは動じない。動じているようには見せない。


 トトの足下《あしもと》には義兄《あに》と執事《グラウス》がいる。
 あれからもうかなりの時間が経《た》っているから、処置を施していた医者が相当のヤブでなければそろそろふたりも三途《さんず》の川の川縁《かわべり》からは引き戻されているはずだ。
 しかしまだ油断はできない。義兄《あに》の回復力が尋常でないことは知っているが、全身を聖女の光で焼かれたことなど今までなかったからどの程度回復しているかなんて見当もつかないし、そもそも意識が戻っていないのだから推《お》して知るべし。
 トト(の中にいる誰か)も彼らを人質にしているつもりはあるだろう。だからあの位置にいる。そしてあたしが自分の身を犠牲にして彼らを助けることを期待している。

 ヒロインなら身を挺《てい》して助けるべきなのだろう。いや、ヒロインでなくとも仲間を助けるために自分が犠牲になりにいく話は多い。
 しかし、だ。
 生憎《あいにく》とあたしだって命は惜しい。
 それに、そうして助けたところで義兄《あに》はあたしを覚えていない。感謝もされなければ思い返されることもなく、此処《ここ》であたしが儚《はかな》く命を散らしたことすら知らないで終わってしまう可能性も高い。
 それに、もし覚えていてくれたとしても、義兄《あに》はきっと「良くやった」と褒めてはくれないだろう。むしろ「どうしてそんなことをするんだ」と怒るに決まっている。散々自分のことは犠牲にして来たくせに、あたしが同じことをしたらそう言うのよ。

 そして何より! あたしがいなくなれば執事《グラウス》が思い描いているであろう薔薇色の(アブノーマルでしかない)未来とやらが実現してしまう。
 奴《やつ》の魔の手からお兄ちゃんを守る義務があるのよあたしには!


 ルチナリスはトトの足下《あしもと》に倒れているふたりに視線を落とす。
 いかにも大事と言わんばかりにしっかりと義兄《あに》を抱え込んだままの執事《グラウス》は、心なしか微笑《ほほえ》んでいるようにも見える。もうこのまま心中エンドを迎えてもいい、という彼の心の声が聞こえる気がするのは、ガーゴイルたちに洗脳されて目が濁りきっているからでも、耳が腐っているからでもないはずだ、けれど。
 不思議だ。
 奴《執事》が義兄《あに》に執着するのは魔眼に魅入《みい》られたせいなのに。
 偽りの気持ちでも20年以上抱えているとそちらを信じたくなるものなのだろうか。それともこれはただ単に忠義マシマシでこうなっただけのことで、心中エンド希望に見えるのはあたしの邪念のせいでしかないのか。
 まぁ何にせよ死なれては困る。目のやり場にも困る。
 あたしたちが此処《ここ》を医者に任せて場所を移したのは、これを視界に入れたくなかった、ってのもあるのよ。離れろ執事!!!! ではなくて。


「あ、あたしがティルファ様《司教》の依《よ》り代《しろ》だから待ってたってわけじゃないでしょ?」

 いけない。どうにも話が脱線してしまう。
 交渉は集中が鍵なのよ。あのふたりは視界に入れないようにしなくては。
 ルチナリスは胸を反らし、顎《あご》を上げる。トトからしてみれば精一杯虚勢を張っているようにしか見えないかもしれないけれど、それでもいい。あたしのモチベーションを保つのにトトの主観は重要ではない。

 交渉。
 そう、これは交渉なのだ。
 フロストドラゴンが義兄《あに》の体を乗っ取った時の執事《グラウス》を思い出すのよルチナリス!


 それに、取って付けた言い方になってしまうけれどもトトも気になる。
 義兄《あに》の体を乗っ取ったフロストドラゴンは、義兄《あに》の意識など深淵に沈めてしまった、と言った。あの時は執事《グラウス》がドラゴンを引っ張り出したから事なきを得たけれど、トトだって長くあのままにしておけば乗っ取られたまま戻れなくなるのではないだろうか。

 どうしよう。あれもこれもと手を出せば結局何ひとつ成功せずに終わってしまう、というのは諺《ことわざ》で言われるほど昔からのあるある話。
 執事《グラウス》ならトトなどスパッと切り捨てて義兄《あに》ひとりを助けるだろうけれど、優柔不断なあたしはトトも義兄《あに》も執事《グラウス》も、全員救いたい。いい子ぶっているかもしれないけれど、切り捨てるのは後味が悪い。



『拾い物をする余裕まであるのか』


 ロンダヴェルグが悪魔から逃げる時、途中で出会った少女を連れていたあたしにミルはそう言った。自分ひとり守る力もないのに、とその目は言っていた。
 実際、その子は悪魔に変化して襲って来た。
 ミルが咎《とが》めたのは、守る力がなければ共倒れになるだけだ、と言うことをあたしがわかっていなかったから。綺麗ごとで他人《ひと》は救えないから。期待して落とすほうが残酷だから。
 でも今回は違う。
 トトに憑《と》りついている誰かを引っ張り出すことはあたしにもできる。失敗すればあたしが代わりに乗っ取られるけれど、トトは救える。そのまま放置すればトトはトトでないものに変わってしまう。
 あたしが自分を犠牲にしてトトを助けたところで、ミルは「そうじゃない」と言うだろうけれど。


 ルチナリスはふよふよと宙を漂っている精霊を見上げる。
 声はかなり低いのに顔はいつものこましゃくれた少年顔で、そのギャップがかえって気味が悪い。演技で悪役じみた声を出しているのかとも思ったけれど、そういう時は顔もつられて悪人顔になるものだ。それがないのは演技ではない証拠。
 今のトトから感じる気味の悪さは、乗っ取られた時間が浅くて体と意識が分離していることからの違和感か、同化しすぎてあたしの知るトトでないものに変わっていることへの違和感か判断がつかないが……前者だと信じたい。


「あ、あたしの体が欲しいのなら、青藍様たちから離れてくれる?」

 体が欲しいのなら、ってもの凄くエッチな表現だ。花も恥じらう16の乙女に何を言わせるのよ! と言いたいところだけれども、いい加減話が進まないし、トトは何も思っていないようなのでそのまま通すことにする。
 意識するからエッチに聞こえるのよ。心に聖女を住まわせて邪念を吹き飛ばせば無問題《モーマンタイ》!

 ルチナリスは言いながら視線を下げる。
 点々と並ぶ石のひとつを蹴って並びを崩せば簡単に解けそうな結界だ、と思うのは甘い考えだろうか。実際、あたしは入れなかったわけだが、あれは元々怪我人のために無菌室化しているわけだし、もしかすると頭から殺菌剤を|被《かぶ》れば入れるようになるのかもしれない。
 ただ残念なことに殺菌剤はない。
 ならば、あの中にいるトトに出て来てもらうしかない。

 動けない義兄《あに》と執事《グラウス》を引っ張り出すのは至難の業《わざ》だし、できることなら結界は壊したくない。
 壊さなければ義兄《あに》と執事《グラウス》の容態急変も防げる、と一石二鳥。

 それに、今回の元凶はトト(の中の人)だ。
 こいつがあたしを乗っ取ろうと思わなければあたしは今、こんなところに閉じ込められてはいない。義兄《あに》と執事《グラウス》が人質にされていることもない。
 つまりはトト(の中の人)をどうにかすればあたしは部屋から出られるし、義兄《あに》と執事《グラウス》の治療も再開できる。
 一石四鳥。うん、これはいける!





「お前が来い」
「青藍様たちは動かすと危険なの。その近くでいろいろするつもりはないわ」

 案の定、トトは動かない。義兄《あに》たちを人質に取っているつもりなら当然だろう。
 しかしあたしが折れては本当に体を取られて終わりだ。
 わざわざあたしを指名するからにはあたしの体は奴《やつ》にとって利用価値があると言うこと。それにトトでは無理だが、あたしの大きさなら今の義兄《あに》と執事《グラウス》の息の根を止めることもできる。力任せに蹴り上げれば腕でも足でも粉砕できる。
 トトの中身が誰だかはわからないけれど、わからないからこそ、危害を加えないとは言えない。できるだけ彼らからは離したい。


 それにしても何故《なぜ》あたしなのだろう。
 ティルファ《司教》の依《よ》り代《しろ》と言ったのは犀《さい》だ。本人《ティルファ》から「そうするつもりで選んだ」と言われたわけではないし、依《よ》り代《しろ》に向いているとも思えない。
 第一、依《よ》り代《しろ》と言えば、普通は神下《お》ろしをする巫女のことだ。幼少期から超常の力があっただの、魂が汚れないように神殿の奥で育てただの、言ってみれば生贄《いけにえ》にするために育てられた義兄《あに》くらい徹底した世俗との切り離しが要るもので、どう間違ってもポッと出の村人Aが選ばれるものではない。
 村人Aならせいぜい、雨乞いのための人柱がいいところ。「聖女候補《若いネーチャン》の中でも特に若いから(意訳)」という犀《さい》の言からしても、依《よ》り代《しろ》と人柱を間違えて認識しているとしか思えない。

 それにロンダヴェルグに行ったこと自体があたしの意思だ。依《よ》り代《しろ》に必要だから連れてこい、と指示されたソロネや勇者《エリック》に引き|摺《ず》られて行ったわけでも、騙されて連れて行かれたわけでもない。むしろ「嫌だったらやめてもいい」と言われたくらいだ。
 魔界に来たのもあたしの意思。
 ギリギリまで何の力も出せないでいるあたしを、執事《グラウス》は人間界に残そうとも考えていた。カリンにロンダヴェルグまで送らせるよう話までをつけていた。

 だから矛盾が生まれる。
 トト(の中にいる誰か)が他人の体を乗っ取るつもりでいたとしても、前述したようにあたしは確実に魔界に来るわけではなかったのだから、最初からその候補に上がることはない。
 きっと最初は他にいたのだ。
 その人の体を使うことができなくなったら、あたしに目を付けただけだ。

 そしてもうひとつ。
 先ほど、義兄《あに》と執事《グラウス》では動けるようになるまで時間がかかると言っていたが、それまで待てない理由は何だ?
 どう考えたってあたしよりも彼らのほうが優良物件。魔力も戦闘力もあるし、知識もある。しかも乗っ取られようが抵抗できないときている。フロストドラゴンが義兄《あに》の体を乗っ取るために意識のない時を選んだように、今のうちなら楽勝で乗っ取れる。
 乗っ取ってもすぐには動けないのが問題なのか?
 ドラゴンとは違って意識がない相手は乗っ取れないのか?
 それとも、卑屈で恨みがましいことが重要なのか?
 このままのらりくらりと逃げ続ければ、時間切れ《タイムアップ》で終わるのか?

 ……いや。

 「重要」ではなくて「卑屈で恨みがましくなければ駄目」なのかもしれない。
 執事《グラウス》は義兄《あに》が絡むと意味不明に前向きだ。
 義兄《あに》は身分のわりに結構辛《つら》い育ちをした(執事談)らしいけれど、本人には全くそんな素振りはなかったし、その辛《つら》いはずの過去をきれいさっぱり忘れてしまっている。
 だとすれば。
 トト(の中の誰か)は最初はあたし以外の「卑屈で恨みがましい誰か」を乗っ取るつもりだった。
 でも叶わなくなった。
 だから偶然此処《ここ》にいた中であたしを選んだ。司教の依《よ》り代《しろ》がどうとかは、それを言われた時にあたしが絶望のあまりミルさんに暴言を吐いて意識不明になったことを覚えていて、それで揺さぶりをかけたのだろう。
 認めてくれていたと思っていた人に裏切られた、と。
 傍《そば》にいてくれた人もあたしを騙すためにいるのかもしれない、と。
 心が傷付いて脆《もろ》くなった時を狙うつもりだったに違いない。


 フロストドラゴンとの交渉で執事《グラウス》は「自分はドラゴンと同じ氷属性だから、義兄《あに》よりも使える」と言っていたが、今も同じことが言える。
 卑屈で恨みがましいあたしでなければ、トト(の中の誰か)は力が使えないのだとしたら。
 だったらどれだけ魔力量が多かろうとも義兄《あに》や執事《グラウス》に食指《しょくし》が動くことはない。
 彼らに「人質」以外の価値がなくて体を乗っ取られるおそれがないのだとすれば、あたしの対処も違って来る。


「何を考えている」
「より良い共存の道よ」
「……笑止。器の分際で」
「器は重要よ。どれだけ美味《おい》しいお茶っ葉だって、ちゃんと中でお湯がクルクル回るポットで淹《い》れなきゃ不味《まず》くなるの。見た目が猫とか薔薇とかってかわいくても、回らなきゃ意味がないの」
「体を失くした後の貴様は消滅するだけだ。共存などない」
「そうかしら」


 さて、ここまで考察ができればどう動くかは限られてくる。
 トト(の中の人)に時間がないのだとすれば、餌《あたし》を吊るせばフロストドラゴンのように食いついて来る。あたしを乗っ取ろうと行動を起こした隙に、

 はて。

 ルチナリスの思考が止まった。
 それで、どうしたらいいのだろう。


 執事《グラウス》は最後、弱り切ったフロストドラゴンを噛み砕き、逆に取り込んでしまった。
 あたしもトトをふん捕《づか》まえて頭からバリバリと……違う。きっとその時にはトトの中から本体が出て来ているだろうからトトを丸かじりするわけじゃない。

 けれど、あたしはただの人間だ。
 魔族(と言うかそれを言ったのはフロストドラゴンだから魔族もそうなのかは知らないけれど、実際のところ執事《グラウス》はそれをやったわけだし)の皆さんのように、他人を食べたらその人の力が手に入るわけでもない。食べたところで体を健《すこ》やかに保つ程度の役にしか立たないし、大半は数日後には排泄物として出されて終わり。人間というものは一生のうちに2t《トン》の排泄物を……ってそういう下ネタな雑学は置いといて!
 下手《へた》をすれば胃を悪くするだけだ。

 それに、そうして騙《だま》して取り込んで、それで彼はどうなるのだろう。
 あたしを恨むことは間違いない。信用したのに騙《だま》されるのだから。
 その恨みはあたしの中で燃え続ける。何時《いつ》の日かあたしの中の闇と混ざり合って、あたし自身を闇に変えて。
 そして何時《いつ》か義兄《あに》か、義兄《あに》に変わる誰かの命を使って封じられて。暗い中であたしを封じた義兄《あに》を恨んで闇を深くして。手が付けられないほど巨大になって。
 ……それでは今と同じだ。 




 まだ扉は開かない。
 扉から離れてしまったから、あの向こうに師匠《アンリ》や勇者《エリック》がいるかどうかもわからない。あれだけ叩いたのだから中で何かあったと気付いてくれているはずだ、と思うことしかできない。
 窓の外はかなり明るくなってきている。
 連絡が届かないままこちらに向かっていた馬車がそろそろ到着する頃だろう。長《おさ》とアイリスだけでなく、この城に勤める人々の関心もそちらに向かうだろうから、離れの一角で起きていることに新たに気付く者などきっといない。

 窓の外を鳥が横切る。
 鳩だろうか。目の色はわからなかったけれど、こちらを監視している風もなく、一瞬で消え去ってしまった。


「寄越せ。早く」

 そんな中、トトが苦しげに呻《うめ》く。
 再び「このまま時間切れ《タイムアップ》」を狙えばいいのではないか、という考えが首をもたげる。
 執事《グラウス》はフロストドラゴンを取り込む思惑があったからあんなじれったい方法を取ったけれど、取り込むつもりのないあたしが倣《なら》うことはないじゃないか、と。

 だが本当に時間切れ《タイムアップ》で何もなく終わるとは限らない。
 トトは完全に乗っ取られるだろう。
 もしかすると義兄《あに》と執事《グラウス》に無理やり入り込もうとするかもしれない。
 粉々になって全世界に散って、散るだけでは済まなくて、世界を黒く塗りつぶしてしまうかもしれない。まるで、


「寄越せェェェェエエエエエエッ!!」

 動かないルチナリスに業《ごう》を煮やしたのか、突如《とつじょ》トトが襲い掛かって来た。
 結界を飛び越えて来てくれたのは有難《ありがた》いが、突然のことに受け身も取れず、ルチナリスはトトの体ごと数メートル先まで吹っ飛ばされた。

 背中と後頭部をしたたかに打った。
 軽い脳震盪《のうしんとう》さえ感じたが、ヒロインらしく気を失ったところで誰も助けになど来ないことは暗黙の了解。扉の向こうで中の異変に気付いてくれていたところで開けられないのだから、助けを期待したところでこちらが時間切れ《タイムアップ》だ。

 今月の標語。自分のことは自分でしましょう。

 歯を食いしばり、ルチナリスは上体を起こす。



 その間にもトトは体勢を整えている。
 上空から見下ろしている。と思いきや、その両手を胸の前で合掌するように重ね、そして左右に開いた。
 手の間から現れたのは細長い針、ではなかった。槍《やり》。

 ちょっと待って!
 その光る代物にルチナリスは後退《あとずさ》った。冗談ではない。いくら細くて小さいと言っても全長10cmはある。刺されば痛いでは済まされない。
 あなた、ライン精霊じゃなかったの? 
 武器装備してるの? と言うか、そんなのあり!?

 
 スノウ=ベルやアドレイと同じ馬鹿でかい帽子と、義兄《あに》の懐中時計のように執事《グラウス》の短剣に宿っていること、そして「隔《へだ》ての森を通るには精霊の力が要る。前に魔界に行った時はスノウ=ベルがいたから通れたけれど」という執事《グラウス》の言葉から勝手にトトもライン精霊だと思い込んでいたけれど、もしかしたら違うのだろうか。
 思えば勇者《エリック》を此処《ここ》に送り込んだのは四大精霊のメイシアだ。通信用の精霊、竈《かまど》の精霊と八百万《やおよろず》な中で言えば、奴《やつ》は呪いの精霊だ。それからすれば隔《へだ》ての森用に呼んだからと言ってトトがライン精霊とは限らない。

 抜かった。
 てっきり相手も丸腰で戦闘力皆無(せいぜいスノウ=ベルのように噛みつくくらい)だと思っていたのに。
 学歴のないあたしでは、ない知恵を絞って謀略に嵌《は》めるよりも拳《こぶし》で決着を付けようぜ☆彡 のほうが合っていると言えば合って……いやいやいや。戦闘力もないあたしに何を期待しようって言うのよ!


「てぇぇぇぇぇぇぇぇぇい!!」

 考えている間にもトトは槍を構えて突っ込んで来る。
 それをルチナリスは僅差《きんさ》でかわす。
 視界でパラリと前髪が散った。鋏《はさみ》ではないからバッサリ切られてはいないと思うが、on the《 オン ザ 》眉毛になっていないか心配だ。


「おのれちょこざいな!」

 ちょこざいな、って今でも使う人がいるのね。ではなくて!
 ルチナリスにかわされたトトは、床で軽くステップを踏んだかと思うと、素早く身を翻《ひるが》して再び飛んでくる。
 明らかに顔面を狙っているであろう軌跡が見える。ルチナリスはのけ反《ぞ》って避けた。
 毎食ごとに食べ物を奪いに来るガーゴイルをかわしているうちに、回避スキルがMAXになっていたのだろうか、と思うほどの動きだ。火事場の馬鹿力ならぬ死闘の回避力。我ながら凄すぎる。でもなくて!

「貴様ぁぁぁぁぁぁ!」

 攻撃が悉《ことごと》くかわされることに激昂《げきこう》したのだろう。トトが顔を真っ赤にしている。
 執事《グラウス》や義兄《あに》のように魔法の同時攻撃がないだけ避《よ》けやすいし、今のあたしなら永遠にかわせそうな気すらするけれど、でも、逃げているだけでは駄目だ。
 交渉。そして歩み寄り。戦って勝てるようならあたしはメイドなどしていない。

「あたしの体を手に入れて、それでどうするの?」
「煩《うるさ》い煩《うるさ》い煩《うるさ》い煩《うるさ》い煩《うるさ》いっっ!」
 
 しかし遅かった。
 頭に血が上ったトトは聞く耳を持ってくれない。
 槍を頭上に上げ、両手でブンブンと振り回し始めた。まさか投げる気じゃ、と思ったのも束《つか》の間、

「てえいっ!」

 リクエストに応えました! と言わんばかりにトトは槍を投げつけた。
 回転したままの槍は微妙な弧を描いて飛んでくる。
 かわしたルチナリスの耳を、だが、もう1本が掠《かす》った。
 
「え?」

 1本じゃなかったっけ!? と驚く間もなく、2本目が脇腹を、3本目がふくらはぎを掠《かす》る。蔓《つる》に貫かれた痛みに比べれば雲泥の差だけれども、数が当たれば痛いだろう。そんな痛みをチリチリと感じる。

 マズい。
 ルチナリスは慌ててトトから距離を置く。置きながら部屋を見回す。
 槍が複数になるなんて反則だ。何か盾になるものでもないだろうか。
 しかし元々瓦礫《がれき》しかなかった部屋。覆うように蔓延《はびこ》っていた蔓も消し飛んだ今、見晴らしが良いったらありゃしない。

「逃げるな!」
「や、だって」

 何か。
 這《ほ》う這《ほ》うの体《てい》で逃げ惑いながら、ルチナリスは武器になりそうなものを探す。

 その視界に黒いものが映った。
 咄嗟《とっさ》に飛びついて握り締めたそれは、柄の部分に黒い石が入った細身の剣。

「……ミルさん、?」

 ルチナリスは息を呑んだ。
 石の色は違うけれど、これは確かにミルの剣だ。ポツポツと空いた穴は退魔の呪符が埋まってた痕《あと》に違いない。
 この剣は紅竜が持っていた。義兄《あに》を目覚めさせるのに使っていた。
 義兄《あに》が目覚めた後、紅竜はこの剣をずっと持ち歩いていたのだろうか。そうでもなければ此処《ここ》にある理由が想像できない。
 そして石の色。
 黒い石は何を意味しているのか。
 疑問は尽きないけれど、とにかく今は武器が欲しい。トトの槍を避けるために。


「どいつもこいつも俺をコケにしてぇぇぇえ!」

 トトが背後から振り下ろした槍を、ルチナリスは振り返りざま、剣で受け止める。
 ガキィン! と鋭い音と共に衝撃が肘《ひじ》まで伝わって来たけれど、それよりも。

「うっそお!」

 剣術など習ったこともないのに、剣がまるで体の一部のようだ。重みも感じない。それに反射神経も格段に良くなったような気がする。
 そう言えば、師匠《アンリ》はこの石のことを持ち主に力を与える石だと言っていなかっただろうか。石に封じた者の魂が生前に持っていた能力を剣の主に与えるのだと。
 だとすると。

 今のあたしはミルと同格の剣士だと、そういうこと!?


「必要だと言って、いらないと言って! 俺が何をした! 俺に何をした! 俺をこんなにしたのはお前らじゃないか!」

 感動に打ち震えるルチナリスとは対照的に、トトは悲鳴のように叫び続ける。
 「こんなにした」と言うが、何かしただろうか。あまりにも起きないから草むらに投げつけたことはあるけれど。
 あれか? 体ではなくて心が傷付いた、とそう言いたいのか?


「投げたのは悪かったわよ! でも起きないトトだって悪いんじゃない!」
「何の話だよ!」

 あれ? 違うのか?
 ではどういう意味だ?

「あの子供もそうだ。俺があそこまで押し上げてやったのに、俺に利用されるのは嫌だと!? そういう契約だったじゃないか! それなのにそれなのに、」

 トトは再び槍を出現させ、剣のように振り下ろす。だったら剣を出せばいいのに、とは口が裂けても言えない。
 防戦一方。ルチナリスはそれを受け止め続ける。受け止めて、考え続ける。

 あの子供?
 契約?
 何を言っているのだろう。
 

「誰も私を見てくれない。誰も私を認めてくれない。そんな奴《やつ》らはいらないっ!」

 突然トトの口調が変わった。まるでもうひとりの人格に入れ替わったかのようだ。
 ああ、そう言えばトトには誰かが憑《と》りついていた。その誰かが言っているのか?

「たったひとり、いてくれればよかった。なのに」

 誰だ。
 それがわかれば――



『――私は、あなたを救いたかった』


「ミルさん?」

 ふいに聞こえた声は確かにミルの声だった。
 でも彼女はいない。
 

 考えろルチナリス。
 時間がないけれど、でも。


 これは誰?
 ミルは何処《どこ》? 
 彼女が救いたかったのは、
 
「俺を無視するなァァァァァァァァアアアア!」

 槍の穂先が剣にぶつかる。
 パン! と頭の中で火花が散った。鮮やかな紅《あか》い火花が。

 これは。
 まさか。


「……紅、竜………………さま?」

 そうだ。トトの中にいるのは紅竜だ。そして紅竜が封印を解いた闇だ。
 戦力として人々の中から吸い出され、掻《か》き集められ。手に負えなくなったからといって封印され。そんな自分勝手な魔族に恨みを燻《くすぶ》らせ続けた闇だ。
 そして紅竜はそんな闇に接触した最初の人で。きっとメグ以上に離れられないくらいに闇と同化してしまっていて。彼は闇と同化して、紅竜自身が持っていた闇とも混ざり合って。
 そしてトトも。
 執事《グラウス》の家に褒美のひとつとして預けられたものの、精霊の国に返されて。
 人間の世界だって「仕事先から解雇された」だの「離縁を突きつけられた」だので戻ってくると肩身が狭いんだもの、精霊界だって似たようなものだろう。
 思えばあたしも執事《グラウス》も師匠《アンリ》も、みんなトトのことを隔《へだ》ての森を通るための道具としか見ていなかった。本人はそんなことおくびにもださないでいたけれど、内心ではかなり傷ついていたのかもしれない。


 そして問題は闇《紅竜》のほうだ。
 彼にはもう戻るべき体がない。このまま闇として消えるしかない。

 生まれた時から次期当主として立っていることを無言のままに強《し》いられていれば歪《ゆが》むものだ。と偉そうにあたしが言うことではないけれど、義兄《あに》やミル、師匠《アンリ》や犀《さい》といった人々からバラバラに聞こえて来るその人の人となりを寄せ集めれば鬱屈《うっくつ》具合もわからないものではない。むしろあたしのようなモブなら「できなくて当たり前」だし誰もそれほど期待しないけれど、当主になる(なった)人では失敗など許されないから辛《つら》かっただろう。
 陰《かげ》で努力しても「できて当たり前」で、努力を褒められることもない。まして近くに義兄《あに》みたいな「魔力量が桁《けた》外れの怪物」がいたら精神的な重圧も尋常ではない。
 魔族は実力主義。ひとつでも劣れば、彼が何十年もかけて積み上げて来たものは全て弟に奪われてしまうのだから。

 彼が義兄《あに》に執着したのは魔眼に魅入られたせいなのか。
 それとも自分にないものを持っている弟に憧れでもあったのか。
 自分より強い弟を従わせることで存在意義《レーゾンテートル》を保っていたのか。

 そして彼は今、紅竜ではなくただの闇になってしまっている。
 ただ過去の自分と同じだったというだけであたしを欲している。あんなに執着して手放そうとしなかった義兄《あに》ではなく。
 でも。
 だからと言って、あたしはあたしを捨てることはできない。彼を取り込んで自分の力にすることもできない。


『ただ、祓《はら》い方がわからないだけなんです』


 祓《はら》っては駄目。
 あたしにできることは、祓《はら》うことじゃない。


『お前の強さは、きっと何時《いつ》か義兄《あに》に届く。私は途中で諦めたから』


 違うわ。
 ミルさんは諦めなかった。だから此処《ここ》まで来たんじゃない。
 今ならわかる。彼女がどうして此処《ここ》に来たのか。
 彼女は助けたかったのだ。紅竜を。自分も闇に呑まれて、紅竜のことを忘れてしまって、それでも此処《ここ》に来たのだ。その人をバリバリ食べてしまっては、きっとミルも救われない。


――何ヲ 考エテ イルノ?


 闇ルチナリスの声がする。


「……教えないわ」

 ルチナリスはニヤリと笑うと、義兄《あに》を見た。
 何時《いつ》か勇者《エリック》はあたしと義兄《あに》の関係を、「やる気スイッチがお兄ちゃんについているからルチナリスさんは力が出せない」と言ったけれど、それは違った。
 やる気スイッチは何時《いつ》だってあたしが握っていた。許容量《キャパシティ》のないあたしの代わりに力を溜めて《プールして》おいてくれたのが義兄《あに》だ。


「(上手くいくと思う?)」

 息に乗せて問う。
 他の誰でもなく、自分に問いかける。


『お前のしたいようにしたらいい。他人がどう思うか、他人に迷惑がかかるのではないか、などと考えて萎縮《いしゅく》するのもお前の意思だから何も言わないが』

『どうか、後悔だけはなさいませんよう』


 ミルが、アドレイが背中を押してくれる。


『あなたはあなたのできることをしなさい。私が青藍様の代わりに戦うしかできないように、あなたにしかできないことがあるでしょう?』

『何処《どこ》の誰だかわからない人の幸せなんて願えないよ』

『その人の本質を見るようにしなければいけないよ』


 執事《グラウス》の、勇者《エリック》の言葉が。神父の言った意味が流れ込んで来る。


『ルチナリス様がどうしてあんなにゴチャゴチャこじらせてるのか全然わかんないですよ。守りたいから、じゃ駄目なんですか?』


 そうね。あたしは考えすぎだわ。考えなしに行動したってろくなことにはならないけれど。

 
『お前は、そう願う力がある。だから今まで生き延びて来られたんだろう?』


 そう、だったらいいけれど。
 後ろ向きになりそうな考えを振り払い、ルチナリスは両手を組む。


 大丈夫。今度は失敗しない。
 だって本気で想うもの。誰のためでもなく、あたしのために。失敗したら誰かが失望するとか、そんな世間体なんか関係なく、あたしが、そうしたいと思うから。

 組んだ両手から白い光が漏れる。

 ミルさん。あたしは諦めない。
 そしてあなたも諦めていない。時間が足りなかっただけで、あなたの意思はあたしが継ぐ。


 ルチナリスはトトに手を差し伸べる。

「ごめんね。辛《つら》かったよね」


 あたしを認めて、受け入れてくれたあの人たちが、あなたにもいればよかった。
 寄り添おうとしてくれた人がいたことに気付ければよかった。
 だから。
 あなたのことはあたしが覚えている。
 覚えていて、あげる。





『――お手をどうぞ、お嬢さん。ノイシュタインにようこそ』


 お願い。もう1度だけ力を貸して。お兄ちゃん。
 あなたが最後まで諦められなかった、たったひとりのお兄さんのために。




 先ほどと同じように引っ張られていくあたし《ルチナリス》の腕を、すれ違いざまに勇者《エリック》が掴《つか》んだ。

「僕も行く」

 と一言だけ言うと同じ速度で走り出す。
 まさか再び閉じ込められることはないと思うが、2度あることは3度あるとも言うし、ないだろうと思っていたことが起きるのが世の常《つね》と言うもの。あたしとしてもあんなことがあったばかりだし、付いて来てくれるのは有難《ありがた》い。

 フルアーマーの重りが付いているせいか、今度は凧のように足が浮くこともなく、あたしたちはその部屋についた。義兄《あに》たちが眠っている部屋だ。
 この部屋であたしが発した白い光は執事《グラウス》の祖母を回復させた光に似ていた。けれど光なんてものは大抵強ければ白く見えるものだし、義兄《あに》と執事《グラウス》を瀕死にさせた聖女の光だって見た目だけなら似たようなものだし、だから同じ効果は期待できない。できないけれど。

「るぅチャン」
「……わかってる」

 促《うなが》されるままノブに手をかける。そうしている間も勇者《エリック》はあたしの腕を掴《つか》んでいる。

「勇者様、手、どけて」
「何でさ」
「え、えっと、そう! そうよ! この扉はね、ひとりで開けないと開かない呪いがかかってるの!」

 と言うのは大ウソだけれども。
 心配してくれているのはわかる。有難《ありがた》いとも思う。けれど、この状態で腕を掴《つか》まれていると「新郎新婦の入場です!」みたいでちょっと嫌だ。新郎と新婦の役割分担が逆なのも嫌だ。
 あたしをさっさと嫁に出したい《追い出したい》執事《グラウス》にこんな姿を見られた日には、「家事もできそうになければまともな定職にもついていませんが仕方ありませんね」と全く仕方なさそうじゃない顔で押し付けられかねない。
 それは困る。奴《執事》の場合、無駄に知恵が回るから危険すぎる。




 そんなこんなで部屋に入ると案の定、執事《グラウス》が起き上がっていた。
 こちらに背を向けて床に座り込んでいるから勇者《エリック》と仲良く腕を組んで入場したところで見えていないだろうけれど、「それみたことか」感が半端ない。断固として腕を外させた過去のあたしを褒めてあげたい。ではなくて。

 結界に使われていた石が取り除《のぞ》かれていることから、治療は終わったものと思われる。
 触ったら崩れてしまいそうな状態からこの短時間でここまで回復するなんて、やっぱりあの光は執事《グラウス》の祖母が回復した光と同じものだったのだろうか。メイシアに言ったのは9割出まかせだったけれど、本当に聖女の力を発揮したのだろうか、と一瞬浮かれかけ……自分たちが入って来ても微動《びどう》だにしない丸まった背に、心臓を握り潰されるような痛みが走った。


「離してもらえるように言ってくれませんかね」

 そう促《うなが》してくる医師の声が酷《ひど》く遠い。
 


 こちらに背を向けている執事《グラウス》は、義兄《あに》を抱えている。
 義兄《あに》のほうが魔力が多いはずなのに、義兄《あに》は未《いま》だ目を覚まさないでいる。
 ずっと呼び掛けている様《さま》は、吹雪の中で出歩いて倒れた義兄《あに》を掻《か》き抱いていた執事《グラウス》を思い出す。


 目が覚めたとは言え、執事《グラウス》の両手は手首まで皮が剥《む》け、回復したとはとても言えない。髪は焼け焦げ、艶もない。服が比較的無事なのはわいせつ物陳列罪化を避けるために神様あたりの忖度《そんたく》が入ったのかもしれないが、それでもあちこちに破れや焦げが見える。
 顔の色がまだらになっているのは火傷《やけど》の痕《あと》だろうか。空気に触れただけでも痛みそうだ。
 そんな彼が、義兄《あに》に縋《すが》ったまま固まっている。
 どう説得しても離そうとしないので、|義兄《あに》と|執事《グラウス》双方共に傷の手当てができないでいるらしい。


 何故《なぜ》だ。
 魔力が多ければその分、回復に回せる魔力も増えるのではなかったのか?
 何故《なぜ》、執事《グラウス》が目を覚まして動いているのに、義兄《あに》は起きないのだ。


 考えられることはふたつ。
 1:紅竜と闇を消滅させる例の第二夫人の策で使い果たしてしまった。
 2:あたしが光を発したアレで、やっと回復しかけた|義兄《あに》の魔力を再び使い切ってしまった。
 

「あたしのせい……?」

 思わず口をついて出た問いには、誰も返事を返してくれない。それが無言で責められているように感じる。
 あの時、あたしは闇と紅竜を救いたかった。
 あの光を出せば救えると思ったわけではなかったし、出すつもりもなかった。どうして出たのはわからない、と言うのは後付けの言い訳でしかないけれど、あの時、本当にあたしは義兄《あに》の魔力の残量までは気にも留めていなかった。


 為《な》す術《すべ》なく近寄ったものの、この状態の執事《グラウス》から義兄《あに》を離せと言えるわけもなく、ルチナリスは同じように床に座り込む。
 トレードマークだった長い結い髪がばっさりとなくなっている他は、義兄《あに》の損傷具合も執事《グラウス》と変わらないようだ。師匠《アンリ》は「命を賭《と》す魔法でもある程度は術者を守る仕組みが入っている」と言っていたけれど、守られて、これなのだろうか。



「……これは?」

 力なく床に投げ出された義兄《あに》の手が何かを掴んだように握られている。
 開いてみれば、黒地に銀糸が混じった布の切れ端。紅竜が着ていた上着の生地に似ている。

 義兄《あに》が紅竜を離さないようにしていたのは、逃げられないように、だろうか。
 しかしあたしたちが目にした光景は、むしろ紅竜が義兄《あに》を捕まえているように見えた。こちらから何を言っても動こうとせず、とても逃げる意思があるようにも見えず。そう、まるで死を受け入れているようにすら思えた。

 今になって思えば、魔法陣に囚われるまで順風満帆だった紅竜が、たかが魔法陣に動きを封じられた程度で生を諦めるとは思えない。
 何があったのだろう。
 執事《グラウス》は何か聞いているのだろうか。
 ルチナリスは胸に手を当てる。
 光が収束した以降、ずっと塊が引っ掛かっているように感じる。自分ではない何かに、これが闇と紅竜ではないかと思っていたけれど……もしまた闇ルチナリスの部屋を訪れることがあれば、真相を聞くことができるのだろうか。
 結局のところ、あたしは彼らを救うことができたのだろうか。





「ほれ、何をぼんやり呆《ほう》けておるのじゃ。さっさと義兄《あに》を呼ばんかい」
「え? い、う、ぎゃっ!!」

 そして考え込んでいる間に、メイシアに背後を取られていた。
 思わず蛙《カエル》が潰れた時の断末魔のような声を上げてしまったものの、その言葉の中身を頭の中で繰り返し、ルチナリスはメイシアを二度見する。

「呼ぶ?」
「そうじゃ。お主《ぬし》が呼ばんで誰が呼ぶ」

 思えば紅竜もあたしに義兄《あに》を目覚めさせようとさせたけれど、あたしに目覚まし時計のスキルはない。師匠《アンリ》がトトを起こせと言った時に「聖なる乙女の力が云々《うんぬん》」と言っていたが、誰も彼も若い娘に夢を見過ぎではないだろうか。
 現に義兄《あに》の目を覚まさせたのはあたしではなくミルの剣だった。まさか今の義兄《あに》の胸にもう1度剣を突き刺そうなんてことを思いはしないけれど、あたしが呼びかけても意味がない、とも思う。

 そう言えばあの剣はどうなったのだろう。あの時のあたしの運動神経の良さは隠しスキルに目覚めたわけではなく、あの剣の――あの剣に付いている「魂の宝玉」のせいに違いない。
 だとすれば放置するのは危険だ。誰でも剣の達人になれる剣なんて、良くないことを思っている人に渡ったら絶対に人死が出る。
 ああ、あたしはあの剣を何処《どこ》に置いたんだっけ。投げ捨ててた覚えはないのだけれども。
 今更ながらにルチナリスはミルの剣を探す。


「どうしたの? 尿意?」
「違うわよ! ただ、ミルさんの剣があったはずなんだけど何処《どこ》に行ったのかな、って」

 乙女に向かって尿意? はないでしょうが! 乙女と美形はそういうものには縁がないのよ! という怒りはひとまず脇に退《ど》けて、ルチナリスは周囲を見回す。ミルの剣と聞いて|勇者《エリック》も同じようにあたりを見る。しかしどれだけ見回しても、あの細身の剣は何処《どこ》にもない。


「まぁ、紆余曲折《うよきょくせつ》はあったが結果的に精霊界が闇に呑み込まれずに済んだのはお主《ぬし》たちのおかげではあるからな。妾《わらわ》らも力を貸そうではないか! のう!」

 そんなルチナリスたちを無視したまま、メイシアは話を続けている。
 「のう」と相槌《あいづち》を求めた相手はジルフェのようだ。人間なら横目で見るか、目くばせをするかで済む行動なのだろう。が、首と胴体が固定されている人形のなりでは体ごと正面に向き合うしかなく……同じ精霊、それも同じ四大精霊にカウントされていても彼女《メイシア》と真正面から相対するのは嫌なのだろうか。ジルフェが、つ、と視線を逸《そ》らすのが見えた。


「お主《ぬし》もそのために此処《ここ》にいるのであろ? 滅多に加護を授けないお主じゃ。授け子がこんなところで命を落とすのは夢見が悪かろう。わかる。わかるぞ。授け子と言えば親も同然。さぞ、」
「勝手に話を進めるな」
「では犀《さい》が心配で離れられなかったという噂は真《まこと》だったのか? 前々からサージェルドやウォーティスとも話していたのだが、お前たち、よもやよからぬ関係に、」
「そんなわけがあるか!」

 ジルフェが此処《ここ》にいるのは犀《さい》に付き添っているのだとばかり思っていたが、メイシアの目を通すとこうも腐って見えるものなのか? 未《いま》だ会ったことのないサージェルド《火の精霊》とウォーティス《水の精霊》までもがそう見ているのか?
 それでもジルフェは見た目だけならお姉様に見えなくもないから……と思おうとしたものの、口調と性格は完全に男だから、彼《彼女》の人となりを多少なりとも知っていれば10人が10人、彼《彼女》は男だと断言するに違いない。
 だとすれば、久々に加護を授けた子《義兄》が気になって立ち去り難《がた》かったのだろう、と思ったほうがずっと心臓に優しい。そうだと思おう。そうしよう。
 前にも言ったかもしれないが、ごくごく一部にアブノーマルな性癖の奴《やつ》がいるからと言って、この世界の誰も彼もが同性愛に目覚めているわけではないのだ。

 メイシアに反抗して、あることないこと触れ回られるのを防ぐためか、結局のところそのつもりだったのかはわからないが、ジルフェは仏頂面《ぶっちょうづら》で肩を竦《すく》めると、執事《グラウス》の真向いに片膝をつく。

「……礼ならそこの人形とエルシリアに言え」
「…………………お婆様に? 何故《なぜ》」
「そういう約束だ」

 理由を語ることなく、ジルフェは義兄《あに》に手をかざす。その手の上に当然と言いたげな顔でメイシアが乗る。

「お前はその不気味な人形の恰好《かっこう》をやめろ。気が散る」
「ティルファはかわいらしいと言っておったぞ」
「あの爺さんは美的センスがおかしいだけだ」

 精霊だから美醜が人間のそれとは違うのだろう。呪いの人形にしか見えなくても精霊の間では|有難《ありがた》い姿なのだろうと思ったこともあったけれど、どうやらそれはあたしの思い込みでしかなかったらしい。
 とりあえず|ティルファ《 司教 》の美的センスが普通ではないことだけは同感だ。彼は前《さき》の聖女の助言だと言っていたが……年齢と性別と職業とTPOを考慮すればどうにも奇抜すぎるピンク頭を思い出す。


「ほれ、早《は》よせい」
「あたしも!?」

 メイシアに促《うなが》され、あたし《ルチナリス》もジルフェに倣《なら》って手をかざす。
 あたしが役に立つとは思えないけれど、ひとりじゃないならどうになかるかもしれない。そんな卑屈な心を少しだけ抱《かか》えて、あたしは心の中で義兄《あに》を呼んだ。



 目の前に海が広がっている。
 遥か遠く、水平線に半《なか》ば崩れるようにして月がある。
 銀色の光が波にさらわれて、あたし《ルチナリス》の足下にまで打ち寄せている。

「……此処《ここ》は?」

 今までいたメフィストフェレスの城ではない。ジルフェもメイシアも、師匠《アンリ》も勇者《エリック》もいない。
 無論、義兄《あに》も執事《グラウス》もいない。

 水は足首までしかないが、靴底が砂や岩場を踏んでいる感触もない。
 1歩踏み出せば深い水の中に沈んでしまいそうな恐怖が、水の冷たさと共に上《のぼ》って来る。



 以前、海の白昼夢を見たことがある。




 1度目は義兄《あに》と執事《グラウス》が口論をしていた時。急に視界が反転したかと思ったら海の中にいた。黒くて何も見えない底から蔓《つる》のようなものが蠢《うごめ》いて上がって来るのが見えた。
 思わず悲鳴をあげたら元の世界に戻っていて、義兄《あに》と執事《グラウス》が不思議そうな顔であたしを覗《のぞ》き込んでいたんだっけ。




 2度目も海の中だった。もっと海面に近いところにいた。
 水底に落ちていく白い手を、執事《グラウス》が必死に掴《つか》もうとしていた。

 そして3度目。今。
 順序から言えば徐々《じょじょ》に浮かんできているから海から出ていたところで間違っているわけではない。きっと問題にするほどのことでもない。
 問題にすべきは何故《なぜ》、海なのかというあたり。
 山育ちのあたしにとって、ノイシュタインに来るまで海なんてものは本の中にしかなかった。一生見ることなどないだろうと思っていた。それくらい縁遠い。間違っても心の故郷《ふるさと》だったりはしない。
 けれど、何度も来る夢ならきっと、することがあるのだろう。
 現実世界でもあたしは義兄《あに》を目覚めさせるところだったのだし、この白昼夢を見る時はいつも義兄《あに》が近くにいたし、それを思えば全く関係がないはずがない。物語でも、夢の中の人を目覚めさせることで現実世界が急展開することはよくある話。だとすればこの世界は義兄《あに》に繋《つな》がっている、とも考えられる。


 バササ、と何処《どこ》からともなく羽音がした。見上げれ紅《あか》い目をした鳩が何十羽と群れを成して、ルチナリスの頭上を通り過ぎて行く。

「な、に……?」

 鳩は苦手だ。苦手になった。
 ロンダヴェルグに悪魔の侵入を許した原因。そして此処《ここ》に来てからあたしたちをずっと監視していた鳥。
 それが大量に飛んでいるだけで悪い予感しかしない。

 何があったのだろう、と鳩の行く先に目を向けると、月が無数の鳩にまとわりつかれているのが見えた。
 ゴボリ、と音を立て、大きく傾《かし》ぐ。海面に接したところから、砂山に水をかけたようにさらさらと崩れていく。


 そう言えば。
 唐突に思う。
 執事《グラウス》は度々《たびたび》義兄《あに》を月に例えていた。義兄《あに》の後ろにはいつも月があった。



「――月の姫君は迎えに来た従者を断って、地上に残りました」
「誰!?」

 耳元で聞こえた声に、ルチナリスは慌てて振り返った。
 気配などなかった。なのに人がいる。黒いシルエットだったものがゆっくりと色づいていく。
 それはやがて、長い髪を頭の両端でツインテールにした少女になった。淡いクリーム色にも見える金髪と新緑の瞳が現れる。薄笑いを浮かべている。
 着ている服はあたしの古着――濃紺と白を基調にした子供向けのエプロンドレス――だ。襟元の蒼《あお》いリボンはあの城のメイドである印だから間違いない。そしてそれが彼女の素性をも表している。




 間違いない。彼女は自分が拾った赤子だ。服がないからと、あたしの服を着せていた。
 彼女のせいで義兄《あに》は怪我をし、あたしは城を追い出された。一緒に連れて出たはずの彼女は目を離した隙《すき》に消え失せ、町の人たちの手を借りて方々《ほうぼう》を探し回ったものの見つからず。
 それからかなり後、城を訪れた町長が執事《グラウス》から「家に帰った」と聞かされたことで尻切れ蜻蛉《トンボ》のように終わった事件。あたしが最後に見た彼女は5歳くらいだったけれど、最初から異様に成長が早かったから、さらに成長していても不思議には思わない。


「東洋の昔話。そういう結末だったらその後どうなると思う?」
「何を言っているの?」

 この少女に再会したら言ってやりたいことはいくらでもあった。あたしに子供を拾い育てる覚悟が足りなかったせいだと言われればその通りで、分別のつかない幼子だったこの子に文句を言うのは責任転嫁しているだけだってこともわかるけれど。
 でも。
 城を離れた僅《わず》かな間に義兄《あに》は魔界に行ってしまって……こうして魔界まで来て、ミルを始め多くの人が犠牲になって。それはこの子を育てようなどと言い出さなければ回避できた未来かもしれなくて。
 そんな相手と、一生かかっても行くことのない外国の昔話をネタにのんびりお喋《しゃべ》りできる心境にはとてもならない。

「青藍様は、まだすることがあるから残ったんだって言ったのよね」

 なのに、ルチナリスの険《けわ》しい顔にも動じることなく、少女は薄笑いを浮かべたまま言葉を紡ぐ。

「この世界ですることがあるから。魔力が残ってるってことはまだ行けないってことだ、って」
「何を言っているのよ!!」

 話が見えない。
 どうやら義兄《あに》にも同じ問答をしたようなのだが、それをあたしにも問う意味は何だ。街角アンケートでもしているのか?
 ああ、それよりも義兄《あに》が言ったという「この世界ですること」とはやはり第二夫人の策のことだろうか。それとも魔王役を任期の途中で放り出してはいけないと、そういう意味で言ったのだろうか。

「だからね」

 ニィ、と笑った口元が弧を描く。三日月のように。
 悪意を孕《はら》んだ道化師の仮面のように。

 
「魔力がなくなったら連れて行けるってことだわ!」

 ザン! と叩きつける音が聞こえた。
 あまりの音に振り返れば、月がさらに削れている。満月だった月が今や半月、いや、三日月に近い。その姿は水面に浮かぶ船のようでもあり……。

 月から零《こぼ》れ落ちたのであろう銀色の欠片《かけら》が、波に混ざって流れて来る。空に向かって伸びる|舳先《へさき》に無数の鳩がまとわりついている。
 キラリ、キラリ、と煌《きら》めくのは、鳩に体当たりされて散った月《船》の破片だ。

 あの船は何時《いつ》か砕ける。
 砕けて、海に落ちて、波に流されて。

 ルチナリスは息を呑んだ。
 これが夢なら何を意味しているのだろう。よくない知らせにしか思えない。
 何より現実世界の義兄《あに》は魔力を失い、回復すらできないでいる。そして、その魔力を搾《しぼ》り切ったのはあたしで。

「あたしが、」

 あたしのせいで、義兄《あに》はまた何処《どこ》かに行ってしまうのか?
 |何処《どこ》に?
 月に? いや、話の流れからして、あの月こそが義兄《あに》での命を表しているのではないのか?


「――どうする? 貴様の大事なものなのだろう」


 少女のものとは違う、別の声が聞こえる。
 この足下から響くような声は、誰の声だっただろう。


「あなた、誰!?」
「――全力で敵を倒さないとな」
「誰だっていいじゃない?」

 少女にこの声は聞こえていないのだろうか。もうひとりの声には全く反応することなく、嘲笑《ちょうしょう》混じりに返してくる。


 全力で。
 敵を倒す?

 これがただの夢だとしても……否《いな》、ただの夢ではない。このまま戻ったら、きっと義兄《あに》は。


 拳《こぶし》を握ろうとして、ルチナリスはその手に滑《ぬめ》るものを感じた。
 何時《いつ》の間にか、肘《ひじ》のあたりまで黒い蔓《つる》に覆われている。黒光りする表面は植物というよりも金属に近く、実際、触れてみると硬い感触が返って来る。

 まるで籠手《こて》だ。
 これで殴りかかれば素手の数倍の威力が望める。丸腰の小娘を倒すことも、あの鳩を追い払うこともきっとできる。
 けれど。

「蔓《つる》……黒い、蔓《つる》……」

 記憶をひもとくまでもなく、これは闇そのものだ。アイリスが、メグが、紅竜が、闇と同化した時にこの蔓《つる》を操っていたし、メフィストフェレス城内の至《いた》るところにも蔓延《はびこ》っていた。
 これが何故《なぜ》あたしの腕にあるか、と言えば、思いつくのは闇《紅竜》を取り込んだかもしれないということで。妙に冷静でいられるのも、思い当たるものがあるが故《ゆえ》のことかもしれなくて。

「あらぁ、なにそのみっともない腕は」

 少女は甲高い笑い声を立てる。
 伝わる悪意に、それほどまでに彼女に恨まれることをしただろうかと思うのは……加害者が被害者の心情を汲《く》み取れないことと同じなのだろう。義兄《あに》を取られるかもしれない、と冷たく当たったのは確かなのだから。

 ルチナリスは腕を見る。
 これは少女を前にして今なお抱く反感や敵意が固まったものかもしれない。使えば、あたしは闇と同化してしまうのかもしれない。今すぐに、ではないかもしれないけれど、何時《いつ》か。
 ミルは闇とは共存できると言っていたけれど、闇ルチナリスのように話しかけて来るだけの|代物《しろもの》ではなく、こうして実体を持った|もの《籠手》が目の前にあると、そんなのは理想論でしかないのではないかとも思えて来る。

「……助けて」

 でも。

「あら、醜いあんたにはお似合いよ、とっ」
「助けて! あたしに力を貸して!」

 少女の声を遮《さえぎ》り、ルチナリスは蔓《つる》の中の|拳《こぶし》を握る。すると籠手《こて》に無数の棘《とげ》が生えた。
 応《こた》えてくれたのか、こうして依存させていくつもりなのかはわからないが、今は。

 義兄《あに》を救えるなら。
 あたしの助けになってくれるなら!

 ルチナリスは少女に向かって駆けだした。
 あたしが闇墜《お》ちしようとも。今、全力で倒さないといけない敵は、彼女だ!

「行かせない!
 あんたと行ったって青藍様は幸せになんかなれないからっ!」




「青藍様!」

 執事《グラウス》の声に、ルチナリスは我に返った。
 何時《いつ》の間にかメフィストフェレスの城にいる。隣にはジルフェとメイシアが、向かいには義兄《あに》を抱えた執事《グラウス》が、その後ろからは見守るしかできないでいる師匠《アンリ》と勇者《エリック》、そして少し離れて犀《さい》の姿がある。

 あたしは少女に勝ったのだろうか。義兄《あに》に向けて差し出されている手には何も巻き付いていない。握ってみたが、蔓《つる》が現れることもない。
 あたりまえだ。あれは夢だったのだから。と言い切るには腕に残る感触が生々《なまなま》しい。あの世界で思ったように、彼処《あそこ》で成したことが現実世界に影響するのだとしたら……

 ふと気がつけば、ジルフェは腕を下《お》ろしている。
 メイシアもその膝に下《お》りている。
 自分ひとりが両手を差し出したまま呆《ほう》けている現実に、ルチナリスは慌てて手を下ろす。

 ……あたしは彼女を倒したのだろうか。
 倒せないまでも、追い払えたのだろうか。


 あの子は何だったのだろう。死神か、もしくはフロストドラゴンのように義兄《あに》を狙う「何か」か。
 フロストドラゴンは義兄《あに》の魔力目当てだったし、同じように魔力狙いの輩《やから》が多いらしいというのは聞いていたけれど、彼女はむしろ魔力がなくなったから、と連れて行こうとしていた。
 執事《グラウス》と情報共有しておいたほうがいい案件かもしれない。



「青藍様、青藍様! しっかりして下さい!」

 執事《グラウス》が悲痛な声を上げた。
 集まった一同が義兄《あに》を覗き込む中、ゆっくりと上がる瞼《まぶた》とその奥の蒼《あお》い目に、思わず目頭が熱くなった。
 義兄《あに》が帰って来た。
 蒼《あお》い目の義兄《あに》が。
 今度こそ本当にエンドロールだろうか。そう思って2度続いているから、思わないようにしたほうがいいのかもしれない。けれど。


「先生。犀《さい》……」

 取り囲んでいる面々の中から見知った顔を見つけたのか、義兄《あに》が掠《かす》れた声で呟く。おう、と返事を返す師匠《アンリ》と黙ったまま僅《わず》かに笑みを見せる犀《さい》を見、それから義兄《あに》は見守る面々に視線を動かす。

 義兄《あに》はメイシアとは面識がない。だから通り過ぎた。
 ジルフェとも意識のある時に会ったわけではない。だから知らなくて当然だ。
 勇者《エリック》は……前にも忘れられていたから覚えている可能性は薄い。
 で、あたしは?
 夢の中で義兄《あに》はあたしを覚えていた。あの手であたしのあたまを撫でて、



 もしかして、と淡い期待を抱いていたことは否めない。
 義兄《あに》の視線が自分をも素通りしたことに、悔しいと思わなかったとしたら嘘になる。
 あたしは義兄《あに》を連れ戻すために頑張ったのに。
 魔界くんだりまで来て、蔓《つる》に足を貫《つらぬ》かれたり、壁に貼り付けられたり、さっきだって死神かもしれない女の子と戦ってきたのよ。それなのに。
 「〇〇してあげたのに」という言葉は、ただの自己満足でしかなくて、あたしは義兄《あに》にそうしてくれと頼まれたわけではなくて、代償を求めるものでもなくて。
 それは、わかっていたのに。


 義兄《あに》の記憶は戻ってはいない。
 第二夫人のお茶会の席であたしのことを覚えていた義兄《あに》は、第二夫人や前当主やミルと同様に闇に呑み込まれた分なのだろう。
 そしてその闇はあたしが消した。もしかしたらあたしの中に残っているアレが闇の名残なのかもしれないけれど、紅竜の意識すら残っていないあの塊の何処《どこ》に義兄《あに》たちを見い出すことができるだろう。


 
 義兄《あに》はひとしきり見回した後、自分を抱えている執事《グラウス》に目を止めた。
 覚えているものがあるのか、瞬《まばた》きもしないで見上げている。


 胸の中で泡立つ感情を、ルチナリスは深呼吸をして抑《おさ》える。
 彼らはあたしよりも古くから知り合っている。現に連れ去られる直前まで、義兄《あに》は執事《グラウス》のことを、「執事」ではなく「夜会で1度会ったきりの相手」としてではあるが覚えていた。
 新しい記憶から徐々《じょじょ》に抜け落ちているらしいから、あたし《10年前》は忘れてしまっていても、執事《25年前》なら覚えているかもしれない。だから覚えていたからと言って、あたしと執事《グラウス》の間に優劣が付いたわけではない。
 だから……。


「誰……?」

 だが。
 聞こえた声にルチナリスは小さく息を漏《も》らした。
 漏《も》らして……執事《グラウス》も同じように覚えられていないことを喜ぶ自分は何と浅ましいのだろう、と下唇を噛み締める。
  


『魔力がなくなったら連れて行けるってことだわ!』


 義兄《あに》は連れて行かれてしまったのか。
 あの少女に? それとも紅竜に?

 この人はあたしを知らない。あたしの「お兄ちゃん」ではない。
 執事《グラウス》にとっても――。



 執事《グラウス》は口元を歪めていたが、やがて淡い笑みを浮かべた。

「グラウス=カッツェと申します。……我が君」

 初めて会うかのように、そう言った。

 執事《グラウス》は義兄《あに》から記憶が抜け落ちていくことを知っていた。だから、何時《いつ》かこんな日が来ることも覚悟していたのだろう。
 義兄《あに》が義兄《あに》でなくなっても、こうして笑いかけるつもりでいたのだろう。
 でもあたしは?
 あたしは……ショックを受けるだけのあたしは、まだまだ執事《グラウス》には及ばないということで……。



「お前の犬だ。ちゃんと死ぬまで面倒みてやるんだぞ」

 師匠《アンリ》の声に、義兄《あに》は1度だけ師匠《アンリ》を見、それからもう1度、執事《グラウス》に目を向ける。おずおずと銀色の髪に手を伸ばし、聞こえないほどの小さな声で、

「……綺麗な、髪」

 と呟いた。

「はい。……はい」

 下を向いた執事《グラウス》が、周囲が見ていることも気にせず義兄《あに》を抱きしめる。
 驚いた顔をした義兄《あに》は助けを求めるように師匠《アンリ》を見上げたものの……「お前の犬」と言われたことに責任でも感じたのだろうか。恐々《こわごわ》と、自分にじゃれついてくる大型犬の背を撫でるように、その手で執事《グラウス》の背を撫でている。



 嗚呼《ああ》。
 25年前に執事《グラウス》が出会った「姫」はきっとこうだったのだ。
 執事《グラウス》は過保護だ、思い出を都合よく上方修正しているのだろう、とずっと思っていたけれど、義兄《あに》は元々こうだったのだ。
 あたしが知っている義兄《あに》は、何処《どこ》にもいない。
 誰よりも強かった、魔王だった義兄《あに》は、もう何処《どこ》にも。





「お兄ちゃん、生きてて、よかったね」
「そう、ね……」

 宥《なだ》めてくる勇者《エリック》に、あたしはただ俯《うつむ》くことしかできなかった。